蛟龍得水の勇将とその末路
- 武都氐の楊難当の孫。少くして驍捷で走ることは飛ぶが如く、庶孽ゆえに宗親の顧待を受けず貧窮した。太和中に奉朝請となり、尚書李沖の選に「長縄三丈を髻に結んで走り、馬より速い」技を示して軍主に用いられ、「今日より諸君と斉列せず」と豪語した。宛・葉・穰・鄧・九江・鐘離の征討で勇冠六軍と称された。
- 宣武初め、寿春内附に際し奚康生らと先入し安成県子に封じられ、東荊州刺史として蛮酋樊秀安の乱を平定。妻の潘氏は騎射に善く、大眼とともに戎装で並び馳せ、大眼は「これぞ潘将軍」と誇った。梁将張惠紹の宿豫占拠も邢巒とともに撃破し、鐘離包囲では淮橋を守ったが、洪水で部下が敗走し営州に徙されて兵とされた。
- 永平中に召し還され太尉長史などを歴任し、京師では雄勇を慕う人々で市のように賑わった。荊山鎮守・淮堰征討にも参じたが功を得られず渠を鑿って撤退。士卒を撫し傷を見て泣くほど部下思いだったが、淮堰の役では喜怒常なく捶撻が過ぎ軍士の恨みを買った。荊州刺史時代には藁人形を蛮渠の前で射て脅し、虎害を退治して首を市に懸けるなど蛮を畏服させ、州は二年で寇盗をやめた。学はなかったが人に書を読ませて記憶した。
- 三子(甑生・領軍・征南)は皆潘氏の生んだ子。潘氏が洛陽で不行を働いたと側室の娘婿趙延寶に告げられ、大眼は潘を幽して殺した。後妻の元氏が身重を理由に印綬(爵位継承)を我が子に約束すると甑生らは恨みを抱き、大眼の柩を京へ運ぶ途中に開棺し、延寶を征南が射殺し、元氏に矢を向けようとしたが甑生が「母を害する者はいない」と止めた。甑生らは大眼の屍を奪って梁へ亡命した。