北史卷四十五 列傳第三十三 裴叔業

河東聞喜の人、魏冀州刺史裴徽の後裔。南斉に仕え高官を得たが政変を恐れ景明元年(500年)に北魏へ帰順、寿春を献じた功で豫州刺史等を与えられるが赴任前に病没した。子の裴植は誣告により処刑され、一族は南朝から北朝への帰順者として繁栄と悲劇を経験した。

年表(3件)

出自と齊での立身

  • 河東聞喜の人。魏冀州刺史裴徽の後裔。五世祖苞は晋の秦州刺史、祖邕は河東から襄陽に移住、父順宗と兄叔寳は宋・斉に仕え名声があった。叔業は若くして気概あり、将略を自負した。宋の元徽末、羽林監、斉高帝の驃騎行参軍を経て、斉建国後は寧蛮長史・広平太守を歴任。斉明帝と早くから誼を通じ、明帝輔政時には腹心として諸藩鎮を襲取する任務を尽力して果たした。即位後は給事黄門侍郎・武昌県伯。孝文帝が鐘離に進出した際、徐州刺史に任じられ水軍で淮水に入った。使者裴聿とのやりとり(服飾を誇った叔業に「昼に遊ばないのが残念だ」と皮肉られた逸話)が伝わる。

齊末の動揺と北魏帰順

  • 斉帝崩御後、廃帝即位で大臣誅殺・政変が続くと、叔業は寿春城で「富貴を望むか」と部下に語った。南兗州刺史に転じるが、陳顕達の建鄴包囲に呼応せず内乱を懸念。廃帝の側近茹法珍・王咺之らに疑われ、甥の植・璨(IR)・瑜・粲らが母を残し寿陽に逃れる事態となった。斉は裴穆を遣わし慰撫し留任させたが、叔業の不安は消えず、梁の雍州刺史蕭衍(梁武帝)に使者馬文範を送り身の振り方を相談。梁武帝は寿春固守か北魏帰順かのいずれかを勧める返書を送った。叔業は逡巡し豫州刺史薛真度にも相談、真度が朝廷の徳化を説く返書をした後、子の芬之と甥の夫韋伯昕を派遣し北魏に帰順を表明した。
  • 景明元年(500年)正月、宣武帝は叔業に持節・散騎常侍・都督・豫州刺史・征南将軍、蘭陵郡公を授け、璽書と共に彭城王勰・尚書令王肅を派遣したが、軍が淮水を渡る前に叔業は病没。李元護・席法友らが甥の植を推して州事を代行させた。朝廷は驃騎大将軍・開府儀同三司、忠武公を追贈、東園温明秘器を賜った。

裴叔業の子孫

  • 子の蒨之(字文徳)は斉で随郡王左常侍となるも早世。
  • 子の譚(爵を継ぐ)は粗暴で自ら牛馬を殺すほどだったが、叔父たちに孝を尽くし俸禄を分け与えたため称賛された。輔国将軍・中散大夫。没後、南豫州刺史・諡敬を追贈。子の測(字伯源)は通直散騎侍郎、天平年間(534〜537年頃)に関中へ出奔。
  • 蒨之の弟芬之(字文馥)は長者風で弟たちを篤く愛した。斉で羽林監、北魏では父の勲功で上蔡伯に封ぜられ東秦州刺史として清静と称された。のち山茌県に改封、岐州刺史となるが隴の賊に囲まれ落城、莫折念生に殺害され青州刺史を追贈された。
  • 芬之の弟藹之(字幼重)は軽率だが琴書を好み、内弟柳諧の鼓琴に及ばぬまでも師事した。汝陽太守。
  • 叔業の長兄の子彦先は志があり、寿春帰順の功で雍丘県子・勃海相となり、諡恵恭。子の約(字元儉)は剛直で爵を継いだが冀州大乗の賊乱で戦死。約の長子英起は武定末(550年頃)洛州刺史、次子威起は斉王府中兵参軍で没し鴻臚少卿を追贈。
  • 彦先の弟絇(揚州中従事)は霖雨で水没した揚州城から数千家を率いて南へ逃れ、刺史李崇が北へ帰ると誤解して別駕鄭祖起らと共に子14人を梁へ送ったが、李崇の水軍に捕らえられ投水死した。

裴植――秘丧から刑死まで

  • 字は文遠、叔業の兄叔寳の子。若くして学を好み経史を渉猟、仏典に長じ理義を談じた。叔業の下で寿春にあり、叔業の死に際し席法友・柳玄達らと共に州事を監することとなり、喪を秘して指揮した末に魏軍を城内へ迎え入れた。袞州刺史・崇義県侯に封ぜられ大鴻臚卿。長子昕の南への逃亡で本来死罪となるところ特赦され、揚州大中正、瀛州刺史、度支尚書・金紫光禄大夫を歴任。
  • 性は重厚さに欠け、自らを王肅に劣らぬ名門と称して朝廷の処遇に不満を持った。尚書となると尊大な言動が目立ち、征南将軍田益宗を「夷狄が名門の上に立つべきでない」と誹謗するなど侵侮が多かった。侍中于忠・黄門元昭に憎まれ、韋伯昕から廃黜を企てたと告発され、羊祉が姑の子皇甫仲達の詐称を奏上したことで于忠に矯詔で誅殺された。朝野はこれを冤罪とした。臨終、髪を剃り法服を着せ嵩高山の陰に沙門の礼で葬るよう子弟に遺言した。
  • 郭祚・韋俊と同時に殺害されたが、のち二人は雪冤し官爵を追贈されたのに対し植は爵位の追復のみ。旧吏刁沖の上訴によりようやく尚書僕射・揚州刺史を追贈され改葬された。
  • 母は夏侯道遷の姉で厳格な人物、植を含む子らを厳しく躾けた。植が瀛州にあった際、母は年70を超えてなお婢のごとく寺で自ら仏に奉仕し、弟の瑜・粲・衍も奴僕の格好で従った。子らが布帛数百で母を出家から贖い戻した逸話がある。植は長子として母を伴い任地に赴いたが、俸禄・財産は家族間で別会計とし議者に非難された(江南風の習慣とされた)。

裴植の弟たち

  • 颺は壮果で謀略に長け、斉での軍功により入魏後は南司州刺史・義陽県伯。詔命が届く前に賊に殺され侯に進爵。子の烱(字休光、小字黄頭)は文学の才があり権門に取り入り、領軍元叉に賄賂を贈って鎮遠将軍・散騎常侍・揚州大中正、侯に進爵し高城に改封、東郡太守として城人に殺害され青州刺史・諡簡を追贈。
  • 瑜(字文琬)は下密県子、滎陽郡の代理太守で虐待殺人により免官、のち灌津子に改封、勃海太守で没し豫州刺史・諡定を追贈。
  • 粲(字文亮)は舒県子。沈重で風儀があったが驕慢な面もあった。高陽王雍との確執の逸話、僕射高肇への対応、清河王懌が驟雨の中も動じない粲に感嘆した逸話などが伝わる。仏学を好んだが経史に疎く識者に軽んじられた。揚州大中正・中書令、明帝の侍講、元顥入洛時に西袞州刺史となるも崔巨倫に逐われ嵩高山に隠れる。節閔帝時に再び中書令。節閔帝と酒を巡る問答の逸話(「北海は沈湎、私はあえて微誠を献ずる」)。孝武帝初、膠州刺史として旱魃の祈雨で海神への拝礼を拒否する逸話、賊耿翔の来襲を軽視して殺害され首を梁へ送られた。子の含(字文若)は員外散騎侍郎。
  • 衍(字文舒)は兄たちより学識・才幹に優れ、孝行と将略を兼ねた。斉で陰平太守、北魏では通直郎を辞退し嵩高隠棲を願い許されたが、のち出仕し建興・河内太守として清廉な統治で人々に慕われた。荊州を攻めた梁将曹敬宗を撃退、安楽王鑒の謀反を密告して討伐に加わり相州刺史・北道大都督・臨汝県公に進爵。葛栄討伐で戦死し車騎大将軍・司空・相州刺史を追贈。子の嵩が爵を継いだ。

裴叔業帰順に功のあった人々

  • 尹挺(天水冀の人):斉で陳郡太守、南司州刺史。
  • 柳玄達(河東解の人):叔業の帰順計画に賛成した功で南頓県子。子の絳が継ぎ、弟の遠(字季雲、「柳癲」と呼ばれた放埓な人物)は儀同・開府参軍事、酒と琴を愛した。玄達の弟玄瑜(陰平太守)の子諧は文学・鼓琴に優れたが河陰の変で殺害。
  • 韋伯昕(京兆杜陵の人):裴植を疎んじ廃黜を告発、植が誅殺された後まもなく病没。植の祟りに悩まされたとの逸話。
  • 皇甫光(安定の人):勃海太守。兄椿齢は岐州刺史、その子璋・枿(貪欲な吏部郎)らの系譜。
  • 梁祐(北地の人):叔業の従姑子、五十余の戦傷を負いながら従軍。北地太守として清廉、光禄大夫。
  • 崔高容(清河の人):博学で文才あり、揚州開府掾・陳留太守で没。
  • 閻慶胤(天水の人):博識で談論に優れ、敷城太守で没。
  • 柳僧習は別伝(柳虯伝)参照。