北史卷五十一 列傳第三十九 清河王岳

韓陵の功と後継

  • 清河王岳、学は洪略、神武の従父弟。父の翻、字は飛雀、器度で知られ侍御中散で卒去、元象中に仮黄鉞・大将軍・太傅・太尉・録尚書事・諡孝宣公を追贈された。嶽は幼くして孤貧であったが、洛邑に居った頃、神武がその舎に泊まるたびに母山氏が神武の室に光を見た瑞兆の逸話があり、神武の信都挙兵時に嶽はこれに応じて赴いた。
  • 韓陵の戦いで神武の中軍が敗れかけた際、右軍を率いた嶽が横に賊陣を突き破り神武の大破を助けた。功により衛将軍・左光禄大夫・清河郡公。母山氏は郡君に封ぜられ女侍中として皇后に侍った。天平二年(535年)、侍中・六州軍事都督・開府、京畿大都督を歴任し六州の事務を統括、母の喪では哀毀骨立し孝を尽くした。冀・晋二州刺史・西南道大都督を歴任し辺境を安んじた。
  • 神武崩御後、侯景の叛乱に梁武帝が貞陽侯蕭明を寒山に派遣し呼応させると、嶽は総軍として行台慕容紹宗と共に明を破り捕らえ、渦陽での侯景・劉豊との対峙にも勝利し太尉に進んだ。慕容紹宗・劉豊と共に王思政を長社で攻め洧水で城を灌漑、紹宗・劉豊が捕らえられる事態を経て西魏の援軍にも内外で防ぎ文襄親臨のもと数日で陥落させ思政を捕らえたが、功は文襄のものとされ賞は薄かった。
  • 文襄崩御後、文宣帝は嶽に尚書左僕射を兼ねさせ鄴を守らせた。天保初、清河郡王に進爵、天保五年(554年)太保・西南道大行台として司徒潘相楽らと江陵救援に赴き、郢州を攻略し陸法和を捕らえたが詔により師を還した。性は華侈で酒色を好み諸王に及ばぬほどの奢侈を誇った。高帰彦を幼少より養育していたが薄遇したため恨まれ、後に帰彦の讒言(大宅の僭越、薛氏姉妹をめぐる不興)により文宣帝の怒りを買い、鴆を賜られ死去、享年三十四。太宰・太傅・仮黄鉞を追贈され諡は昭武、城南の宅は荘厳寺とされた。
  • かつて岳と神武は私兵と武具を蓄えていたが、文襄・文宣の代に返納を願い出ても許されず、臨終の遺表でようやく認められた。皇建中、文襄廟庭に配享。子の勱が嗣いだ。

勱――清廉な行政官として隋に至る

  • 勱、字は敬德、幼くして聡敏で仁孝の評があり七歳で清河王を嗣ぎ十四歳で青州刺史。祠部尚書・開府儀同三司を歴任し安楽侯に改封、剛直な才幹があり斛律光に重んじられ征伐の副将を務めた。侍中・尚書右僕射に遷った。
  • 後主が周軍に敗れると太后を奉じて鄴に帰り、宦官苟子溢の放縦を斬ろうとしたが太后に止められた。「西軍が日々侵し朝貴が叛くのはこの輩の弄権のせいだ」と憤った逸話がある。三台への財産備蓄と焼却の脅しによる決戦を後主に勧めたが従われず鄴は東遷し、勱は殿の後で周軍に捕らえられた。武帝との会見で斉滅亡の由を涙ながらに語り開府儀同三司を授かった。
  • 隋文帝の丞相時代、忠良な父子と評され、楚州刺史では伍子胥廟への過度な祭祀の風習を諭してやめさせた。開皇七年(587年)、光州刺史として陳の内乱を報告し伐陳五策を上表、大挙討伐に際し行軍総管として江州を落とし上開府を拝した。隴右の羌の反乱に対し洮州刺史として威惠を布き善政を称された。吐谷渾の侵攻時は病のため拒戦できず戸口の逃亡で免官され家で卒去。大唐(本書編纂時の唐)は都督四州諸軍事・定州刺史を追贈した。子の士廉が最も知られる。