北史卷四十四 列傳第三十二 崔亮
清河東武城の人、字敬儒。後漢の中尉崔琰の後裔。幼くして貧窮の中、傭書で身を立て、李沖・孝文帝に見出され吏部郎などを歴任。廉慎で知られる一方、武官選抜に「停年格」を導入し年功のみで採否を決めたため人材登用の質を落とし、後世「魏の人材登用の失敗は亮に始まる」と評された。晩年は劉騰に取り入り栄達したが識者に譏られた。
年表(9件)
- 建義初528年士泰、河陰の変で殺され都督・青州刺史・諡文粛を追贈
- 天平初534年肇師、青州赴任中に土賊に捕らわれるが節を曲げず釈放される
- 武定中(543~頃)550年乾亨、尚書都兵郎中となる
- 天保初550年肇師、渾代の礼制議定に参与し襄城県男に封ぜられる
- 太和二十年496年光韶、司空行参軍となる
- 節閔帝時(頃)531年光伯、崔祖螭・張僧皓の乱平定のため出城慰諭し戦死
- 皇興初467年崔道固、慕容白曜の討伐を受け降伏
- 延興中(471~)476年崔道固、卒し子景徽が爵を襲う
- 普泰初531年祖螭、反乱を起こすが爾朱仲遠に討たれる
出自と若年
- 字は敬儒、清河東武城の人、魏の中尉崔琰の子孫。高祖瓊は慕容垂の車騎属、曾祖輯は南朝に移り宋に仕え太山太守、祖修之は清河太守、父元孫は尚書郎で、青州刺史沈文秀の反乱に際し宋明帝の命で討伐に赴いたが文秀に殺害された。
- 亮の母房氏は亮を連れ叔祖の冀州刺史崔道固の下、暦城に身を寄せ、慕容白曜が三斉を平定した後は桑乾に移されて平斉人となった。10歳、季父幼孫の元で貧しく傭書で生計を立てた。
孝文帝期の抜擢
- 隴西の李沖が当時権勢を持ち、亮の族兄崔光が依っていた際、亮を誘ったが「弟妹が飢寒に苦しむのに自分だけ厚遇を受けられない、市場で書を読むまで」と拒んだ。李沖が亮の父の『相命論』を暗誦できるか試すと、亮は涙を流しつつ誦じ、沖は感嘆して館客に迎えた。沖は甥の彦に「大崔生(亮)は寛和篤雅、小崔生(光)は峭整清澈、いずれ共に大成する」と評した。
- 沖の薦めで中書博士、のち議郎、尚書二千石を歴任。孝文帝が洛陽で官制改革を計画した際、群臣に「才望兼備の吏部郎を推薦せよ」と命じたが翌日「既に得た」と述べ、亮を駅召して吏部郎に。太子中舎人・中書侍郎・尚書左丞を兼ねる。妻が舂簸の労役を免れなかったことから孝文帝がその清貧を嘉し、野王令を帯びさせた。
孝明帝期・停年格
- 孝明帝親政期、給事黄門侍郎、吏部郎・青州大中正を兼ねる。銓選の事に10年近く携わり、廉慎明決、尚書郭祚が「崔郎中でなければ選事は行えない」と評した。散騎常侍・度支尚書・御史中尉を歴任。遷都後の四方経略・洛邑造営で費用が嵩んだが、亮は度支において条格を立て年々巨額を節約。汴・蔡三渠の修築を議し漕運を通じて公私に益した。
- 侍中広平王懐が母弟の縁で放縦だったため糾察を命じられ、宴席で懐が忿って亮を陵辱しようとしたが、亮は正色で責め冠を脱いで辞任を願い、宣武帝が仲裁して懐に謝罪させた。亮は外面正しいが内心は時情に迎合し、宣伝左右の郭神安を弟に託されて御史に引き立てたが、神安が失脚した後、亮も侍中盧昶の詰責を受けた。都官尚書・七兵尚書・廷尉卿・散騎常侍を歴任。徐州刺史元昞の失政を安撫の駅使として弾劾し、百姓を安んじた。
- 安西将軍・雍州刺史。城北の渭水が浅く舟が通じず往来に難があったため、亮は秦の咸陽横橋の故事を引き浮橋の建造を計画。折よく大雨で洪水が起こり流木数百根が流れ着き、それを用いて橋が完成、崔公橋と呼ばれた。三輔がその徳政に服した。宣武帝は衣馬被褥を賜り、娘を九嬪に納れ、太常卿に徴して吏部事を摂させた。
- 孝明帝初、定州刺史。梁の趙祖悦が硤石に拠った際、鎮南将軍として蕭宝寅・元融らと共に討伐に従い、祖悦を大破。李崇との水陸連携の遅れの中、李平の到着後に硤石を平定した功で鎮北将軍に進号。霊太后から璽書で慰労される。
- 李平の進軍指令に反して病を理由に帰還したことを弾劾され死罪の上議を受けるが、霊太后は功をもって過を補うとして特赦。李平の帰還後、亮は功を争い禁中で言い争いに及んだ。
- 殿中尚書・吏部尚書。羽林の張彝殺害事件後、武官が資格により選抜されるようになり応募者が急増したため、亮は賢愚を問わず停解の日数のみで採否を決める「停年格」を制定。滞留していた者は救われたが人材登用の質は低下した。甥の司空諮議劉景安が書を送り改めるよう諫めたが、亮は返書で「今の選挙は尚書一人の裁量に頼り、武人が多数選に入る現状で公平な人材評価は不可能。停年格は権宜の策であり、後世の批判は甘受する」と答えた。
- 後任の甄琛・元修義・城陽王徽もこの制度を踏襲し、賢愚の別なく登用される弊害が定着し、「魏の人材登用の失敗は亮に始まる」と評された。
晩年と薨去
- 侍中・太常卿・左光禄大夫・尚書右僕射を歴任。劉騰が権を専らにした際、亮は妻劉氏を通じて劉騰に取り入り一時栄達したが識者に譏られた。尚書僕射・散騎常侍。背に疽を発し、明帝の見舞いを受け辞職を願うも許されず卒。東園秘器を賜り、車騎大将軍・儀同三司を追贈、諡貞烈。
- 雍州在任中『杜預伝』を読み水碾の利を知り碾を作らせ、僕射となってから張方橋東の谷水を堰いて磑磨数十区を造り十倍の利を得た。三子、士安・士和・士泰あり皆有能。
崔亮の子――士安・士和・士泰
- 士安は尚書北部郎を経て諫議大夫で卒、左将軍・光州刺史を追贈。子なく弟士和の子乾亨が嗣ぐ。乾亨は武定中(543~550年頃)尚書都兵郎中。
- 士和は司空主簿。蕭宝寅の関中在任中、都督府長史となる。莫折念生の詐降を受け隴右行台として撫慰に赴くも念生に殺害される。
- 士泰は給事中・司空従事中郎・諫議大夫・司空司馬を歴任。孝明帝末、荊蛮の侵攻に対し龍驤将軍・征蛮別将として功をあげ五等男を賜る。建義初、河陰の変で殺され都督・青州刺史・諡文粛を追贈。子肇師が爵を襲う。
- 肇師は若くして放埒だったが後に謹厚に転じ、経史に通じ文才があった。天平初(534年)、通直散騎侍郎として青州へ赴く途中、土賊崔迦葉に捕らわれたが節を曲げず説得により釈放され、慰撫の任を果たした。従弟乾亨と同居し伯母によく仕えた。斉文襄帝が崔鴻『十六国春秋』が江東(南朝)を欠くことに立腹し肇師を誅そうとしたが、肇師と鴻は別族と知り止めた。天保初、渾代の礼制の議定に参与し襄城県男に封ぜられ、中書侍郎を兼ねて卒。相人の薛生が趙彦深の貴顕を予言し、肇師の問いに「公の門望は高いが爵位は趙に及ばない」と答え、その通りとなった。
崔亮弟敬默・敬遠
- 敬默は奉朝請、征虜長史で卒、南陽太守を追贈。子思韶、硤石征討で軍功により武城子の爵、冀州別駕。
- 敬默の弟敬遠は賤しい生まれで身持ちが定まらず、世に譏られた。
光韶(亮從父弟)――出自と譲官
- 亮の従父弟。父幼孫は太原太守。光韶は孝悌に篤く、はじめ奉朝請に除せられ、双子の弟光伯と共に業を修め特に親愛深く、吏部尚書李沖に官を光伯に譲ることを願い出、沖が奏上し孝文帝が許した。
- 太和二十年(496年)、司空行参軍となり、さらに従叔和への譲官を「臣は微賤にして未だ譲の徳に登らずと恥じる」と願い出るが、和も辞退。孝文帝は和を広陵王国常侍に任じた。秘書郎として華林御書の校勘を掌り、青州中従事、司空騎兵参軍、司徒戸曹を兼ね、済州輔国府司馬として刺史高植に重用される。青州平東府長史として州事を代行、清直明断で吏民に敬愛された。司空従事中郎、母の老いを理由に辞官帰養、朝士数十人が詩を贈った。司徒諮議に徴されるも固辞。
光韶――事跡と気節
- 声が激しく議論も厳しかったが兄弟仲は睦まじかった。孝荘帝初、邢杲の乱に際し刺史元俊の長史として鎮撫、賊への内応を企てた路回にも冷静に対処し、乱後刺史から忠毅と称えられた。
- 元顥の入洛時、刺史広陵王欣の下で唯一「元顥は逆賊、討つべし」と強く主張し、欣は顥の使者を斬った。
- 廷尉卿として秘書監祖瑩の贓罪を厳正に裁こうとし、太尉城陽王徽・尚書令臨淮王彧ら高官らの助命嘆願にも屈しなかった。永安の乱後、郷里に帰った。
光韶――人物と晩年
- 博学強弁、名教の是非を論じ妥協しなかった。裕福だが倹約家。王蔓の子が盗賊に殺された事件の家宅捜索で財産を蓄えていたことが露見し「矯飾」と譏られたが、実際の財産は既に死んだ弟光伯が営んだもので、光伯没後は契約書を焼いていた。邢子才への貸金の返済も、実は弟の貸したものだと言って受け取らなかった。
- 刺史元弼との姻戚の縁で忠告したことが恨みを買い、子の通が賊と通じたと誣告され一家が拷問されるが、樊子鵠により冤罪が晴らされた。後任刺史侯深の謀反への脅迫にも屈せず。征東将軍・金紫光禄大夫に任じられるも起たなかった。
- 子孫への遺誡として、禄命に限りあり官位を求めなかったこと、三度の結婚で異母の兄弟がいるため合葬しないこと、諡贈を子孫から求めないこと、兄弟の分け隔てなき生活などを語り残し、享年71で卒。孝静帝初、散騎常侍・驃騎将軍・青州刺史を追贈。
光韶弟光伯
- 青州別駕、族弟休の刺史赴任に際し礼制に基づき解任を申牒し認められた。北海太守を経て明帝の詔で三年の留任、太傅諮議参軍。
- 節閔帝時、崔祖螭・張僧皓の乱で東陽を攻められ、兄光韶の反対を押し切り刺史東莱王貴平の命で出城慰諭するも矢に当たり戦死、青州刺史を追贈。子滔、武定末殷州別駕。
崔道固(修之弟)
- 母は卑賤で嫡母の兄攸之・目連らに軽んじられたが、父輯は道固の才を見込み南朝への出仕を助けた。宋の孝武帝に仕え美貌と武技を評価され、青州刺史下で主簿・参軍を歴任。
- 募兵の任で兄らに母を辱められた際、道固は機転で客の前で母を立て、母子の情愛が称賛された逸話が伝わる。冀州刺史として暦城を鎮守。
- 宋明帝即位後、薛安都らと共に子勲を擁立するも敗れ北魏に帰順、南冀州刺史・清河公に。宋明帝の説得で再び宋に帰す。
- 皇興初(467年)、献文帝が慕容白曜を派遣して討伐、道固は面縛して降伏。死罪を免れ、共に守城した数百家と共に桑乾に移され、平城西北に平斉郡が置かれ道固は太守・臨淄子に。延興中(471~476年)卒、子景徽が爵を襲う。
- 逸話:薛安都・畢衆敬と同僚だったが、安都は疎略、衆敬は情厚く、道固は「非我族類其心必異(我が族に非ざれば、その心必ず異なる)」と評した。景徽、字文睿、平州刺史で卒、諡定。子休纂が爵を襲う。
崔道固の一族――僧祐・僧深
- 道固の兄曰連の子僧祐一族。僧深(僧祐の弟)は法秀の謀反に連座した兄僧祐のため薄骨律鎮に流された後、南青州刺史。元妻房氏の子伯驎・伯驥を薄遇し杜氏を娶り四子(伯鳳・祖龍・祖螭・祖虯)を生む。房氏系と杜氏系の子は不和で、僧深の葬儀でも確執が続いた。祖龍と伯驎は嫡庶を争い武装して対立。祖螭、小字社客、普泰初反乱を起こし爾朱仲遠に討たれる。祖虯は学を好み世俗と争わなかった。
- 僧深の従弟和は平昌太守。富裕だが吝嗇で銭数百斛を埋蔵、母が病んでも薬代を惜しんだ。子軌、字啓則、銭百万を盗んで出奔、後に儀同開府鎧曹参軍となるが貪偽の罪で晋陽で賜死。
史論
- 崔光は風格高く学識深く、孝文帝に才を認められ三朝に仕え少主の師となり、宮省を出ずして台傅に至るのは近世に稀な例だが、容身の誹りは免れなかった。
- 崔鴻は古今に博通し著述に尽力した才志の士である。
- 崔亮は明達で名声を成したが、停年の選法に至っては失策が甚だしく、弊害を救う術もなく終には国の蠹となった。
- 光韶は雅正を居とし正義を仗み、国士の風があった。