北史卷五十二 文襄子・文宣子・孝昭子・武成子・後主子

文襄子

文襄(高澄)には六人の男子があった。文敬元皇后が河間王孝琬を、宋氏が河南王孝瑜を、王氏が廣甯王孝珩を生み、蘭陵王長恭は生母の姓を伝えない。陳氏が安德王延宗を、燕氏が漁陽王紹信を生んだ。

河南康獻王孝瑜(字正德)――文襄の長子

  • 初め河南郡公に封じられ、北齊建国後に王に進んだ。中書令・司州牧を歴任。
  • 神武の宮中で育ち武成と同年で仲が良く、楊愔らを誅する謀に加わった。武成即位後は厚遇され、晋陽から鄴の孝瑜へ「汾清二杯を飲んだので、お前は鄴で二杯飲め」と手ずから勅を送るほど親愛が深かった。
  • 容貌魁偉で謙虚寛厚、文学を愛し読書は速く一度に十行を読み、囲碁の局面を忘れず打ち直せた。鄴東の山池を真似て邸内に水堂・龍舟を作り幟や矛を立て、弟たちを集めて宴遊した。武成もこれを見て後園の造営を盛んにし、貴賤がこぞって模倣した。
  • 武成が和士開と胡皇后を握槊(すごろく)で対座させていたのを孝瑜が「皇后は天下の母、臣下と手を握るべきではない」と諫め、武成は納得した。また趙郡王(高叡)の父が非命に死んだことを口にし親しむべきでないと言ったため、趙郡王と士開に恨まれた。士開は孝瑜の奢侈僭越を密告し、趙郡王も「山東では河南王の名ばかり聞き、陛下の名を聞かない」と讒言、武成は孝瑜を忌むようになった。
  • 爾朱氏の侍女摩女はもと太后に仕えていたが孝瑜と通じており、太子の婚礼の夜に孝瑜が密かに彼女と話したことに武成が激怒し、酒を無理強いして37杯飲ませた。孝瑜は体が太り腰帯十囲もあったため婁子彥に担がせて車に乗せ、車中で毒を盛らせた。西華門に至って煩熱躁悶し、水に投じて絶命した。太尉・録尚書事を贈られた。子の弘節が跡を継いだ。
  • 母は魏の吏部尚書宋弁の孫で、もと魏の潁川王斌の妃であったが文襄に納められ孝瑜を生んだ。孝瑜の邸に太妃として住んだが、孝瑜の死後、妃盧氏(武成胡皇后の姉)に讒訴され武成に殺された。

廣甯王孝珩――文襄の第二子

  • 司州牧・尚書令・司空・司徒・録尚書・大将軍・大司馬を歴任。人物を愛で経史に通じ、文章をよくし技芸に優れた。査事の壁に自ら蒼鷹を描くと本物と見紛うほどで、「朝士図」も当時の絶品と称された。
  • 後主が晋州で敗れ鄴に奔った際、含光殿での王公会議で、任城王に幽州道の兵を率いて土門に入り并州へ向かうふりをさせ、独孤永業に洛州道の兵で潼関から長安を衝くふりをさせ、自らは京畿の兵を率いて滏口から出て正面から迎え撃つ策を献じ、南北から敵が来たと知れば敵は自然に潰れると説き、あわせて宮人・宝物を出して将士に賞するよう求めたが、後主は用いなかった。
  • 承光帝(幼主)即位後、孝珩は太宰となり、呼延族・莫多婁敬顯・尉相願らと共謀し、正月五日に千秋門で高阿那肱を斬る計画を立てた。相願は宮中で禁兵を動かし、族と敬顯は遊豫園から兵を率いて出るはずだったが、阿那肱が別宅から抜け道で宮中に入ったため計画は果たせなかった。孝珩は西軍を防ぐため出征を願い出て、阿那肱・韓長鸞・陳德信らに「朝廷が私に賊を撃たせないのは、私が謀反を疑われているからか。宇文邕を破って長安まで至った時に何故謀反しなかったのか。今のこの急を見てなお猜疑するのか」と述べた。高・韓はその変心を恐れ、孝珩を滄州刺史として外に出した。滄州に至り五千の兵で任城王と信都で合流し、共に匡復を図った。周の斉王憲が来攻し、兵が弱く敵わなかった。孝珩は「高阿那肱ごとき小人のせいで、我が道は窮まった」と怒った。斉の叛臣乞扶令和が矛で孝珩を馬から突き落とし、奴の白澤が身をもって庇ったが孝珩も数か所傷を負い、捕虜となった。
  • 斉王憲が斉滅亡の理由を問うと、孝珩は国難を陳べ涙を流し、進退に節度があった。憲は感じ入り自ら傷の手当をして厚遇した。孝珩は独り歎じて「李穆叔(李元忠)が斉は二十八年で亡ぶと言っていたが、果たしてその通りになった。神武皇帝を除き、我が伯叔兄弟で四十歳に至った者は一人もいない、これも運命か。嗣君(後主)には独自の見識がなく、宰相も柱石の任にふさわしい人材ではなかった。兵符を握り廟算を受け、我が心力を尽くせなかったのが恨みだ」と述べた。長安に至り開府・県侯を授けられた。
  • 後に周武帝が雲陽で斉の君臣を宴し、自ら胡琵琶を弾じ孝珩に笛を吹かせようとした際、「亡国の音は聞くに値しない」と辞退したが強いて命じられ、笛を口に当てたところで涙にむせび、武帝も止めさせた。その年十月に病が重くなり、山東への帰葬を願い出て許されたが、まもなく没し鄴に葬られた。

河間王孝琬――文襄の第三子

  • 天保元年に封ぜられ、天統中に尚書令に累進。突厥と周軍が太原に侵入した際、武成が東へ避難しようとしたところ、孝琬は馬前で諫め、趙郡王に部署を委ねれば必ず整うと説き、武成はこれに従った。孝琬が兜を脱いで出撃しようとすると武成は追い返させた。周軍が退くと并州刺史に任じられた。
  • 孝琬は文襄の嫡系であることに驕り、河南王(孝瑜)の死に際して諸王が宮内で声も上げられぬ中、孝琬だけが大哭して退出した。また執政(和士開ら)を恨み草人を作って射た。和士開と祖珽はこれを讒言し「草人は聖躬に擬えたもの。以前突厥が来た州で孝琬が兜を地に投げ捨てて『老婆でもあるまいに、こんなものを着けねばならぬのか』と言ったのは陛下を指したもの」と述べた。さらに魏代の童謡「河南に穀を植え河北に生ず、白楊の樹頭に金鶏鳴く」を引き「河南河北とは河間のこと、金鶏鳴くとは孝琬が金鶏(大赦の旗)を建てて大赦しようとすること」と説き、帝は疑いを深めた。
  • 孝琬が仏牙を得て邸内に安置すると夜に神光が現れ、照玄都の法順がこれを奏上しようとしたが許されなかった。帝が捜索させると邸から槊や幡数百が見つかり謀反の証と見なされた。寵愛のない陳氏という侍妾が誣告して「孝琬は陛下の姿を描いて泣いている」と述べたが実際は文襄の像で、孝琬は時々これに向かって泣いていたのだった。帝は怒り武衛の赫連輔玄に鞭で逆さに打たせた。孝琬が「叔父上」と呼ぶと帝は「誰がお前の叔父か。よくも叔父などと呼んだな」と怒り、孝琬は「神武皇帝の嫡孫、文襄皇帝の嫡子、魏の孝静皇帝の甥にあたる私が、なぜ叔父と呼んではならないのか」と答えたため帝はますます怒り、両脛を折って殺した。西山に埋葬され、帝の崩御後に改葬された。
  • 子の正礼が跡を継いだ。幼くして聡穎で『左氏春秋』を暗誦できたが、斉滅亡後、綿州に流されて没した。

蘭陵武王長恭(一名孝瓘)――文襄の第四子

  • 并州刺史を歴任。突厥が晋陽に侵入した際、長恭は力戦した。芒山の戦いでは中軍を率い、五百騎で再び周軍に突入し金墉城下に至って包囲されたが、城上の者が誰か分からず兜を脱いで顔を見せると弩手が降りて救援し、大勝した。武士たちはこれを歌にし『蘭陵王入陣曲』となった。司州牧・青瀛二州を歴任したが財貨を多く受け取った。のち太尉となり、段韶と柏谷を討ち、また定陽を攻めた。段韶が病むと軍を総括した。戦功により鉅鹿・長楽・楽平・高陽等の郡公を重ねて封ぜられた。
  • 芒山の勝利の後、後主が「深入りしすぎて万一があれば悔いても及ばない」と言うと、長恭は「一家のことゆえ、つい深く入ってしまった」と答えたが、帝は「家事」という言い方を嫌い、以後忌むようになった。定陽在陣中、部下の尉相願が「王は朝廷の重い任を受けているのに、なぜこれほど貪残な振る舞いをするのか」と問うと、長恭は答えなかった。相願が「芒山の大勝ゆえに威武を忌まれるのを恐れ、自ら汚名を被ろうとしているのでは」と問うと長恭は「その通りだ」と認めた。相願は「朝廷が王を忌んでいるなら、こうした過ちに乗じて罰を下すはずで、福を求めてかえって禍を招く」と諭し、長恭は涙を流し膝をついて身の安んじ方を請うた。相願は「王は先に勲功があり今また戦捷を得て威声はいよいよ重い。病と称して家に籠り、時事に関わらないのがよい」と言い、長恭もこれに従ったが辞退しきれなかった。江淮に賊が動くと再び将にされることを恐れ、「去年顔が腫れたのに今なぜ発しないのか」と歎じ、以後病と称して療治しなかった。武平四年五月、帝は徐之範に命じ毒薬を長恭に飲ませた。長恭は妃の鄭氏に「私は忠を尽くして陛下に仕えたのに、天に何の罪があって鴆毒を受けねばならないのか」と言い、妃が「なぜ帝にお目にかかって申し開きをしないのか」と問うと、長恭は「帝のお顔などどうして拝せようか」と答え、毒を飲んで薨じた。太尉を贈られた。
  • 長恭は容貌柔和で心は剛毅、音楽・容姿ともに優れていた。将としては細事にも自ら勤め、甘美な物を得れば瓜一つ果一つでも必ず将士と分かち合った。かつて瀛州で行参軍の陽士深が長恭の不正蓄財を上表して弾劾され免官となったことがあった。定陽討伐の際、士深が軍中にいて禍を恐れると、長恭は「私にはもとよりそんな考えはない」と言い、あえて小さな過失を探して二十杖打つに留め安心させた。かつて入朝して出る際、従者がみな散ってしまい一人だけが残ったが、長恭は独り帰り誰も咎めなかった。武成はその功を賞し賈護に命じて妾二十人を買わせたが、長恭は一人しか受け取らなかった。千金の借用証書を持っていたが、死に臨んでことごとく焼き捨てた。

安德王延宗――文襄の第五子

  • 母は陳氏、廣陽王の妓であった。延宗は幼くして文宣に養育され、十二歳になっても腹の上に乗せられ自分のへそに小便をさせられるほど可愛がられた。文宣は「可哀想に、これしか子がいない」と抱き、何の王になりたいかと問うと「沖天王になりたい」と答えた。文宣が楊愔に問うと「天下にそのような郡名はありませんが、徳を安んずるように願います」と答え、それで安德に封じられた。定州刺史となったが、楼上で大便をし下で人に口を開けて受けさせたり、蒸し豚に人糞を混ぜて左右に食わせ嫌がる者を鞭打つなど乱行があった。孝昭帝がこれを聞き趙道德を遣わし杖百を科したが、道德は延宗が神妙に受けないとみて更に三十を加えた。また囚人を試し斬りに使い刀の利鈍を試した。驕縦で法に従わないことが多かったが、武成が鞭打たせ側近九人を殺すと以後深く改悔した。
  • 蘭陵王が芒山の勝利を語ると兄弟たちは皆壮とした中、延宗だけは「四兄(長恭)は大丈夫ではない。なぜ勝ちに乗じて一気に攻め入らなかったのか。私ならば関西などとうに滅んでいたはずだ」と述べた。蘭陵王が死んだ際、妃の鄭氏が首飾りの珠を仏に施そうとしたのを廣寧王が贖おうとし、延宗は自ら書を書いて諫め、涙が紙面を濡らした。河間王(孝琬)の死に際しても哭泣し涙が赤く染まった。また草人を作り武成に似せて鞭打ち「なぜ我が兄を殺したのか」と問い質したことが密告され、武成は延宗を地に伏せさせ馬鞭で二百回打たせ死にかけた。のち司徒・太尉を歴任。
  • 平陽の役では後主自ら親征し、延宗に右軍を率いさせ、城下で先に戦い周の開府宗挺を捕らえた。大戦の際には延宗が麾下を率いて再び突入し周軍は総崩れとなった。他の諸軍が敗れる中、延宗だけが軍を全うした。後主が晋陽へ逃れようとすると、延宗は「陛下はただ陣中に留まり動かれず、兵馬を私に預けて下されば必ず打ち破る」と進言したが帝は聞き入れなかった。并州に至り周軍がすでに鸑鷟谷に入ったと聞くと、延宗を相国・并州刺史に任じ山西の兵事を総括させ「并州は兄が取れ、私は今から去る」と言った。延宗は「陛下は社稷のため動かれるな、私が命がけで戦います」と答えたが、駱提婆が「至尊の計はすでに定まった、王が阻んではならぬ」と言い、後主はついに鄴へ奔った。
  • 并州に残る将卒はみな「王が天子とならなければ我らは王のために死力を尽くせない」と請い、延宗はやむなく皇帝に即位した。詔して「武平帝は柔弱で政は宦官に任され、内乱が起こり辺境に賊が湧いた。関を閉ざし夜逃げして行方も知れず、我が高祖の業は地に墜ちようとしている。王公卿士に推し立てられ、いま謹んで帝位を受け天下に大赦する」と述べ、武平七年を德昌元年と改元し、晉昌王唐邕を宰輔、齊昌王莫多婁敬顯・沐陽王和阿於子・右衛大将軍段暢・武衛将軍相裏僧伽・開府韓骨胡・侯莫陳洛州を爪牙とした。人々は召されずとも次々と馳せ参じた。延宗は容貌が肥満で座れば仰け反り横になれば伏せるさまで人に笑われていたが、この時ばかりは奮い立ち気力抜群、馳駆は飛ぶが如くであった。府蔵と後宮の美女を将士に与え、内参千余家を籍没した。後主は側近に「私はむしろ周に并州を得させても、安德に得させたくない」と言い、側近は「その通りです」と応じた。延宗は兵士に会うたび自ら手を取り自分の名を名乗って涙を流し、人々はみな死を争い、童子女子も屋根に登り袖をまくって磚石を投げて周軍を防いだ。特進・開府の那盧安生は太谷を守っていたが一万の兵を率いて叛いた。周軍が晋陽を囲むと望むところ黒雲が四方から合するようであった。延宗は莫多婁敬顯・韓骨胡に城南を、和阿於子・段暢に城東を守らせ、自らは城北で周の斉王(憲)に当たり大槊を振るって奮戦した。尚書令史の沮山も肥大で力があり長刀を持って歩み従い多くを殺傷した。武衛の蘭芙蓉・綦連延長はいずれも陣中で戦死した。和阿於子・段暢は千騎を率いて周軍に投降し、周軍が東門を攻め黄昏に突入した。斉軍は仏寺の門屋に火を放ち炎は天地を照らした。延宗と敬顯は門から入り挟撃し周軍は大混乱し門を争って倒れ重なった。斉人が後から斬りつけ死者は千余人に及んだ。周武帝の側近もほぼ討たれ自ら脱出する道もなかったが、承禦上士張壽が馬の頭を引き、賀拔佛恩が鞭で後ろを払い、辛うじて険しい道を抜け出た。斉人が奮撃しあやうく馬に命中しかけた。城東の狭い曲がり角では佛恩と降者の皮子信が道案内をしてかろうじて逃れた。時刻は四更であった。延宗は周武帝が乱軍の中で死んだと思い込み、屍の山から長い顎髭の者を捜させたが見つからなかった。斉軍は勝利に酔い坊に入って飲酒し酔い臥してしまい、延宗はもはや軍を整えられなかった。周武帝は城を出たが飢えに苦しみ逃走を図ろうとしたところ、斉王憲と柱国王誼が諫め、去れば必ず助からないと言った。延宗配下の叛将段暢も城内が空虚であると盛んに言った。周武帝は馬を止め角笛を鳴らして兵を収め、間もなく軍勢を立て直した。翌朝東門を再び攻めて陥落させ、南門からも突入した。延宗は戦ったが力尽き城北まで走り、民家で捕らえられた。周武帝は自ら馬から降りその手を取った。延宗は「死人の手でどうして至尊のお手を煩わせられましょうか」と辞したが、帝は「両国の天子に何の怨みがあろうか、ただ百姓のために来ただけだ。恐れずともよい、決して害さない」と言い、衣冠を改めさせ礼遇した。
  • これより先、高都郡の山の絶壁に「齊亡延宗」という墨書が現れ、洗っても消えなかった。帝が人を遣わして書き写させると使者は「亡」を「上」に改めて奏上した。今この事が符合した。延宗が敗れる前、鄴の聴事で十二月十三日申の刻に并州守備の勅を受け、翌日には尊号を建てた。一日も置かずに包囲され、一夜明けて食時(朝食時)には敗れた。年号は德昌といったが、好事家は「二日を得た」と評した。周武帝が鄴を取る策を問うと、延宗は「亡国の大夫は存を図るべきではなく、これは私の関知するところではない」と答えた。強いて問われ「任城王が鄴を援ければ私には分からないが、今の主(後主)が自ら守るならば陛下の兵は血刃せずして済むでしょう」と述べた。長安に至り、周武と斉の君臣で酒宴があり後主に舞を命じた際、延宗は悲しみに耐えかね毒を仰いで自裁しようとしたが侍婢が固く諫めて止めた。まもなく周武帝は後主と延宗らが穆提婆に呼応しようとしたと誣告し、共に死を賜った。皆無実を訴えたが、延宗だけは袖をまくり涙を流して何も言わず、椒を口に塞がれて死んだ。翌年、李妃がその遺体を収め殯した。
  • 後主が太子に位を伝えた際、孫正言がひそかに人に「私は昔武定年間に廣州の士曹であったころ、襄城の人曹普演が『高王の諸子のうち、阿保という者が天子となるべきだが、高徳の者がそれを承ける代で滅びる』と言うのを聞いた。阿保とは天保、德之とは德昌のこと、承之とは後主の年号承光を指す。その言葉は結局本当になった」と語ったという。

漁陽王紹信――文襄の第六子

  • 特進・開府・中領軍・護軍・青州刺史を歴任。漁陽を通過した際、大富豪の鐘長命と同じ寝台に座り、太守鄭道蓋が謁見に来ても長命が起立しようとすると紹信は「これしき小人のために主人が起立などする必要はない」と止めさせ、長命と義兄弟を結び妃と長命の妻を姉妹の契りとし、長命一家に贈答を強要して鐘氏は貧窮した。斉滅亡後、長安で死んだ。

文宣子

文宣(高洋)には五人の男子があった。李皇后が廃帝(殷)と太原王紹德を、馮世婦が范陽王紹義を、裴嬪が西河王紹仁を、顏嬪が隴西王紹廉を生んだ。

太原王紹德――文宣の第二子

  • 天保末年に開府儀同三司となった。武成は李皇后への怒りから紹德を罵り「お前の父が私を打った時、お前は助けに来なかった」と言い、刀の柄で撲殺し、自ら遊豫園に埋めた。
  • 武平元年、范陽王の子辨才を紹德の後継とし太原王を襲わせた。

范陽王紹義――文宣の第三子

  • 初め廣陽王に封ぜられ、のち范陽王に移封。侍中・清都尹を歴任。無頼の徒と共に飲酒するのを好み、内参をやらせて博士任方榮を打ち殺させたことがあった。武成が二百杖を科して昭信皇后のもとへ送り、皇后がさらに百杖を加えた。後主が鄴に奔ると紹義は尚書令・定州刺史となった。周武帝が并州を落とすと封輔相を北朔州総管とし、この地は斉の重鎮で勇士が多く集まっていた。前長史の趙穆・司馬の王當萬らが輔相を捕らえ瀛州にいた任城王を迎えようと謀ったが果たせず紹義を迎えることになった。紹義は馬邑に至り、輔相と部下の韓阿各奴ら数十人はいずれも斉の叛臣で、肆州以北の城戍二百八十余がすべて輔相に従っており、紹義が来ると皆これに応じた。紹義は靈州刺史袁洪猛と共に兵を南に出して并州を取ろうとしたが、新興に至ると肆州はすでに周が守っており、前隊の二儀同がその部曲を率いて周に降った。周兵は顕州を攻め刺史陸瓊を捕らえ、諸城を攻め落とした。紹義は北朔に退いて守った。周将宇文神舉の軍が馬邑に迫ると紹義は杜明達を遣わして防がせたが大敗し、紹義は「死あるのみ、降ることはできない」と言い突厥に奔った。従う者三千家に「帰りたい者は自由にせよ」と命じると、半数以上が泣いて別れを告げた。
  • 突厥の他鉢可汗は文宣を英雄天子と見なしており、紹義の踝が文宣に似ていることから深く愛重した。北にいる斉人はすべて紹義に隷属させられた。高寶甯が營州で尊号を勧めたため紹義は皇帝に即位し武平元年と称し、趙穆を天水王とした。他鉢は寶甯が平州を得たと聞くと諸部を招き、それぞれ兵を挙げて南に向かわせ「共に范陽王を立てて斉帝とし、その仇を報じる」と称した。周武帝は雲陽に大軍を集め自ら北伐しようとした矢先に急病で崩じた。紹義はこれを聞き天が自分を助けたと思った。盧昌期が范陽に拠り紹義を迎えようと表を上げたが、周将宇文神舉がすぐに昌期を攻め滅ぼした。その日、紹義はちょうど幽州に到着しており、周の総管が兵を外に出したと聞いて薊城を虚に乗じて取ろうとし、天子の旌旗を並べ燕昭王の塚に登り高きより遠くを望んで兵を配した。神舉は大将軍宇文恩に四千人を率いさせ幽州を救援に走らせたが、半数が斉軍に殺された。紹義は范陽城が陥落したと聞くと素服して喪に服し、軍を返して突厥に入った。周人は他鉢に紹義の引き渡しを求め、賀若誼を遣わして説得させた。他鉢もこれには忍びず、偽って紹義と南境で狩りをし、誼に捕らえさせて蜀に流した。紹義の妃は勃海の封孝琬の娘で突厥から逃げ帰った。紹義は蜀にあって妃に「夷狄に信義なく、私をここに送り込んだ」と書き送り、ついに蜀中で死んだ。

西河王紹仁――文宣の第四子

  • 天保末年に開府儀同三司となり、まもなく薨じた。

隴西王紹廉――文宣の第五子

  • 初め長楽王に封ぜられ、のち改封された。性は粗暴で、かつて刀を抜いて紹義を追い、紹義は厩に逃げ込み門を閉じて防いだ。紹義が清都尹となったばかりで政務を執らないうちに、紹廉が先に赴いて囚人をことごとく呼び出し勝手に処断してしまった。大酒飲みで一度に数升を飲み、ついにこれが原因で薨じた。

孝昭子

孝昭(高演)には七人の男子があった。元皇后が樂陵王百年を、桑氏が襄城王亮(襄城景王の後を継ぐ)を、諸姫が汝南王彥理・始平王彥德・城陽王彥基・定陽王彥康・汝陽王彥忠を生んだ。

樂陵王百年――孝昭の第二子

  • 孝昭が即位した当初、晋陽にあって群臣が中宮・太子の擁立を請うたが帝は謙譲して許さなかった。都下の百官も重ねて請うたため太后の令と称して皇太子に立てた。帝は崩御に臨み武成へ位を伝える遺詔を書き、末尾に「百年に罪はない、お前が良きように処遇し、前人(自分が済南王を殺したこと)を見習うな」と記した。大寧中に樂陵王に封ぜられた。
  • 河清三年五月、白虹が日を二重に囲み横に貫いて達しなかった。また赤星が見え、帝は盆に水を張って星影を映して蓋をしたところ一夜で盆が自然に割れた。これを百年で厭勝しようとした。折しも博陵の人賈德胄が百年に書を教えており、百年がいくつかの勅の文字を書いたことがあり、德胄はこれを封じて奏上した。帝は激怒し百年を召した。百年は召されて逃れられぬと悟り帯玦を割いて妃斛律氏に留め置き、玄都苑涼風堂で帝に見えた。百年に勅の文字を書かせると德胄が奏上したものと似ていた。左右に乱打させ、また堂を引き回させながら殴らせ、通った跡には血が地を覆った。息絶える間際、百年は「命乞いをします、叔父上の奴になりたい」と言ったが、斬られて池に棄てられ池水は真っ赤に染まった。後園で自ら埋めるのを見届けた。
  • 妃は玦を握りしめて哀号し食を絶ち、一月余りで死んだ。玦は手に握られたまま拳が開かず、時に年十四であった。父の光がこれを無理に開いた。
  • 後主の時代、九院を二十七院に改める際、小さな屍が発見され、緋の袍に金帯、髪は一髻一解、片足に靴を履いていた。内参たちが密かに、百年太子であると語り、あるいは太原王紹德であるとも言われた。詔して襄城王の子白澤に樂陵王を継がせた。斉滅亡後、関中に入り蜀に流され死んだ。

汝南王彥理――孝昭の子

  • 武平初年に王に封ぜられ、開府・清都尹の位にあった。斉滅亡後、関中に入り儀同大将軍・県子に叙せられた。娘が太子宮に入ったため死を免れた。隋の開皇初年、并州刺史として卒した。

始平王彥德・城陽王彥基・定陽王彥康・汝陽王彥忠

  • いずれも汝南王と同時に封を受け、共に儀同三司を加えられたが、その後の事跡は伝わっていない。

武成子

武成(高湛)には十三人の男子があった。胡皇后が後主と琅邪王儼を、李夫人が南陽王綽を、後宮の妃たちが齊安王廓・北平王貞・高平王仁英・淮南王仁光・西河王仁機・樂平王仁邕・潁川王仁儉・安樂王仁雅・丹楊王仁直・東海王仁謙を生んだ。

南陽王綽(字仁通)――武成の長子

  • 五月五日辰の刻に生まれ、午の刻に後主が生まれた。武成は綽の母李夫人が正嫡でないことから綽を次男に落とした。初名を融、字を君明といい、漢陽王の後を継いでいたが、河清三年に南陽に改封され、漢陽には別に後継が立てられた。
  • 綽は十余歳で晋陽に留守を務めた。ペルシャ犬を可愛がっていたが、尉破胡が諫めると忽然と数匹の犬を斬り殺して地に散らかし、破胡は驚いて逃げ去り以後何も言えなくなった。のち司徒・冀州刺史となった。裸の人間を獣の姿に描かせ犬をけしかけて食わせるのを好んだ。定州に左遷されると井戸水を汲んで楼上に池を作り人を弾いた。忍び歩きを好み狩猟に節度がなく、放埓で強暴な振る舞いは文宣(の若い頃)を真似ているつもりだった。ある婦人が子を抱いて路上を歩いていたが逃げて草むらに隠れたところ、綽はその子を奪ってペルシャ犬に食わせようとした。婦人が号泣すると綽は怒りさらに犬をけしかけたが犬は食べようとせず、子の血を塗ってようやく食べさせた。後主がこれを聞き綽を鎖で行在所に召し寄せたが、着くと許し、州で何が一番楽しかったかと問うた。綽は「ぼうふらをたくさん取り、蛆と混ぜて見るのが最高に楽しい」と答えた。後主はその夜のうちにぼうふら一斗を集めさせ、明け方までに二三升しか集まらなかったが浴槽に入れ、人を裸で浴槽に横たわらせて叫ばせた。帝は綽と共に見物し大笑いして止まなかった。帝は綽に「こんな楽しいことを、なぜ早く駅馬で知らせてこなかったのか」と言い、以来綽は後主に大いに寵愛され大将軍を拝し朝夕共に戯れるようになった。
  • 韓長鸞がこれを妬み斉州刺史として遠ざけようとし、出発に際し綽の親信に反逆を誣告させ「これは国法に触れ、赦すべきではない」と奏上させた。後主は表立って処刑するのは忍びず、寵臣の胡人何猥薩に後園で綽と相撲を取らせ絞め殺させた。興聖仏寺に埋葬され、四百余日を経て初めて大殮したが顔色も毛髪も生きているようであった。俗に五月五日生まれの者は脳が腐らないという。
  • 綽の兄弟はみな父を「兄兄」、嫡母を「家家」、乳母を「姊姊」、妻を「妹妹」と呼んだ。
  • 斉滅亡後、妃の鄭氏は周武帝の寵を受け、綽の埋葬を願い出て永平陵の北への改葬が許された。

琅邪王儼(字仁威)――武成の第三子

  • 初め東平王に封じられ、開府・侍中・中書監・京畿大都督・領軍大将軍を拝し御史中丞を兼ね、のち大司徒・尚書令・大将軍・録尚書事・大司馬に遷った。
  • 魏の旧制では中丞の外出には千歩清道し皇太子と道を分けて行き、王公はみな遠くで車を止め牛を軛から放して中丞の通過を待つ習わしで、遅れる者は赤棒で打たれた。鄴に遷都して以来この儀礼は次第に廃れていたが、武成は儼を誇示するため旧制のまま行わせた。儼が初めて北宮を出て中丞に赴く際、京畿の歩騎、領軍の官属、中丞の威儀、司徒の鹵簿がすべて備わった。帝と胡皇后は華林園東門外に幕を張り青紗の歩障を隔てて見物した。中貴人を馳せさせ仗の中に入れようとしたが入れず「勅を奉じている」と言うと赤棒がその馬鞍を打ち砕き馬が驚いて人が落馬した。帝は大笑いしてこれを善しとし、さらに勅で車を止めさせ長く言葉を伝え合わせ、見物人は都じゅうに溢れた。
  • 儼は常に宮中にあり含章殿に座して政務を執り、諸叔父たちも拝礼した。帝が并州に行幸する間、儼は常に留守を守った。帝の見送りには半道あるいは晋陽まで随行することもあった。王師羅が随行して遅れて戻った際、武成が罰しようとすると「臣は第三子(儼)と別れを惜しみつい遅くなりました」と言い、武成は儼を思って涙し師羅を不問に付した。儼の器物・衣服・玩具は後主と同じものが官から支給された。南宮で新しい氷や緑李を見て帰り「兄上はすでにお持ちなのに、なぜ私にはないのか」と怒ったため、以後後主が先に新奇な物を得ると担当の属官や工匠が必ず罪を得た。太上皇(武成)や胡皇后でさえ足りないと感じるほどであった。儼が喉を患い医者に鍼を打たせた際も目を瞬きせず、また帝に「兄上は軟弱で、どうして左右を率いられましょうか」と言った。帝は常に「これは賢い子だ、必ず成すところがあろう」と称し、後主を劣ると見て廃立の意を抱いた。武成の崩御後、儼は琅邪に改封された。儼は和士開・駱提婆らが奢侈にふけり邸宅を盛んに造営するのを不満に思い「あなた方の造る邸宅はいつ完成するのか、ずいぶん遅いですね」と言った。二人は互いに「琅邪王の眼光は鋭く数歩先の人を射抜くようだ。先ほどしばらく対面しただけで思わず汗が出た。天子への奏上でもこうはならない」と語り合い、以後儼を忌むようになった。
  • 武平二年、儼を北宮に出させ五日に一度の朝見とし太后への随時の拝謁もできなくした。四月、太保の官を解き他の官もすべて解いたが中丞と京畿の職だけは帯びさせた。北城に武庫があることから儼を外に移し兵権を奪おうとした。書侍御史の王子宜と儼の側近の開府高舎洛・中常侍劉辟強は儼に「殿下が疎んじられるのはひとえに士開の讒言によるものです。どうして北宮を出て百姓の中に入るなどということがありましょうか」と説いた。儼は侍中馮子琮に「士開の罪は重い、私は彼を殺したい」と言い、子琮は内心後主を廃して儼を立てたいと思っていたためこれに賛成した。儼は子宜に士開の罪を弾劾する上表を書かせ禁中での取り調べを求めさせた。子琮は他の文書に紛れさせてこれを奏上し、後主はよく確認せず許可した。儼は領軍厙狄伏連を欺いて「勅を奉じて領軍に士開を捕らえさせよ」と告げ、伏連が子琮に相談し重ねて奏上することを求めると子琮は「琅邪王が勅を受けたのに、なぜ重ねて奏上する必要があるのか」と答えた。伏連はこれを信じ、神獣門外に五十人を伏せ、翌朝士開を捕らえて御史に送った。儼は馮永洛に命じて御史台で士開を斬らせた。
  • 儼の徒党は本来士開だけを殺すつもりだったが、事ここに至り「事はすでにこうなった以上、中止できない」と儼に迫った。儼はついに京畿の軍士三千余人を率いて千秋門外に屯した。帝は劉桃枝に禁兵八十人を率いさせ儼を召した。桃枝が遠くから拝礼すると儼は縛り上げて斬ろうとし、禁兵は逃げ散った。帝は馮子琮に再び儼を召させた。儼は「士開は昔から万死に値する罪を犯し、至尊の廃立を謀り家家(胡皇后)の髪を剃らせ尼にしようとしたため、兵馬を擁して孫鳳珍の邸に立て籠もろうとしていました。臣はこのため矯詔してこれを誅しました。兄上が私を殺したいとお思いならば罪から逃れようとは思いません。ただ、放免してくださるならば姊姊(陸令萱)を私を迎えに遣わしてください、そうすれば臣は参内します」と答えた。姊姊とは陸令萱のことで、儼はこれを誘い出して殺そうとしたのだった。令萱は刀を執って帝后のそばに控え、これを聞いて震え上がった。帝はさらに韓長鸞に儼を召させた。儼が入ろうとすると劉辟強が衣を引いて「提婆母子を斬らなければ殿下は入ることができません」と諫めた。廣寧王・安德王の二王がちょうど西からやって来てこの事を助けようとし「なぜ入らないのか」と言った。辟強が「人数が足りない」と言うと、安德王は周囲を見渡して「孝昭帝が楊遵彦を殺した時はわずか八十人だった。今は数千人もいるのに、なぜ人数が足りないと言うのか」と言った。後主は太后に泣いて「縁があればまた家家にお会いできましょうが、縁がなければこれが永遠の別れです」と申し上げ、急ぎ斛律光を召した。儼もまた光を召した。光は士開が殺されたと聞き手を打って大笑し「龍の子(皇族)のすることは、なるほど凡人とは違う」と言い、永巷で後主に謁見した。帝は宿衛の歩騎四百を率い甲を授けて出ようとしたが、光は「小僧どもが兵をもてあそんでいるだけです。手を交えればすぐに乱れましょう。俚諺に『奴は主人を見れば心が萎える』と申します。至尊が自ら千秋門にお出でになれば、琅邪も決して動きますまい」と言い、皮景和もこれに賛同したので後主はこれに従った。光が歩いて先行し、人を走らせ「大家(帝)がお越しになる」と告げると儼の徒党は驚いて散った。帝は橋の上で馬を止め遠くから儼を呼んだが儼はなお立ったまま進まなかった。光が近づいて「天子の弟が一漢(士開)を殺したくらいで何を苦しむことがありますか」と言い、その手を執って強く引き前に進ませた。光は帝に「琅邪王は年若く肥え太っており軽々しく事を起こしただけです。成長すればおのずとこのようなことはなくなりましょう、どうかその罪をお許しください」と願った。帝は儼の帯刀の環を抜き乱打してその髷を打ち据え、しばらくして許した。伏連・高舎洛・王子宜・劉辟強・都督翟顕貴らは後園に集められ、帝自ら矢を射た後に斬らせ、みな支解されて都の街に晒された。文武の官吏はみな彼らを殺そうとしたが、光はいずれも勲貴の子弟であり人心の不安を招くと考え、趙彦深も『春秋』の「帥を責む」(首謀者のみを責める)の故事を引いたため、罪はそれぞれ軽重をつけて処せられた。儼が罪を得る以前、鄴の北城には白馬仏塔があり石季龍(石虎)が澄公のために建てたものであった。儼がこれを修理しようとした際、巫が「この浮図を動かせば城は主を失う」と言ったが従わず、第二層まで壊したところ数丈の白蛇が出現し、たちまち姿を消した。それから数旬で儼は敗れた。
  • これ以降、太后は儼を宮内に留め、食事は必ず自ら毒見した。陸令萱は帝に「人々は琅邪王を聡明で雄勇、当代無双と称え、その相を見るに人臣の器ではありません。専断で人を殺して以来、常に恐懼しております。早く手を打つべきです」と説いた。士開と親しかった何洪珍もまた誅殺を求めた。決めかねているうちに食輦(食事運搬役)を使って密かに祖珽を迎え問うと、珽は周公が管叔を殺し季友が慶父を鴆殺した故事を挙げ、帝はその言に従った。儼が晋陽に行く機に右衛大将軍趙元侃に儼を誘い出して捕らえるよう命じたが、元侃は「臣は昔先帝に仕えた日、先帝が王を愛されるさまを見ておりました。今死ぬことはあっても、これを行うことはできません」と答え、帝は元侃を豫州刺史として外に出した。九月下旬、帝は太后に「明朝仁威(儼)と狩りに出るので早く戻るように」と申し上げた。その夜四更、帝が儼を召すと儼は疑った。陸令萱が「兄兄がお呼びです、なぜ行かないのですか」と言い、儼は永巷まで出ると劉桃枝が背後からその両手を縛った。儼は「家家、兄上にお目にかかりたい」と叫んだが、桃枝は袖でその口を塞ぎ、袍を反して頭を覆い担ぎ出し、大明宮に至って鼻血を顔中に流させたまま殺した。時に年十四であった。靴も脱がせぬまま筵に包んで室内に埋めた。帝は太后に報告させ、十余声哭泣させただけで殿内に連れ戻させた。翌年三月、鄴の西に葬り、太后を慰めるため楚恭哀帝と諡した。
  • 儼には遺腹の四男があったが、生まれて数か月でみな幽閉されて死んだ。平陽王淹の孫世俊が跡を継いだ。儼の妃は李祖欽の娘で、楚帝后に進み宣則宮に住んだが、斉滅亡後に他家へ嫁いだ。

齊安王廓(字仁弘)――武成の第四子

  • 長者の風があり過失もなく、特進・開府儀同三司・定州刺史となった。

北平王貞(字仁堅)――武成の第五子

  • 沈着で寛容な性格で、帝は常に「この子は私の鳳の毛を得ている」と言った。司州牧・京畿大都督を兼ね尚書令・録尚書事となった。帝の行幸中は留台の事を総括したが、年月を経て後主は貞が成長するにつれこれを忌むようになった。阿那肱がその意を承け馮士幹に弾劾させ、貞を獄に繋ぎ留後の権を奪った。

高平王仁英――武成の第六子

  • 挙止は堂々としていたが節度に欠けた。定州刺史となった。

淮南王仁光――武成の第七子

  • 性は躁急かつ暴虐で、清都尹となった。以下、西河王仁機は生まれつき骨がなく自立できなかった。樂平王仁邕・潁川王仁儉・安樂王仁雅(幼くして暗疾があった)・丹楊王仁直・東海王仁謙はいずれも北宮で養育された。
  • 琅邪王の死後、諸王への監視はいっそう厳しくなった。武平末年になってようやく仁邕以下は外出を許されたが、供給は乏しく最低限しか与えられなかった。後主が窮迫するに及び、廓を光州、貞を青州、仁英を冀州、仁儉を膠州、仁直を濟州の刺史とした。廓以下の多くは後主とともに長安で死んだ。仁英は狂癡を装い仁雅は喑(唖)の病により死を免れ、共に蜀に流された。隋の開皇中、仁英が召し出され、蕭琮・陳叔寶とともに本宗の祭祀を修めるよう詔されたが、まもなく卒した。

後主子

後主には五人の男子があった。穆皇后が幼主を、諸姫が東平王恪、次いで善德・質德・質錢を生んだ。胡太后は恪を琅邪王の後継としたが、まもなく夭折した。 斉滅亡後、周武帝は任城王以下の大小三十王を長安に連れ帰り、みな封爵を与えた。その後、誅戮を免れなかった者は西方の各地に配され、いずれも辺境で死んだ。

史論

文襄の諸子はみな骨柄に優れていたが、文雅の道では謝安・謝万や王導・王敦らに及ばぬものの、武芸においては人並み優れ外敵を防ぐ器量を備えていた。咸陽(で謀反者に剣を賜り自裁させた例)のように誅殺が相次いだのは兆しがあったとはいえ、もし蘭陵王が生き延びていたなら、その働きは計り知れなかったであろう。しかし結局誅殺され国は瓦解に至った、嘆かわしいことである。安德王は時勢が艱難で主君が暗愚であったため才を隠していたが、平陽の戦いに及んで忠勇を奮い、国家の危難に殉じる義を示した。德昌年間の挙兵は情勢に迫られてのことで、道理として滅亡は避けられず、身を寄せる先もなかった。廣寧王が後宮を出すよう求めながら遂げられなかったのは孝珩の言葉が拙かったからではなく、それに類する事情があったからで、後主の心はすでに平原(の忠臣の忠言)から遠く隔たっていた。存亡の事情は異なり、同列に論じることはできない。

武成は残忍で人倫に極まる悪行を犯した。太原王(紹德)の死は猜疑によるものではなく実は非情な処断であり、禍は昭信皇后への怒りから生じ淫刑に及んだ。ああ、これで長く世を保とうとしても得られるものではない。孝昭帝の徳ある言葉により子孫に慶福が及ぶはずであったが、百年(樂陵王)の惨劇はまさに濟南王殺害の延長であった。孝昭帝の遺詔にある「前人(自分)を見習うな」という言葉は哀傷に堪えない。それぞれ我が子を愛したはずなのに、なぜこうなったのか。琅邪王には師傅の教導こそなかったが早くから気概を示し、士開の淫乱が長年続いた末、一朝にしてこれを誅し朝野は快哉を叫んだにもかかわらず、そのために殺されたのは深く痛ましい。しかし専断で人を殺した罪は免れられぬものであった。帝が「恭」の諡を贈ったのは矯めすぎというもの。過ちを見て仁を知るというが、これはそれとは異なるのではないか。