北史卷五十五 列傳第四十三 陳元康
陳元康(字長猷、廣宗の人)。文史・実務に通じ高歓・高澄(文襄)父子に仕えた東魏の腹心。高歓の号令九十余条を暗記するほどの記憶力を持ち、芒山の戦いでは追撃を進言したが容れられず(高歓は後に悔いた)、高歓の臨終には「元康と共に事を決めよ」と遺言されるほど信頼された。文襄が刺客に暗殺された際にはこれを抱きかかえ、翌年その母も悲しみのあまり没した。子の陳善藏は隋に仕えた。
出自と抜擢
- 陳元康、字は長猷。廣宗の人。父の終德は魏の濟陰內史で、元康が貴顕となったのち度支尚書・諡貞を追贈された。
- 文史に通じ機敏で実務能力があった。魏の正光年間、李崇に従って北伐し軍功により臨清男に叙せられた。普泰年間には主書となり、司徒高昂の記室に累進した。
- 孫搴が急死した際、司馬子如は好んで代わりを推薦するよう命じられ魏收を挙げたが、高歡の意には適わなかった。高季式に問われた司徒(司馬子如)が「謹密な人物」として陳元康を推し、召し出された陳元康はその場で大丞相功曹に抜擢され機密事務を任された。文書は華美でなく実用的で機敏と評され、大行台都官郎に遷り安平子に封ぜられた。
高歡・高澄への忠勤
- 軍国の多事に通じ、高歡が出征の際に馬上で発した九十余条の号令を陳元康は指折り数えてすべて記憶した。高歡は「これほどの人物は世に稀だ、天が我に授けた佐であろう」と称えた。趙彥深も機密に通じたが、陳元康の勢力は趙彥深の上にあった。
- 高歡が劉蠡升を討った際、寒さと深雪の中、氈の下で軍書を書き続け、筆が凍る間もなく数枚を書き上げ、高歡から「これは孔子に劣らぬのではないか」と評された。
- 高歡が高澄(文襄)を激しく折檻した際、陳元康は涙ながらに諫め、以後高歡は怒りを抑えるようになった。高仲密の叛乱で崔暹が処罰されかけた際にも、陳元康が「世子(文襄)は天下を託される身、崔暹一人を庇えぬなら世間の人はなおさらだ」と諫めて崔暹を救った。
文襄輔政期の重用
- 文襄が鄴で崔暹・崔季舒・崔昂ら、張亮・張徽纂らを用いたが、いずれも陳元康の下位に置かれた。当時「三崔二張、一康に及ばず」と評された。左衙将軍郭瓊が罪により死んだ際、その子婦(盧道虔の娘)が没官となったが、高歡はこれを陳元康の妻として与えた。陳元康はもとの妻李氏を棄てたため識者に非難された。
- 財利に溺れて金帛を受納し、州郡を跨いで貸借取引を行ったため清議の批判を受けた。芒山の戦いでは陣図を紛失し、危険を冒して取り戻した。西魏軍が敗走した際、追撃を渋る将軍らに対し「両雄の争いは久しい、この大勝は天授の機、必ず乗じて追うべし」と主張したが、高歡は従わなかった(後にこれを高歡は悔いた)。
- 高歡が病篤くなった際、文襄に「芒山の戦で元康の言を用いなかったことが患いを残した、これを恨みとし死んでも瞑目できぬ、事は元康と共に決めよ」と遺言した。
高歡の死と文襄の横死
- 高歡が崩じた際、喪を秘したが陳元康だけがこれを知り、文襄が晉陽から鄴へ赴く際、遺命数十条を作成して段孝先・趙彥深に託した。昌国縣公に別封された。
- 侯景の反乱で文襄が諸将に迫られ崔暹を殺そうとした際にも陳元康が諫めて止めた。高岳が侯景討伐に手間取った際には潘相樂でなく慕容紹宗を起用すべきと進言し、破景を実現、金五十斤を賜った。王思政が拠る潁城攻略でも進撃を進言し文襄の親征を成功させ、金百鋌を賜った。
- 魏が文襄に相国・齊王を授けた際、陳元康は時期尚早と反対、崔暹に間隙を突かれ陸元規を対抗馬として推挙されるなど、文襄との関係にも軋みが生じ始めた。
- 魏の禅譲を控えた人事評定の場で、文襄の召使い蘭固成とその弟阿改が文襄暗殺を謀り、固成が食事に紛れて刃物で文襄を刺殺した。陳元康は文襄を抱きかかえたが、文襄は「惜しい、惜しい」と言い残しつつ絶命した(享年四十三)。楊愔は靴を落として逃げ、崔季舒は厠に隠れ、庫直紇奚捨樂は賊と戦い死んだ。
- 高歡の死と同様、文襄の死も秘され、陳元康は宮中に殯された。翌年司空を追贈され、諡は文穆。元康の母李氏は悲しみのあまり病を発して没し、廣宗郡君・諡貞昭を追贈された。子の善藏が跡を継いだ。
陳善藏
- 温雅で識見があり給事黃門侍郎となった。隋の開皇年間、尚書郎に至り、大業初年、彭城郡贊務で没した。