北史卷四十五 列傳第三十三 傅永

才幹と勇猛

  • 字脩期、清河の人。幼くして叔父洪仲と共に青州から北魏に入り、のち南奔。膂力に優れ鞍橋に逆立ちして馳騁できるほどだった。若い頃、友人への返書を書けず恥じたことを機に発憤して学び、経史と才幹を兼ね備えるに至った。崔道固の城局参軍として降り平斉百姓となり、両親と長年の困窮を経験。奉礼郎、文明太后の父の廟拝の使者、貝丘男、中書博士を歴任。王肅の豫州赴任に際し平南長史として抜擢され、咸陽王禧の推薦「威儀は足らぬが文武は有り余る」を得た。
  • 斉将魯康祖・趙公政の来襲を伏兵と火計で撃退し数千を斬り趙公政を捕えた戦術の逸話。裴叔業の楚王戍侵攻に対する伏兵戦での戦利品獲得。宣武帝の「馬上で賊を撃ち馬下で報告文を書けるのは傅脩期だけ」との評価。渦陽の戦いでは堅塁の策を進言するも容れられず敗戦、永だけが散卒を収めて伏兵で反撃した功で処罰を免れた。
  • 裴叔業帰順時には統軍として楊大眼・奚康生らと寿春に入るが、遅参のため軍功評価が低かった。彭城王勰と共に陳伯之の来寇を撃退。中山王英の義陽征討では自ら負傷しつつも撃破し、「昔漢祖は足を隠した、将傷の名を虜に知らせるわけにいかぬ」と語った逸話。義陽平定後、露布の文を陸希道に代わり簡素に改めた。年逾八十でなお馳射を行い、老いを常に隠して自称年齢を若く語った逸話。恒農太守、南袞州刺史を歴任、卒して斉州刺史を追贈。
  • 北芒に葬地を求め、杜預を慕い李沖・王肅の墓の傍に葬られたいと願った逸話、正室賈氏と代都で娶った妾馮氏の子叔偉との間の家督・葬地を巡る対立と霊太后の裁定、埋葬した棺が桑棗の根に締め付けられていた逸話も伝わる。子の叔偉は膂力に優れたが「父の武を得て文を得ず」と評された。