剛勇と仏道への傾倒、そして非業の死
- 河南陽翟の人、本姓は達奚。祖の真は柔玄鎮将・内外三都大官。康生は少くして驍武で彎弓十石、矢は常箭と異なり当時人々を服させた。蠕蠕討伐で前駆軍主として功を挙げ宗子隊主となり、鐘離征討で孝文の中渚賊撃破の募に応じて筏を焼き払い直閣将軍に抜擢された。吐京胡の反乱でも独り軍を全うし辛支王を射殺した。
- 義陽の戦いでは齊将張伏護を望楼から射殺し、裴叔業の渦陽包囲も一戦で大破。壽春の内附を受けた際は羽林千人を率いて桓和・陳伯之を破走させ征虜将軍・安武県男を得た。梁の鬱州侵攻・臨川王蕭宏の十万甲兵も撃退し、涇州刺史時代は官炭瓦の私用で一時削官されたがすぐ復した。宣武崩御に伴い蜀征討は班師した。
- 相州刺史時代、旱魃に際して石季龍の画像を鞭打たせ西門豹祠に雨乞いをして豹の舌を取らせるなど強引な祈祷を行い、まもなく二子を喪い自身も病に伏し「季龍・豹の祟り」と噂された。光禄勲・右衛将軍を経て、元叉と結んで霊太后の廃立を謀り、河南尹・領左右となり、子の難は侯剛の娘を娶り元叉の妹婿となる縁で三人は宮中に頻繁に出入りした。
- 正光二年二月、明帝が西林園で霊太后に朝した宴で康生は力士舞を舞い、太后を見つめながら殺縛の勢いを示した。日暮れに太后が帝を宣光殿に留めようとした際、康生は「至尊は陛下の子、なぜ留めるのを問うのか」と強く発言し、太后が帝を連れて堂を下りると康生は万歳を唱え、明帝が閣に入ろうとした際には子の難の千牛刀を奪って直後の元思輔を斬りつけた。
- 翌朝、酔いの残る康生は元叉に捕らえられ門下に鎖された。元叉と侯剛は矯詔により康生を斬刑、難を絞刑に処し(難はのち流刑に減じられた)、市で処刑された康生は「我は謀反していない、死んでも汝は何を哭くか」と子を諭し、慷慨として悲泣しなかったが、刑吏の刀が数下りても死ねず地に刻截されるという過酷な最期を遂げた。奚混も同座で絞刑となった。
- 康生は将として久しく、州に臨むごとに多くを殺戮したが、仏道に信心深く赴任先ごとに寺塔を建てた。享年五十四。南山に建てた仏図が死の直前に崩れる夢を見て「檀越に不吉あり」と沙門に解かれた通り禍に遭った。霊太后の反政後、驃騎大将軍・司空・冀州刺史を贈られ諡は武貞、壽張県侯を追封された。子の剛が襲爵した。