経歴
- 襄樂王顯國、神武の従祖弟。才伎はないが宗室として謹厚とされ、天保元年(550年)、襄楽郡王に封ぜられ右衛将軍で卒去。
上洛王思宗――経歴
- 上洛王思宗、神武の従子。寛和で武幹があり、天保初、上洛郡王に封ぜられ司空・太傅を歴任し官にて薨去。
元海(思宗の子)――処世と最期
- 元海、散騎常侍に累遷、山林で仏典修行を望み文宣帝の許しを得て林慮山に二年こもったが志を固められず自ら帰還を求め復任、その後は放埒に酒色を求めた。領軍将軍を経て皇建末、孝昭帝の晋陽行幸中に武成帝が鄴で留守しつつ散騎常侍として機密に与った。孝昭帝が武成帝に皇太弟の約束をしながら子百年を皇太子に立てたことで武成帝は不満を抱いていた。
- 太史の「北城に天子の気あり」との奏言を受け昭帝が済南王(廃帝)を疑い平秦王歸彥に迎えを命じた際、武成帝は元海に自安の計を問い、元海は上策(入朝謝罪し兵権を返上)・中策(青齊二州刺史として静居)・下策(文武を集め詔勅を示し豊楽らを討ち済南を尊立し天下に号令する)を提示、逼られて下策を語った。武成帝は喜びつつ決断できず占卜を試みたがいずれも「事を起こすな、静かにせよ」と出た。結局、済南王は晋陽へ送られ、孝昭帝崩御後に武成帝が即位すると元海は侍中・開府儀同三司・太子詹事となったが、河清二年(563年)、和士開の讒言で鞭六十の刑を受け「鄴で弟に兄への反乱を説き、鄴の兵で并州に抗せと言ったのは不義不智」と責められ兗州刺史に左遷された。
- 後妻が陸太姫の姪であった縁で再び用いられ、武平中、祖珽と朝政を執ったが密語の漏洩を巡り対立し鄭州刺史に左遷、鄴陥落間近に尚書令に召還されたが周建德七年(578年)、鄴城で謀反し誅殺された。
- 元海は好んで乱を楽しみ禍を喜んだが表向きは仁慈を装い酒肉を断ち、文宣天保末年の仏教尊崇(宗廟の血食廃止)は元海の献策によるものであった。後主に屠殺・酤酒の禁止も説いたが本心は靖ならず、ついに覆滅を招いた。
思好(思宗の弟)――挙兵と最期
- 思宗の弟思好、もと浩氏の子で思宗の養弟とされたが薄遇された。文襄帝に騎射で仕え、天保五年(554年)蠕蠕討伐の勇猛さから文宣帝に「鶻が鴉群に入るような戦いぶり、好事を思え」と改名を勧められ思好と名乗った。尚書令・朔州道行台・朔州刺史・開府・南安王を歴任し辺朔の人心を得た。
- 後主の時代、使者斫骨光弁の倨傲な態度に恨みを抱き、武平五年(574年)挙兵。并州の諸貴への檄文で後主の不徳(宦官の重用・母后幽閉・弟殺害・趙郡王睿と斛律光の誅殺)を糾弾し義兵を掲げた(王行思の起草)。陽曲に至り大丞相を自称し百官を置いたが、後主は唐邕・莫多婁敬顯・劉桃枝・厙狄士文らを派遣し、思好軍は敗れ思好・行思は投水して死んだ。麾下二千は最後まで降らず全滅した。使者叱奴世安が虚偽の勝報を先に伝え斛斯孝卿に賞が与えられた逸話も残る。思好の屍は七日晒された後屠剝焚却され、妃も宮内で焚殺された。
- 挙兵の五十日前に密告があったが、韓長鸞の娘が思好の子に嫁いでいた縁で誣告として密告者を処刑した。思好誅殺後、遺族の訴えも通らなかった。