李苗
- 字子宣、梓潼涪の人。父膺は梁の太僕卿。畎(叔父、梁州刺史で威名あり)の養子となった。畎は王足の蜀討伐に際し梁武帝の命で涪にて足を防いだが、益州を約束されながら反故にされ怒って謀反を企て誅殺された。苗15歳、報復の志を抱く。延昌中(512〜515年)北魏へ帰順し蜀攻略を進言、高肇の西征に龍驤将軍郷導として従うが宣武帝崩御で撤兵。以後客礼で員外散騎侍郎。文武の才を持ちながら大功を成せず家の恥を雪げなかったことを常に慷慨し、江南平定策を上書したが幼少の孝明帝の下では容れられなかった。
- 正光末(524年頃)三秦の反乱で三輔が脅かされると、隴の賊は蓄えがなく速戦に利があると分析、堅守しつつ精鋭を麦積崖から奇襲させる策を上書。統軍として淳于誕と梁・益に出て魏子建に従い、郎中・統軍として重用された。
- 孝昌中(525〜527年)尚書左丞・西北道行台として汾・絳の蜀賊を討平。爾朱栄殺害後、栄の従弟世隆が挙兵し都邑に迫ると、荘帝の前で単独「一旅の兵で陛下のために河梁を断つ」と申し出て許された。馬渚上流に兵を募り夜襲、橋を焼き落として賊多数を溺死させたが、後続軍が来ず孤軍で賊と死闘の末、河に没して戦死。荘帝は深く哀傷し、都督・梁州刺史・車騎大将軍・儀同三司・河陽県侯・諡忠烈を追贈。
- 節操高く功名を志し、『蜀書』の魏延・諸葛亮の逸話や『周瑜伝』を読んで感嘆したという。太保城陽王徽・司徒臨淮王彧の不和を諫めた逸話、「城陽は蜂目豺声」と評した逸話も伝わる。死後、爾朱世隆は苗の功(京師を戦禍から救った)により追贈を控えるべきでないと述べた。子の曇が爵を継いだ。