北史卷五十五 列傳第四十三 杜弼

杜弼(字輔玄、中山曲陽の人)。清廉な吏才で知られ、高歓の腹心として諫言を重ねた東魏・北齊の重臣。仏性論争や刑賞論で文才・学識を示し、廷尉卿・海州刺史などを歴任したが、禅譲議論での直言が文宣帝の怒りを買い処刑された。子の杜臺卿は隋代に《玉燭寶典》を著した学者として知られる。

年表(7件)
  • 孝昌初年太学博士、のち光州曲城令となる
  • 天保十年文宣の怒りを買い処刑される
  • 天統五年開府儀同三司・尚書右僕射を追贈される
  • 武平元年驃騎大將軍・諡文肅を追贈される
  • 乾明初年子の蕤・臺卿が鄴に戻る
  • 開皇中子の蕤が開州刺史で没する
  • 開皇初年子の臺卿が召されて朝に入り《玉燭寶典》を著す

出自と学識

  • 杜弼、字は輔玄。中山曲陽の人。祖父彥衡は淮南太守、父慈度は繁畤令。
  • 幼くして聡敏だったが家貧しく、十三歳で郡学に学んだ。定州刺史甄琛の試問に見事に応答して驚かれ、任城王澄にも激賞されて王佐の才と評されたが、家の官位が低く優遇されなかった。軍功により征虜府墨曹参軍として管記を典り、筆札に長じ時人に推された。孝昌初年、太学博士、のち光州曲城令として清廉な政を行った。
  • 父が賊に殺され六年喪に服した後、侍御史となり台中の弾劾に信任された。竇泰の西征に監軍として従ったが竇泰が敗死すると罪を問われ、房謨の弁護でようやく免れた。

高歡への諫言

  • 大行台郎中に累進、機密を掌り信頼された。文書に及ばぬ緊急事は空紙に直接指示させることもあった。禅譲を密かに勧めた際は高歡に杖で追い払われたこともある。
  • 相府法曹辛子炎が「取署」の「署」を「樹」と読んで高歡の諱を犯し杖罰を受けかけた際、杜弼は「孔子は『徴』と言い『在』とは言わない」と孔子の例を引いて弁護し、逆に叱責されたが、辛子炎は結局赦された。
  • 高歡が晉陽から東征した際、爾朱氏の貪政を改め村人が社酒を飲むのも憚る清廉さを保ったが、洛陽平定後は賄賂が横行し始めた。杜弼がこれを訴えると、高歡は「督将の家族の多くは関西にあり、黑獺(宇文泰)が誘っている、南には蕭衍がおり士大夫はこれを正統と仰いでいる、急な取り締まりは士卒の離反を招く、しばし待て」と諭した。
  • 沙苑の役に先立ち内賊掃討を求めた杜弼に対し、高歡は兵士に弓矢を構えさせて杜弼を隊列の間に通らせ、「刀矢が向けられても撃たれぬのに、それでも肝を潰すではないか、勲貴の将らは百死一生の身、多少の貪欲は大目に見よ」と諭し、杜弼は謝罪した。芒山の戦勝の露布を絹に直接書き上げ、功により定陽縣男に叙せられた。

仏性論争と軍事

  • 使者として魏帝に謁見した際、九龍殿で仏性・法性の異同を問われ、「体は一つだが、寛狭は文脈次第で変わる」という論理で答え、帝に称賛されて《地持経》一部・帛百疋を賜った。老子《道德經》の注二巻を著し上表した。廷尉卿に遷った。
  • 梁の貞陽侯蕭明らの彭城侵攻に対し軍司として従軍、文襄から胡馬を贈られ、刑賞の要諦(一人を賞して天下を喜ばせ、一人を罰して天下を服させる)を説き高く評価された。蕭明を破り、渦陽で侯景も破った。
  • 顯陽殿の仏教講論で誰も論破できぬ中、杜弼だけが屈しなかった。王思政の潁州攻略後には、思政捕縛の要因を「逆順・大小・強弱の理を見誤った」と分析し、文襄と議論を交わした。

晩年と最期

  • 高洋(文宣)が丞相となると中書令・長史に進み、禅譲策定の功で衛尉卿・長安縣伯に別封された。
  • 邢邵と生死・魂神の存否を論じ合い、「無から有が生じても疑わない以上、前生から後生への転生も怪しむに足らぬ」等の論陣を張り、往復書簡の末に邢邵は理屈負けした。
  • 鄭州の事を行ったが謀反の讒言に遭い、取り調べで無実と判明したが朝見を絶たれた。次子の廷尉監臺卿の断獄遅延の件でも咎められ臨海鎮に徙されたが、東方白額の乱で城を守り抜いた。文宣に嘉され海州・膠州刺史を歴任、清廉で吏人に慕われた。《莊子惠施篇》《易上下繫》の注《新注義苑》を著した。
  • 文宣の禅譲議論に諫言し、「治国に用いるべきは中国人だ」との発言を譏りと受け取られ、高德正との不和も重なり讒言され、天保十年、飲酒の勢いで文宣が過去の失錯を数え上げ、州へ使者を送って斬らせた。すぐ悔いて追わせたが間に合わなかった。子の蕤・遠は臨海鎮へ徙され、次子臺卿は東豫州へ徙された。乾明初年、二人とも鄴に戻れた。天統五年、開府儀同三司・尚書右僕射を追贈、武平元年さらに驃騎大將軍・諡文肅を追贈された。

杜蕤・杜臺卿とその子孫

  • 蕤、字は子美。学業は弟の臺卿に及ばなかったが実務手腕は上回った。武平中、大理少卿・散騎常侍・聘陳使主・吏部郎中を兼ね、隋の開皇中、開州刺史で没した。子の公贍は隋で安陽令、公贍の子之松は大業中に起居舍人。
  • 臺卿、字は少山。博覧強記で文をよくした。齊で中書・黃門侍郎、国史修撰を務めたが、地位を得ると人を陥れることが多く、趙彥深・和士開・高阿那肱らに取り入られた。尚書左丞を兼ねた際、耳が聾していたことから省中で戯れられ、訴えを理解できず大声で怒鳴ることもあった。北周が齊を平定すると郷里に帰り、《礼記》《春秋》を子弟に講じた。隋の開皇初年、召されて朝に入り、《月令》を敷衍して《玉燭寶典》十二巻を著し帛二百疋を賜った。耳の病で吏職に堪えず国史編纂・著作郎となり、致仕後に家で没した。文集十五巻、《齊記》二十巻を著した。子はいない。