安定の人
- 驍勇で騎射を善くした。初め杜洛周の賊に従ったがその見込みのなさを知り爾朱栄に降った。葛栄を滏口で破る戦に従い、都督として神武と行台僕射の於暉とともに羊侃を瑕丘で討破した。のち逆賊の韓楼に叛き投じ北平王に封ぜられたが、爾朱栄が大都督侯深を遣わして楼を撃たせると、楽は再び楼に叛き深に降った。神武が山東に出るとこれにも従った。韓陵の役では楽が先登して陣を陥し賊衆は大いに崩れ、楽城県公に封ぜられた。のち軍功により汨陽郡公に進み肆州刺史となった。天平四年、神武の西征に従い周文と対峙した際、神武が持久を望むと楽は気負って決戦を求め「我が方は衆で敵は少ない、百人で一人を取れば取り逃すことはない」と述べ、神武はこれに従った。楽は酔って深く敵中に入り腸を刺されて溢れ出たが、これを内に収め腸を切って戦い続け、身に数創を負った。軍勢はこのため挫け不利のまま撤退した。神武はたびたびこれを戒めた。高仲密の叛乱に周文が援軍を出すと、神武は芒山でこれを迎撃した。斥候が敵は洛州から四十里の地で朝食を摂っていると報告すると、神武は「渇き死にするに違いない、私が殺すのを待つだけだ」と言い陣を布いて待った。西軍が到着すると喉が渇いていた。楽は精鋭数千を率いて右翼となり西軍の北側を衝くと敵はことごとく敗走し、楽はついに周文の陣営に馬で乗り入れた。楽が叛いたと告げる者があったが、神武は「楽は韓楼を棄てて爾朱栄に仕え、爾朱に背いて我に帰し、また西へ叛じたこともある。事の成否が一人の楽如きにかかっていようか。ただこの小人物の変わり身の早さを思うだけだ」と言った。まもなく西北に土煙が上がり楽は捷報を伝え、西魏の臨洮王東・蜀郡王栄宗・江夏王升・鉅鹿王闡・譙郡王亮・詹事趙善以下督将僚佐四十八人を捕虜とし、皆首に縄をつけ手を後ろ手に縛って刃を突きつけ、両陣を経巡らせて名を呼び上げた。諸将は勝ちに乗じ三万余の首級を挙げた。西軍が退くと神武は楽に追撃を命じた。周文は大いに窮して逃げながら「愚か者め!今日私を殺さねば明日はお前があるまい。なぜ急いで前の陣営に戻り金銀財宝を回収しないのか」と言った。楽はその言葉に従い周文の金帯一本を得て帰り、周文が刃を漏れ胆を破らんばかりに恐れていたと語った。神武が問い質すと楽は周文の言葉をそのまま答え「この言葉のためにあえて逃がしたのです」と付け加えた。神武は勝利を喜びつつも怒り、楽を地に伏せさせ自ら頭を踏みつけて何度も打ち据え、沙苑での失態も数え上げ、刀を振り上げて斬ろうとすること三度、歯を噛みしめてしばらく躊躇った末に止めた。楽はさらに五千騎を請い周文を捕らえたいと願い出た。神武は「お前は逃がしておいてまた捕らえると言うのか」と言いつつ絹三千疋を楽の体に載せて量り、これを賜った。司徒を重ねた。天保初年、陳留王に封ぜられ太尉に遷った。二年、謀反を前行襄州事の劉章らに告発され誅せられた。