北史卷四十四 列傳第三十二 崔光
清河の人、本名孝伯、字長仁。若くして貧しくも学を好み、孝文帝に才を認められ侍中・国子祭酒等を歴任、霊太后期にも多くの諫言を行った学者官僚。『魏書』編纂を甥の崔鴻に継がせるなど史学にも貢献した。73歳で卒し、太保・諡文宣を追贈された。
年表(10件)
- 太和六年482年中書博士・著作郎に拝され国書編纂に参与
- 正始元年504年四足四翼の鶏献上を機に節倹と賢者登用を上表
- 永平元年508年元愉の妾李氏誅殺の詔起草を諫め出産を待たせる
- 延昌元年512年中書監に遷る
- 延昌四年正月515年宣武帝崩御、明帝を東宮に迎え内外を安撫
- 熙平元年516年霊太后・明帝の経学の師となる
- 神亀元年518年石経の校勘・補修を上表
- 神亀二年519年霊太后の永寧寺塔登り・嵩山行幸を諫めるも従われず
- 正光二年521年司徒に任じられるも固辞し続ける
- 正光四年十一月523年病没、享年73
出自と若年
- 崔光は清河の人。本名は孝伯、字は長仁で、孝文帝が「光」の名を賜った。
- 祖の崔曠は慕容徳に従い黄河を南に渡り青州の時水に住んだ。慕容氏滅亡後は宋に仕えて楽陵太守となり、河南に冀州を立て郡県を置いたため東清河鄃の人となった。のち県の分割で南平原貝丘の人に改まる。
- 父の崔霊延は宋の長広太守で、宋の冀州刺史崔道固と共に魏軍に抗した。慕容白曜が三斉を平定した際、光は17歳で父に従い代に移住。家は貧しかったが学を好み、昼は耕し夜は誦読し、傭書で父母を養った。
孝文帝期の重用
- 太和六年(482年)、中書博士・著作郎に拝され、秘書丞李彪と国書の撰修に参与、のち給事黄門侍郎に遷る。孝文帝に厚く信任され「孝伯の才は黄河のように滔々として、今日の文宗である」と評された。
- 遷都の謀に参与した功で朝陽子の爵を賜り、散騎常侍・著作如故・太子少傅を兼ねる。侍中・使持節・陝西大使として四方を巡察、その道中の古跡を詠んだ詩38篇を作った。帰還後も侍中を兼ね、功により伯に進爵。
- 度量広く、怒りを色に出さず、誹謗されても弁明しなかった。同郡の掠奴となった二人を身銭で贖い放免した逸話が伝わる。孝文帝は群臣に「崔光の才量ならば、変事さえなければ20年後には司空となろう」と語った。
宣武帝期の史職と諫言
- 宣武帝即位後、正式に侍中に任ぜられる。かつて李彪と国書を共撰していたが、太和末に彪が著作を辞し史事を光に一任、彪は後に罪で廃された。宣武帝の諒闇の間、彪は白衣のまま秘書省で『魏書』の著述を続けることを願い許された。光は史官を領しつつも彪の功を尊重して侍中・著作の辞任を上表したが許されず、太常卿・斉州大中正に遷る。
- 正始元年(504年)夏、典事史の元顯が四足四翼の鶏を献上し、詔で光に問うた。光は上表し、『漢書』五行志にある宣帝・元帝期の雌鶏化雄の故事や霊帝期の蔡邕の解釈を引き、いずれも小臣が君権を犯す兆しとされたと説き、現在の南境での戦死者の多さ、労役による民の困窮、国政の乱れを指摘して、節倹と賢者登用を勧めた。帝は大いに喜び、後日茹皓らが罪により誅されたため光は一層礼遇された。
- 二年(505年)八月、太廟の西序に生じた奇異な菌について上表。『荘子』の「蒸成菌」「朝菌不終晦朔」を引きつつ、殿堂に菌が生じたのは凶兆でもあるが、殷の太戊・武丁が徳を修めて災いを福に転じた故事のように振る舞えば魏の国運は永く隆盛すると説き、東南の兵乱と大旱への配慮を求めた。
永平・延昌年間
- 永平元年(508年)秋、元愉の妾李氏を誅する詔を書くよう命じられたが、光は躊躇し、李氏が懐妊中であることを理由に、酷刑(刳胎)を避け出産を待つよう上奏。帝は容れた。
- 延昌元年(512年)、中書監に遷るも侍中如故。二年(513年)、宣武帝が東宮に行幸し光らを召し、太子師傅に任じようとした。光は固辞するも許されず、太子(後の孝明帝)が拝礼しようとしたが光は答拝せず西面して拝謝のみで退いた。繍采百匹を賜る。のち太子少傅・右光禄大夫に遷る。
- 四年(515年)正月、宣武帝崩御。光は侍中・領軍将軍于忠と共に明帝を東宮に迎え内外を安撫した。広平王懐が母后の喪に乗じて太極西廡に強引に入ろうとした際、光は光武帝崩御時の趙熹が剣を横たえて親王を退けた故事を引き厳しく諭し、懐を退けた。
霊太后期・諸々の諫言
- 孫恵蔚に代わり再び著作を領し、明帝奉迎の功により博平県公に封ぜられ国子祭酒を領す。霊太后臨朝後、たびたび遜位を上表するが許されず、また于忠が失脚すると光もその累で封邑を追われかけたが霊太后が慰留した。熙平元年(516年)、霊太后・明帝の経学の師に任ぜられ、平恩県侯に改封、朝陽伯の爵は第三子の勖に授けられた。
- 霊太后が後園で自ら弓矢を執ることを憂い、光は中古の婦人の文章を進献して諫めた。また霊太后が王公邸をたびたび訪問することについて、『礼記』を引き諸侯・王后の礼を説いて諫めた。
- 神亀元年(518年)、石経の荒廃を憂い国子博士に校勘・補修を命ずるよう上表、詔許されたが霊太后廃位により中止。
- 二年(519年)八月、霊太后が永寧寺九層仏塔に登ろうとした際、身の危険を理由に諫止したが従われず。九月、嵩山への行幸も諫めたが従われず。
正光年間・晩年
- 正光元年(520年)冬、几杖・衣服を賜る。二年(521年)春、明帝が国学で釈奠を行い、光は経を執って南面。司徒京兆王継が位を光に譲ろうと上表し、四月、光は司徒に任じられるも固辞し続け、終年受けなかった。
- 八月、宮中で捕えられた禿鶖(ハゲワシ)について上表。魏の文帝が鵜鶘の出現に反省した故事を引き、貪悪な鳥を宮中で飼うべきでないと諫言、明帝は鳥を池沢に放った。
- 冬、安豊王延明と共に服章の制定を議す。三年(522年)六月、歩輦での東西上閣入りを許される。九月、太保に進むも固辞。年老いて病篤くなっても著作の務めを続けた。
- 四年(523年)十月、帝自ら病を見舞い、賓客を絶ち、声楽を止め、遊猟をやめさせ、長子勵を斉州刺史に拝した。十一月、病が重くなり、子侄に「先帝の厚恩を受けこの位まで至ったが、史書が未完のまま死ぬのは遺恨だ。速やかに私を宅へ送り帰せ」と告げ、自邸に戻ってから薨去。享年73。
- 明帝は悲泣し厚く弔い、東園温明秘器・朝服一具・衣一襲・銭六十万・布一千匹・蝋千百斤を給し大鴻臚に喪事を監護させた。自ら車駕で臨み屍を撫でて慟哭、常膳を減じるほど哀惜した。太傅・尚書令・驃騎大将軍・開府・冀州刺史、侍中如故を追贈、後部鼓吹・班劍を加えて太保広陽王の故事に準じ、諡は文宣。明帝は建春門外まで柩を見送り哀感し、儒者たちも栄誉とした。
人物・著作
- 太和年間、宮商角徴羽の五音に基づく五韻詩を作り李彪に贈り、彪は十二次詩で応え、光はさらに百三郡国詩百三巻を作った。
- 性格は寛和で人と争わず、胡広・黄瓊の生き方を慕った気概の士には軽んじられた。始め領軍于忠が光の旧徳を重んじて事え、元叉も光を宗敬した。しかし郭祚・裴植が殺され清河王懌が禍にあった際も救わず、時流に流されたため天下に譏られた。娘婿彭城の劉敬徽のために便宜を図る一件もあり、時人は光を張禹に比した。
- 黄門・中書監・太常・少傅・国子祭酒・車騎儀同の各職を歴任するたびに他者へ譲ろうとしたが、これは時情に迎合したものと議者に矯飾と評された。
- 仏法を篤く信仰し、老いてなお盛んで、鳩が膝前に来て懐に入るなどの逸話もある。『維摩』『十地経』を講じ聴衆常に数百人、二経の義疏三十余巻を著すも識者はその疎略さを指摘した。詩賦銘賛誄頌表啓など数百篇、五十余巻の別集がある。
崔光の子勵
- 字は彦徳。才徳あり最も父の風があった。秀才に挙げられ諸官を歴任、父光が著作の職にあることを理由に固辞したが後に中書侍郎。元叉の明堂大将下で長史。従兄崔鴻と共に世に名があった。父の病に孝行を尽くし、死後は孝明帝に慰問された。父の葬儀には主書張文伯が宣吊。
- 孝昌元年(525年)、太尉長史に任じ父の爵を襲封。建義初(528年)、河陰の変で殺害され、侍中・衛将軍・青州刺史を追贈。
崔光の子劼
- 字は彦玄。清虚寡欲で学を好み家風があった。魏末、累遷して中書侍郎。興和三年(541年)、兼通直散騎常侍として梁に使いした。天保初(550年)、禅代の議に加わり給事黄門侍郎・国子祭酒として機密を掌る。清倹勤慎で斉文宣帝に重んじられた。
- 南青州刺史として政績あり。秘書監・斉州大中正、並省度支尚書、五兵尚書・監国史を歴任、台閣で簡正と称された。武成帝が後主に譲位しようとした際、諫めて意に忤い南兗州刺史に左遷、代わって度支尚書・儀同三司に復し文登県を食む。中書令・開府、文林館待詔として新書の監修撰に従事、卒。斉州刺史・尚書左僕射を追贈、諡文貞。
- 和士開が朝政を専断した時期、諸公が子弟の官職を求めたが、劼の二子拱・捴は共に外任のままだった。弟廓之が問うと「立身以来、言をもって自ら達するのを恥とする」と答え、求めなかった。劼は魏収の『魏書』を恨み、編年紀を新たに編もうとしたが才が及ばず果たせなかった。
崔光弟敬友
- 本州従事。受納の疑いで御史に糾弾され逃亡。後に梁郡太守に任じられるも生母の喪に服し不拝。仏道に精進し昼夜誦経、喪明け後は終身菜食。恭寛で節を修め、景明以来の飢饉で乞う者には求めるだけ与え、逆旅を肅然山南の大路に設け旅人に食を供した。卒す。
崔光弟子鴻(崔鴻)――十六国春秋の編纂
- 字は彦鸞。読書を好み経史に博通、尚書都兵郎中に遷る。彭城王勰以下30人の公卿朝士と律令を議定、時論に栄誉とされた。三公郎中、員外散騎常侍を加う。
- 延昌二年(513年)、考課制度が三年一考・一考一階の画一制で優劣を区別せぬ弊を建議したが、武帝は従わなかった。
- 三年(514年)、父の喪により解任、廬前の樹に甘露が降る瑞祥。十一月、宣武帝が本官のまま召還。四年、京兆の宅の庭樹にも甘露が降る。中散大夫・高陽王友に遷り郎中を領す。正光元年(520年)、前将軍を加え孝文・宣武の起居注を修す。
- 崔光は魏史編纂が巻目のみで未考正のまま欠略多いことを嘆き、臨終に鴻を孝明帝に推薦。五年(524年)、詔で鴻に本官のまま国史を修緝させた。孝昌初(525年)、給事黄門侍郎、散騎常侍・斉州大中正を加う。史書はほとんど進まぬまま卒し、鎮東将軍・度支尚書・青州刺史を追贈。
- 鴻は若くして著述の志を持ち、晋・魏の前史がすでに一家をなしていたのに対し、劉淵・石勒・慕容儁・苻健・慕容垂・姚萇・慕容徳・赫連屈孑・張軌・李雄・呂光・乞伏国仁・禿髪烏孤・李皓・沮渠蒙遜・馮跋ら十六国それぞれの旧記に増損褒貶を加え、『十六国春秋』百巻を撰した。鴻二代は江左(南朝)に仕えた家系であったため東晋・宋・斉の史は録さず、識者に責められることを恐れて公にしなかった。
- 宣武帝が撰録を聞き、散騎常侍趙邕を遣わし完成分の提出を求めたが、鴻は北魏の初期と関わる記述に失礼な箇所があるとして未完のまま上奏しなかった。後に起居注を掌る職についてから、偽って以下のような上表文を作った。
- 上表の要旨:帝王の興隆には必ず前代の除去が伴うとし、漢の興隆や司馬遷の『太史(史記)』編纂に例える。晋の永寧以後、華北に興った十六国の興亡は後世への戒めとなるが、諸史は残欠・繁略で体例を失っているため、これを一書にまとめ『春秋』百篇(後に九十五巻まで進捗)を著したと述べる。ただし常璩撰の李雄父子の蜀史のみ入手できず七年を費やしてなお未完成であること、この書は江南で撰録されたため入手が困難であることを述べ、辺境での捜索を願い出た。散騎常侍趙邕の督促を受け、完成分を進呈すると結ぶ。別に『序例』一巻・『年志』一巻を作ったことも付記する。
- 鴻はこの書を正光以前は公にしなかったが、伯父光の威勢により後に流布した。ただし年代考証に誤りが多く、道武帝天興二年の姚興改号を鴻は元年とし、明元帝永興二年の慕容超禽獲も元年とし、太常二年の姚泓の敗死も元年とするなど、訂正されないまま伝わった。
- 子の子元は秘書郎。永安中(528~530年)、父の遺著を上奏し「亡父鴻は正始末より記言の任にあり、趙・燕・秦・夏・西涼・乞伏・西蜀の遺史を刊修し賛序・評論を加えた。李雄の蜀書のみ正光三年(522年)に得て討論を終えたが、まもなく父は世を去った。全十六国、『春秋』と名づけ百二巻。未だ奏上せず、今謹んで一本を献上し秘閣に蔵されたい」と述べた。子元は後に謀反に連座して逃亡、赦免されたが叔父の鶤に殺された。
崔光従祖弟長文
- 字は景翰。少くして代都に移住、聡敏で学識あった。永安中、累遷して平州刺史、老いて帰郷し専ら仏経を読み世事に関わらず。卒し斉州刺史・諡貞を追贈。子懋、字徳林、徐州征東府長史。
崔光従弟庠
- 字は文序、幹用あり。東郡太守。元顥の侵攻に抗せず郡を棄て帰郷。孝荘帝還宮後、平原伯に叙され頴川太守、政績あり。永熙初(532年)東徐州刺史。二年、城人王早・蘭寶らに殺害される。驃騎将軍・吏部尚書・斉州刺史を追贈。子罕、爵を襲うも斉の受禅で例により降格。
崔光族弟榮先
- 字は隆祖。経史に通じ州の主簿に辟召された。子鐸、文才あり中散大夫。鐸の弟覲、羽林監。