北史卷三十八 列傳第二十六 裴駿

「三河の領袖」と称された才人

  • 裴駿は字を神駒、小字を皮といい、河東聞喜の人。父の雙碩は恆農太守・安邑子。幼くして聡慧で親戚から「神駒」と称され、それを字とした。弱冠で経史に通じ礼度があり郷里に敬われた。蓋吳の乱に応じた薛永宗が聞喜を襲った際、駿は郷豪を率いて赴援。太武の親征に召見され、事宜を陳べて悦ばれ、崔浩に「裴駿には当世の才があり、その忠義は嘉すべきだ」と評され中書博士に補された。崔浩も駿を「三河の領袖」と目した。中書侍郎に転じ、宋使明僧皓の来聘では給事中・散騎常侍を仮され境上で応対した。卒すると秦州刺史・聞喜侯を贈られ諡は康。

裴駿の子孫

  • 子の修(字は元寄)は清弁好学で秘書中散・主客令を歴任、中大夫として祠部曹事を兼ね礼楽を掌り条理があった。卒し諡は恭伯、宣武の代に東秦州刺史を追贈された。早くに父を失い孝で聞こえ、二弟三妹を撫養し、亡き弟の遺児を我が子のように育てて分家の際は奴婢田宅をすべて譲った。
  • 修の子の詢(字は敬叔)は美しい容貌と多芸で知られ、平昌太守を経て太原長公主の婿となり散騎常侍を特除された。中正の職を族叔の昞に譲り、時論はこれを善しとした。秘書監・郢州刺史として蛮酋田朴特を西郢州刺史に推挙し辺境防衛に功を挙げ、七兵尚書に召された。武泰中、関中大使として赴く前に河陰の変で遇害。司空公・貞烈を贈られたが子はなかった。
  • 修の弟の宣(字は叔令)は少くして孤児となり母兄に孝友で仕え、李沖に見出され尚書主客郎から太尉長史に累進した。戦没者の遺骨埋葬・遺族の租調免除を上言し朝廷に容れられ、益州刺史として戎羌の心を得た。廉退を慕い賈誼の故事を引いて辞官を願ったが宣武は許さず、宣は『懐田賦』を作って心情を述べた。陰陽の書に明るく自らの死日を予言し的中したという。豫州刺史・諡定(のち穆に改)を贈られ、子の敬憲が嗣いだ。
  • 敬憲(字は孝虞)は志行に優れ学博く才清らかで、諸弟を撫訓し読誦を専らとした。栄利に淡泊で秀才に挙げられ射策高第で太学博士。隷書と草書に工み音律を解し、五言詩は当代随一と称された。中山への赴任を送る宴で詩を賦した中で最も評価された。三十三歳で卒し人々が悼んだ。孝昌中、蜀賊陳雙熾も敬憲の宅を焼くなと相互に戒めたという。中書侍郎を贈られ諡は文。
  • 敬憲の弟の莊伯(字は孝夏)も文才があり喜怒を色に出さず、『神龜頌』を著して評判となった。臨淮王彧の記室参軍として章奏を委ねられたが、兄敬憲の病を聞いて仮を求めても許されず自ら還った。兄の病を昼夜看護し憔悴、葬送後に病を得て二十八歳で卒した。兄弟同年に喪われ世に惜しまれた。通直散騎侍郎・諡献を贈られたが子はなく著述も散逸した。
  • 莊伯の弟の獻伯は廷尉卿・済州刺史となり政は厳酷だったが清白の誉れがあり、殿中尚書で卒した。
  • 駿の從弟の安祖は八九歳で『詩経』鹿鳴篇を学び「鹿は食を得れば呼び合う、まして人においてをや」と語って以後独りで食事しなかった。人の兄弟の財産争いを礼義で説き和解させ、州から仕進を勧められても「京師は遼遠で棲屑を憚る」と断り、閑居して志を養った。傷ついた雉を助けたところ夜に謝礼の夢を見た逸話も残る。孝文の巡幸に召見され安邑令となったが老病で固辞し、八十三歳で家に卒した。