北史卷五十五 列傳第四十三 唐邕

唐邕(字道和、太原晉陽の人)。高歓・文襄・文宣以下六代に仕え、四十余年にわたり北齊の兵権・軍務を統括した実務官僚。文宣に「一人で千人に値する」と評されるほど信頼されたが、後主期に北周へ降った。

年表(7件)

出自と文襄・文宣への奉仕

  • 唐邕、字は道和。太原晉陽の人、先祖は晉昌から移った。父靈芝は魏の壽陽令、唐邕貴顕となり司空公を追贈された。
  • 若くして明敏で才幹があり、高歡の外兵曹に直宿し文襄大將軍督護に抜擢された。文襄が横死した緊急時、文宣は夜中に唐邕を召して四方鎮圧の配置を指示させ、たちどころに処理させた。天保初年、給事中・中書舎人を兼ね廣漢郷男に封ぜられた。
  • 奚族討伐に従い、黃門侍郎袁猛が騎兵事の割り当てを怠り鞭百の罰を受けると、唐邕が代わって騎兵事を監し、猛の職を与えられた。文宣の毎年の出塞には必ず随行し兵機を専管、軍吏以上の功績や来歴を諳んじ即答した。羊汾堤の講武では諸軍の節度を任され、宴射の礼でも高く評価され、太后の前で丞相斛律金の上座に座らされた。文宣は「唐邕一人で千人に値する」と太后に述べ、たびたび物を賜った。「唐邕は手で文書を書き、口で処分を下し、耳で言葉を聞く、まさに異能の士だ」と文宣は評した。自らの青鼠皮裘を脱いで「朕と共に古くなろう」と唐邕に授けたこともある。文宣が并州城を望んで「金城湯池」と評された際「私は唐邕こそ金城と思う、これはそうではない」と述べたという。高德正の讒言に対しても文宣は取り合わず、逆に讒言者を殺し、唐邕への信頼を示した。

孝昭・武成・後主期

  • 孝昭が輔政すると相府司馬に、皇建元年給事黃門侍郎、太寧元年大司農卿。河清元年、突厥入寇に際し晉陽へ急行し兵馬を集め、途上で敵の急迫を知ると勅を改め期日を早めて兵を集結させた。侍中・并州大中正・護軍將軍に拝された。
  • 武成に随行した晉陽で、武成が酔って虞候都督范洪を殺そうとした際、酒による処罰の危うさを諫めて洪を救った。軍人の田猟訓練の頻度を減らすよう進言し、河陽・晉州の防備強化として六州の軍人と家族を移して軍府を設けることも進言、いずれも許可された。趙州刺史に出た際は侍中・護軍・大中正をそのまま帯びる異例の待遇を受けた。政は厳酷だが豪強を抑え公事はよく治まったと評された。中書監・侍中・尚書右僕射に遷った。
  • 武平初年、事件処理の不公正で御史に弾劾され除名されたが、旧恩により復官、尚書令・晉昌王に累進した。高思好の反乱の際は晉陽で諸軍を監督した。北周軍の洛陽攻撃に高阿那肱が援軍に赴いた際、唐邕の兵配分に不満を持たれ讒言され疎まれた。武平七年、後主が平陽敗戦から鄴へ逃げ帰った際、唐邕は高阿那肱の讒言を恐れ晉陽に留まり、莫多婁敬顯らと安德王を帝に擁立した。まもなく北周に降り、上開府儀同大將軍から少司馬・安福郡公・鳳州刺史に至り、隋の開皇初年に没した。

人物評

  • 明敏な識見で齊一代を通じて兵機を典り、九州の軍勢・四方の募兵・強弱多少・番代の往還・器械の精粗・糧儲の虚実に精通していた。太寧以来の奢侈の中、財政の取捨に大いに寄与した。しかし重用されるにつれ意気は高慢になり、越訴された案件は多く、御史台と左丞に弾劾されたが帝の裁許で免れることが続いた。司空従事中郎封長業・太尉記室参軍平濤ら徴税の期限違反者を各三十杖打つなど、朝士を鞭打った前例のない宰相として大いに物議を醸した。
  • 三子。長子君明は開府儀同三司、開皇初年に応州刺史で没した。次子君徹は中書舍人、隋の戎・順二州刺史、大業中に武賁郎將で没した。少子君德は唐邕が北周に降ったことに連座して処刑された。
  • 齊朝は高歡の丞相時代からの外兵・騎兵二曹を、受禅後も尚書に統合せず唐邕・白建に主管させ、外兵省・騎兵省と称した。のち両者の地位が高まると各々省主を置き、中書舍人が実務を分掌したため、世に「唐・白」と併称された。