経歴
- 趙郡王琛、字は元寶、斉神武皇帝の弟。若くして弓馬に長け志気があった。南趙郡公に封ぜられ定州刺史・六州大都督に累遷し名声があった。斛斯椿らとの対立を機に神武が洛陽へ進軍した際、晋陽を根本とみて琛に相府政事を総轄させた。天平中、御史中尉に除せられ正色で糾弾し遠近から敬われたが、神武の後宮を乱したとして杖責で死んだ、享年二十三。太尉・尚書令を追贈され諡は貞。天平三年(536年)、さらに仮黄鉞・左丞相・太師・録尚書事を追贈され王に進爵、神武廟庭に配享された。子の睿が嗣いだ。
睿(趙郡王琛の子)――孝行と歴任
- 睿、小名は須拔、幼くして孤児となったが聡慧で神武に特に愛され、山公主の乳母游娘に育てられ実子同様に扱われた。四歳まで実母を知らなかったが、従母姉に「なぜ游氏を親と呼ぶのか」と問われて動揺し、実母元夫人(華陽山主)との対面を果たすと号泣し、神武は「この子の至孝は他の子に及ばぬ」と一日休務にした。『孝経』を読んでは涙を流し、十歳で母を喪うと三日水漿を口にせず、居喪の間は長斎で骨のごとく痩せ、神武・武明太后が説得に努めた。神武崩御時にも哭血し、婚礼の際にも孤児であることを悲しんだ。
- 文宣帝受禅で王に進爵。身長七尺、容儀は堂々とし吏事に明るく人を知る鑑識があった。天保二年(551年)、十七歳で定州刺史・六州大都督となり良牧と称された。天保六年(555年)、長城築造の監督にあたり炎暑の中で兵と苦楽を共にし、冷えた氷の差し入れも辞退して兵の心を得た。長逃亡による疲弊死を防ぐため自ら部隊と共に行動した。北朔州刺史として撫慰と防備に努め、井戸の湧出により「趙郡王泉」と呼ばれる逸話も残る。文宣帝は皇太子監国の大都督府長史に道穆を選び特に重用した。
- 皇建初(560年)、并州事を兼ね、孝昭帝の臨終に顧命を受け武成帝を鄴で迎え尚書令を拝した。天統中(565〜569年)、父琛に仮黄鉞、母元氏に趙郡王妃・諡貞昭を追贈され、寒冬の中で墓所へ跣足で赴き号泣し嘔血した逸話がある。司空・攝録尚書事を拝した。
- 河清三年(564年)、周と突厥の侵攻に際し宮人を避難させようとした武成帝を諫めて留めさせ、六軍の指揮を委ねられた(実務は段孝先が総轄)。突厥は撤退時に凍結と寒さで大損害を被った。斛律光が武成帝の慟哭を諫めた逸話、孝先を面折した逸話も伝わる。睿は尚書令・宣城郡公・太尉・監五禮に進んだが、和士開の讒言により晩節は酒色を口実に疎まれた。古の忠臣義士を撰した『要言』を著し意を示した。武成帝崩御後、馮翊王潤・安德王延宗・元文遙と共に後主・太后に和士開の内職追放を奏し袞州刺史とした。太后が留任を図ったが正色でこれを拒み、その夜に不吉な夢を見て「大丈夫の運命は一朝にしてここに至る」と嘆いた。妻子の制止を振り切り朝に赴き、太后に迫られても意志を曲げず、永巷を経て華林園の雀離仏院で劉桃枝に殺された、享年三十六。大霧が三日続き朝野は冤惜した。後に王礼での埋葬を許されたが贈諡はなかった。子の整信が嗣ぎ、儀同三司を経て長安で没した。