学問と仏教への関心
- 善の弟の慎、字は伯護。学を好み文をよくし草書に優れた。同郡の裴叔逸・裴諏之・柳虯、范陽の盧柔、隴西の李璨と親交があった。丞相府墨曹参軍として仕官した。周文帝は行台省に学を置き、丞郎や府佐で徳行に優れ聡明な者を生員に選んだ。朝は公務を行い夕方に講習させ、まず『六経』、次いで子史を学ばせた。さらに諸生の中から徳行の篤い者を選び侍読とした。慎は李璨、隴西の李伯良・辛韶、武功の蘇衡、譙郡の夏侯裕、安定の梁曠・梁禮、河南の長孫璋、河東の裴舉・薛同、滎陽の鄭朝ら十二人とともにこの選に応じ、学師として諸生の課業を掌った。
- 周文帝は談論を好み、玄旨に深い名僧百人を選んで邸内で講説させた。また慎ら十二人に仏義も兼修させ内外に通じさせた。これにより四方で大乗の学が盛んになった。数年間学にあり、のち宜都公(周文帝の子)の侍読となった。礼部郎中に累遷し、六官の制定後、膳部下大夫を拝した。慎の兄善もまた工部にあり、共に清顕の地位にあったため当時の人々に栄誉と見なされた。
湖州刺史としての教化
- 周の孝閔帝の即位後、禦正下大夫を除され淮南県子に封じられた。師氏・禦伯中大夫を歴任した。保定初年、湖州刺史に出た。境は蛮夷が混住し常に劫掠を事としていた。慎は諸豪帥を集め朝旨を宣し、首領には毎月一度参内させ、言うべきことがあれば時節を問わず面会させた。会うたびに懇ろに勧誡し酒食を賜った。一年のうちに風化はよく行き渡り、蛮族は「今日初めて刺史こそ真の民の父母だと知った」と語り合い、皆喜んで従い、それ以来千余戸が帰属を求めて集まった。
- 蛮族の風習では婚姻の後、両親が健在でも別居する慣わしがあった。慎は守令に「牧守令長は人を教化する者だ、子が妻を娶ればすぐ父母と離れるのは、民の悪習であると同時に牧守の罪でもある」と語り、自ら誘導し孝慈の道を示した。守令にも管内でこれを諭させ、数戸の蛮族は数年別居した末に親のもとに戻り、収穫した果物や食物を持ち帰り両親に奉じるようになった。慎はこの善に従う速さを詳細に上奏し、詔によりその賦役が免除された。これにより風化が大いに広まり、華の俗と変わらぬまでになった。まもなく蕃部中大夫となった。病により職を辞し家で没した。文集があり世に広く伝わった。