北史卷三十六 列傳第二十四 善

経歴

  • 聰の弟の和は南青州刺史を務めた。和の子は善。
  • 善、字は仲良。若くして司空府参軍となった。再遷して塩池都将を務めた。孝武帝の西遷後、魏は河東を秦州と改め、善を別駕とした。善の家は元来富裕で僮僕数百人を抱えていた。兄の元信は豪奢な生活を好み、常に食卓を盛大に整え客が絶えず音楽も鳴り続けたが、善は独り自らを律し閑静を好んだ。

西魏帰順の功と地方行政

  • 大統三年(537年)、斉の神武帝が沙苑で敗れた際、族兄の崇礼が河東の守りに残された。周文帝が李弼を遣わし包囲すると、崇礼は固く守り屈しなかった。善は密かに崇礼に降伏を説いたが決断できずにいた。折しも善の従弟馥の妹婿である高子信が防城都督として城南面を守っていたため、馥を遣り善に「西軍と連携したいが力が及ばないのを恐れている」と伝えた。善は弟の濟に門生数十人を率いさせ、高子信・馥らと共に関を斬り開き李弼の軍を引き入れた。この謀に加わった者は皆五等爵の褒賞を受けたが、善は「背いた者を正しい方に導くのは臣子としての当然の情、一門大小がすべて封邑を得るのはふさわしくない」として弟の慎と共に固く辞退し受けなかった。周文帝はこれを嘉し善を汾陰令とした。善は幹用に優れ一郡随一と称された。太守の王羆はこれを称賛し六県の事務を兼督させた。まもなく行台郎中となった。

屯田・冶鉄の監督と晩年

  • 屯田を広く設けて軍費を賄おうとした際、司農少卿に除され同州夏陽県の二十屯監を領した。また夏陽の諸山に鉄冶を設け、善が監督となり毎月八千人を動員して武器を製造させた。善は自ら督課しつつ慰撫にも努め、精強な武具が整いながらも民は苦労を忘れたという。大丞相府従事中郎に遷った。屯田の功を追論され龍門県子の爵を賜った。黄門侍郎に遷り河東郡守を除され、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み宇文氏の姓を賜った。六官の制定後、工部中大夫を拝し博平県公に進んだ。戸部中大夫に再遷した。
  • 晋公宇文護が執政していた頃、儀同の齊軌が善に「兵馬・万機は天子に帰すべきなのに、なぜなお権門にあるのか」と語った。善がこれを告げると宇文護は齊軌を殺した。宇文護は善が自らに忠実であると見て中外府司馬に引き、司会中大夫に遷り六府の事の副として総べた。京兆尹を加えられ司会も兼ねた。隆州刺史に出て益州総管府長史を兼ねた。武威少府に召され没した。三州刺史を贈られた。帝は善が齊軌のことを告げたことにより諡を「繆公」とした。子の褒が跡を継ぎ高陽郡守に至った。