北史卷三十八 列傳第二十六 裴佗

字元化、河東聞喜の人。趙郡太守として威恵をもって治め、俸禄を貧民に分け与えるなど清貧を貫いた地方官。子の讓之は文才で知られたが北斉文宣帝に賜死され、孫の裴矩は隋の重臣として西域経略・伐陳・突厥懐柔に活躍し『西域図記』を著した一方、隋末の混乱では竇建德のもとを経て唐に帰順するなど激動の生涯を送った。

年表(6件)
  • 魏天平中讓之、秀才に挙げられ対策高第となる
  • 齊の受禅に際し讓之、静帝との別れに涙する
  • 伐陳の役矩、元帥記室として晋王広に従い陳の図籍収集を行う
  • 大業三年矩、帝の恆嶽祭祀に諸蕃を参列させ西域諸国の入朝を実現する
  • 大業十一年矩、始畢可汗の雁門包囲の際、虞世基とともに顧問に備える
  • 竇建德敗死時矩、曹旦とともに山東の地と八璽を挙げて唐に帰順する

清貧を貫いた趙郡太守

  • 字は元化、河東聞喜の人。六世祖の詵は晋の太常卿で、晋の乱を避け涼州に赴きのち解県に居した。世々文学で名高く、父の景惠は州別駕。佗は容貌魁偉で器望があり、秀才に挙げられ高第で中書博士。趙郡太守として威恵著しく狡吏奸人が改心し俸禄は貧民に分けた。荊州刺史時代、蠻酋田磐石・田敬宗らの帰服を単使の宣慰で得た。老を理由に致仕し、卒すると遺言で贈官・賻贈を辞退させ子らはこれに従った。
  • 剛直で俗人と交わらず、清白で家産を営まず宅も三十歩を超えず、暑にも蓋を張らず寒にも裘を着ぬ貞儉ぶりであった。子の讓之が跡を継いだ。

子讓之とその弟たち

  • 讓之(字は士礼)は十六歳で父を喪い、母の辛氏に「私のために命を損なって孝子といえるか」と諭され自ら勉めた。清明俊弁で早くから声誉を得、魏天平中秀才に挙げられ対策高第。屯田・主客郎中を歴任、「能賦詩、裴讓之」と省中で称された。楊愔と親しく交わり「裴文季(東晋の名士)はまだ亡んでいない」と評された。
  • 弟の諏之が関右に奔った際、兄弟五人が拘束されたが、讓之は齊神武に「兄弟の分は定まっており、忠と孝を失うことは愚夫でもしない」と述べて釈放を得た。文襄大将軍主簿・中書舎人を歴任し、齊の受禅に際し静帝との別れに涙した。寧都県男に封じられ清河太守を任じたが、豪吏の田転貴・孫舍興を法を乱したとして殺し、清河王岳の部従事に糾察され、侍中高德政の讒言と楊愔の弁護もむなしく文宣の怒りを買い家で賜死された。
  • 次弟の諏之(字は士正)は儒学を好み借りた書百巻を十数日で暗誦し常景に驚嘆された。楊愔の改葬に伴う墓誌十余篇を頓作し、「諏勝於讓、和不如亮」と評された。西魏の独孤信に「洛陽遺彦」と称され、信の敗後は隠棲したのち西師に従い関中に入り、周文帝の大行台倉曹郎中となり徐州刺史を贈られた。
  • 次の讞之(字は士平)は七歳で学問を始め、司徒主簿を歴任、楊愔に「河東士族の中で最も郷音のない家」と称された。隴西辛術・趙郡李繪・頓丘李構・清河崔贍と忘年の友を結び、儀曹郎として歴代の儀注・喪礼を裁正し許昌太守として私財で客を供した。周に仕え伊川太守で卒した。
  • 次の謀之(字は士令)は邢邵に「我が裴四」と呼ばれ、武成の開府に参軍として掌書記を務めた。
  • 次の訥之(字は士言)は純謹な人柄で平原公開府墨曹として掌書記を務め、母の心痛を感じて自ら請暇するほどの孝子だった。文宣の晋陽行幸に太子舎人として東宮管記を兼ね、衛尉杜弼の誣告事件に連座して免官、天統中に平州刺史を追贈された。長子は樊(讓之の後継)、次子が最も知られた矩(裴矩)である。

孫矩――西域経略に生きた隋の名臣

  • 矩(字は弘大)は幼くして孤児となったが好学で智数に富み、伯父の讓之に将来を見込まれた。齊に仕え高平王文学、齊の滅亡後は隋文帝の記室として親敬され、丞相府記室・給事郎・奏舍人事を歴任。伐陳の役では元帥記室として晋王広に従い、陳の図籍収集を高熲とともに行った。
  • 嶺南巡撫を命じられた際、高智慧・汪文進らの乱で吳越の道が閉ざされたが矩は急行を志願し、南康で兵数千を得て、廣州を囲む俚帥王仲宣の部将周師舉を大破し斬り、二十余州を平定して渠帥を刺史・県令に任じた。文帝は「韋洸は二萬の兵で嶺を越えられなかったのに、矩は三千の弊卒で南海に至った」と大いに喜び、開府・聞喜県公に封じられた。戸部侍郎・内史侍郎に転じた。
  • 突厥の都藍可汗が大義公主(宇文氏)の私通を長孫晟に暴かれると、矩は説得使として都藍を動かし公主を誅させた。太平公史萬歳の行軍長史として達頭可汗を破ったが萬歳が誅殺され功を録されなかった。文献皇后崩御では牛弘・李百薬と儀注を斉の礼に依り定めた。煬帝即位後は東都造営の府省を九旬で完成させた。
  • 西域諸蕃が張掖で交易する際、矩は諸胡から国俗・山川・険易を聴取して『西域図記』三巻を撰した。その序は概ね次の趣旨である。禹が九州を定めても導河は積石を越えず、秦も臨洮までしか防を置かなかったように、西胡は古来禮教の及ばぬ地であった。漢代に開拓されて四十六国と称され、のち五十五王に分立、校尉・都護を置いて招撫したが叛服常なく、後漢では官が廃されて風土の記録も失われた。于闐の北・葱嶺の東はかつて三十余国あったが屠滅し合って十国のみが残り、他は廃墟と化して考証できない。皇上の徳化で華夷の隔てなく職貢が通じたため、矩は関市を監す立場から胡人を訪ね、疑わしい点は衆口を尋ね、その本国の服飾・儀形を丹青に写して『西域図記』三巻・三十五国分を成し、別に地図も作って要害を窮めた。西頃より北海の南まで約二万里に及ぶが、その多くは商賈の伝聞に拠り、幽荒の地で確かめ難いものは記載を省いた。二漢の「西域伝」が戸数十でも国王と称したのとは異なり、今回は千戸以上の国を主に載せた。
  • 三道の記述――燉煌から西海に至る道は三つ。北道は伊吾から蒲類海・鉄勒部・突厥可汗庭を経て北流河水を渡り拂菻国に至り西海に達する。中道は高昌・焉耆・亀茲・疏勒から葱嶺を越え、吲汗・蘇勒沙那国・康国・曹国・何国・大小安国・穆国を経て波斯に至り西海に達する。南道は鄯善・于闐・硃俱波・喝盤陀から葱嶺を越え、護密・吐火羅・挹怛・忛延・漕国を経て北婆羅門に至り西海に達する。伊吾・高昌・鄯善は西域の門戸、燉煌はその咽喉の地であると結んでいる。
  • 序の末尾では、突厥・吐谷渾が羌胡諸国を擁して朝貢を阻んでいるが、商人を通じて密かに帰服の意を示す国が多く、兵を動かさず諸蕃を服すれば突厥も自ら滅ぼせると説き、「西域図記」を編んだ意義を「威化の遠きを表すため」と述べた。
  • 帝は大いに悦び矩を厚遇し、吐谷渾併呑の策も矩に諮った。黄門侍郎として再び張掖に赴き、十余国の入朝を促した。大業三年、帝の恆嶽祭祀に諸蕃が参列。敦煌経由で高昌王麹伯雅・伊吾吐屯設らを厚利で誘い入朝させ、帝の西巡・燕支山での謁見では二十七国の西蕃胡が金玉・錦罽で着飾り歌舞し、張掖・武威の士女も動員して中国の盛を示した。吐谷渾を撃破し数千里を拓地した功により矩は銀青光禄大夫。
  • 東都で蛮夷への大戯を諷し、四方の奇伎異芸を端門街に並べ百官・百姓に十万人規模の観覧をさせ、交市の店肆で蛮夷に飲食を供させて「中国は神仙の国」と嘆させた。帝は「裴矩の奏はみな朕の成算、朕がまだ発する前に矩が先んじて申し出る」と宇文述・牛弘に語った。
  • 伊吾城建設に矩を伴わせ、諸国に城の趣旨を説かせて反発を防いだ。反間の策で射匱可汗を用い処罗を圧迫し入朝させた。啓民可汗の帳で高麗の使者を発見すると、矩は高麗が孤竹国の故地であり漢の三郡・晋の遼東であったことを引いて征討を進言し、これが遼東征伐の端緒となった。遼征に従い兵部侍郎斛斯政の高麗亡命後は兵事も兼掌し右光禄大夫に進んだ。
  • 皇綱が振るわず賄賂が横行する中でも矩は清廉を保ち世に称された。楊玄感の乱後は隴右の安集・曷薩那部落の慰撫を行い成果を挙げた。始畢可汗の勢力を削ぐため、その弟叱吉設を南面可汗にしようとしたが受けられず始畢の怨みを買い、さらに始畢の腹心史蜀胡悉を交易を口実に馬邑へ誘き寄せて誘殺させたため、始畢は入朝を絶った。
  • 大業十一年、始畢が雁門で帝を包囲した際は虞世基とともに顧問に備え、囲みが解けたのち射匱可汗の使者を接遇した。江都行幸後、四方の盗賊蜂起を奏上して帝の怒りを買い京師に遣わされたが病で行けず、太原の変では「鑾輿の早期還都」を進言し、屈突通敗報も奏した。天下の乱に際し多くの人に厚遇を施し廝役にまで歎服された。
  • 従駕の驍果の逃散が相次いだ折、矩は「兵士に此地で妻を娶らせるべき」と献策し帝に「公は多智、これぞ奇計」と称され、江都の寡婦・未婚女を集めて将士に配し、既婚の奸通も追認して驍果を悦ばせた。
  • 宇文化及の反乱時、矩は逆党に捕らえられたが「裴黄門には関わりない」とされ、化及の下で儀注を定め、秦王子浩擁立に関わり、侍内・尚書右僕射・光禄大夫・蔡国公・河北道宣撫大使を歴任。竇建德に捕らわれてからも旧臣として厚遇され、朝儀を制定して建德を悦ばせた。建德敗死時は洛州留守にあり、李公淹・大唐使人魏徵らの説得で曹旦とともに山東の地と八璽を挙げて帰順し、左庶子・詹事・戸部尚書を経て卒した。

讓之の弟謁之と皇甫和

  • 讓之の第六弟謁之(字は士敬)は志節があり、文宣の昏縦の代に上書して切諫し、白刃を頸に当てられても辞色を変えなかった。文宣は「痴漢がここまでするとは」と怒ったが、楊愔の取り成しで「小僧の思惑通りに殺して名を上げさせるものか」と釈放した。齊亡後、壺関令で卒した。
  • 皇甫和(字は長諧)は安定朝那の人、漢中に寓居した家系。父の徴(字は子玄)は梁の安定・略陽二郡守で夏侯道遷の魏帰順に伴い魏に入ったが、道遷の勲書に功を分けようとした申し出を「創謀に関わっていない」と辞退した。和は十一歳で父を喪い、母夏侯氏に経書を授けられ深沈雅量で禮義に明るく、済陰太守で卒した。子の聿道は隋の比部郎。
  • 和の弟の亮(字は君翼)は九歳で父を喪い、齊神武の起義で大行台郎中となったが任真な性格で劇職を好まず、梁への降・北還を経て白鹿山に隠棲し、尚書殿中郎として禅代の儀注を撰し榆中男に封じられた。質朴で片言も矯飾せず、三日の欠勤を「雨の日、酔いの日、二日酔いの日」と正直に答えて文宣に恕され杖三十で済んだ逸話がある。陳への使者役を果たせず免官され、任城太守も赴任せず鄴で卒し驃騎大将軍・安州刺史を贈られた。