孝昭帝擁立の功と反乱
- 平秦王歸彦、字は仁英、神武の族弟。父の徽は魏末に涼州流罪となる途中で軍功により免れ、河州で胡語通訳として西域大使を務め胡の獅子を献上、河東事代行のまま死去。神武と旧誼が篤く、神武の京洛平定時に喪を迎え合葬され司徒・諡文宣を追贈された。
- 徽が長安市で王氏と私通して生まれた歸彦は九歳で神武に見出され対面し悲喜こもごもであった。徐州刺史に累遷。放縦で声色を好み、妻の魏上党王元天穆の娘との不和で密かに離縁を願い出たが黙殺された。天保元年、平秦王に封ぜられ二人の母(嫡妃康・生母王氏)に孝を尽くした。侯景討伐の功で長楽郡公に別封、領軍大将軍(「領軍加大」の先例)を拝し、文宣帝の高徳正誅殺後の財貨を賜った。乾明初、司徒として禁衛を総轄した。
- 済南王(廃帝)の鄴滞在時、楊愔らが従駕兵五千を秘密裏に配置していたことを知り怨みを抱いた。楊愔らが二王(済南・常山)除去を歸彦に諮った際、表向き賛同しつつ密かに元海に相談し、元海も内心で背き長広王(武成帝)に密告、長広王が楊愔らを誅殺した。孝昭帝の入宮の際も歸彦の説得で通行が許された。孝昭帝の即位で重用され太傅・司空・尚書令、天子専用の紗帽を賜るなど寵遇を極めた。孝昭帝崩御後、武成帝を鄴に迎え太傅・領司徒に進み私兵三人を帯刀のまま従えることを許された。
- 権勢が甚だしく傲慢になったため、高元海・畢義雲・高乾和らが讒言し、武成帝も警戒を強めた。魏収に右丞相の詔草を作らせようとしたが、魏収が「至尊が右丞相から即位した以上、威名の過大な歸彦にこの号は与えられない」と諫め、太宰・冀州刺史に転じさせられた。参内を止められ動静を探られる屈辱を受けたが表向きは厚遇の体裁を保たれた。
- 冀州で謀反を企て、車駕が晋陽へ向かう隙に鄴へ入ろうとしたが郎中呂思禮の密告で平原王段韶の討伐を受け、冀州長史宇文仲鸞ら五人を城内で処刑して抵抗したが敗れ単騎で北走、交津で捕らえられた。趙郡王睿の尋問に対し歸彦は高元海・高乾和らへの怨みを語り、劉桃枝に牽かれてもなお生を望んだが、朝議は赦さず、子孫十五人と共に棄市された。仁州刺史を追贈された。
- かつて文宣帝が石角二個(山崩れで得たもの)を歸彦にのみ与え「常山(孝昭帝)に事えては反せず、長広(武成帝)に事えては反すだろう、その時この角で漢人を脅せ」と語り、額の骨相を怒って鞭打った逸話が反乱を予言していたと語られる。
武興王普――経歴
- 武興王普、字は德廣、歸彦の兄歸義の子。寛和な度量を持ち九歳で歸彦と共に洛陽に入り神武の諸子と同学した。天保初、武興郡王。武平二年(571年)司空に累遷、六年、豫州道行台尚書令。後主の鄴退却時に太宰を加えられたが周軍の圧力で降伏、長安で卒去、上開府・豫州刺史を追贈された。
高靈山(長樂太守)――経歴
- 長楽太守靈山、字は景嵩、神武の族弟。信都挙兵に従い長楽太守で終わり、大将軍・司空・諡文宣を追贈された。子の懿は武平鎮将で卒去し子がなく、文宣帝は靈山の従父兄齊州刺史建国子伏護をその後嗣とした。
伏護と乂
- 伏護、字は臣援、刀筆の才があり天統初(565年)、黄門侍郎に累遷。数朝に仕え機要に参与したが酒を嗜み晩年は連日不食で酣酒に耽り神識恍惚のまま卒去、袞州刺史を追贈され建国侯。孫の乂が襲爵し、武平末、給事黄門侍郎、隋開皇中に太府少卿となったが事に坐して死んだ。