北史卷五十三 列傳第四十一 潘樂

広甯石門の人

  • もと広宗の大族で、魏代に北辺の鎮守に分かれた際この地に居を構えた。父の永は技芸に優れ広宗男の爵を襲った。楽が生まれたとき雀一羽が母の左肩に止まり、占者はみな富貴の兆しと言い、それにより相貴と名づけ、のち字とした。成長すると寛厚で胆略があった。初め葛栄に帰し栄は京兆王に任じたが、時に年十九であった。栄の敗北後、爾朱栄に従い別将として元顥を討ち、功により敷城県男に封ぜられた。
  • 斉神武が晋州牧として出た際、楽を引いて鎮城都将とした。のち爾朱兆を広阿で破る戦に従い広宗県伯に進んだ。軍功を重ね東雍州刺史を拝した。神武がかつて東雍州を廃止しようとした際、楽は「東雍は山河を帯び、境は胡・蜀に接する要衝であり棄てるべきではありません」と述べ、そのまま存続した。のち周軍を河陰で破る戦に従い、追撃するかどうか議論になった際、追撃を望む者を西に、望まない者を東に配したところ楽と劉豊だけが西に立った。神武はこれを善しとし、衆の意見が割れたことから追撃を取りやめた。金門郡公に改封された。
  • 文宣の嗣事後、河陽を鎮め西の将楊掑らを破った。当時、懐州刺史平鑒らが築いた城が敵境深く入り込んでいたため棄てようとしたが、楽は軹関の要害を固めるべきだと説き、修理を加え兵将を増して帰った。再び河陽を鎮め司空を拝した。斉の受禅に際し楽は璽綬を進め、河東郡王に進封され司徒に遷った。周文帝が崤・陝まで東進し、行台侯莫陳崇が齊子嶺から軹関へ向かい、儀同楊掑が鼓鐘道から建州へ出て孤公戍を陥落させると、詔により楽が大軍を総括してこれを防いだ。楽は昼夜兼行して長子に至り、儀同韓永興を建州から西へ向かわせ崇を迎え撃たせると、崇は退却した。また南道大都督として侯景を討ち、石鱉から南へ百余里、梁の涇州に至った。涇州はもと石梁にあったが侯景が淮州と改めていた。楽はその地を得て涇州を再び置き、安州の地も攻略した。瀛州刺史となり淮・漢方面まで攻略した。天保六年、懸瓠で薨じた。仮黄鉞・太師・大司馬・尚書令を贈られた。
  • 子の子晃が跡を継いだ。将の子弟の多くが驕り気ままな中、子晃は沈着謹厳で清静を旨とした。公主を娶り駙馬都尉を拝した。武平末年、幽州道行台右僕射・幽州刺史となった。周軍が鄴に入ろうとする際、子晃は突騎数万を率いて援軍に赴いたが、博陵に至り鄴城が守れないと知ると冀州に赴き周の斉王の軍に降った。上開府を授けられ、隋の大業初年に卒した。