北史卷三十六 列傳第二十四 浚

孝行と死

  • 胄の従祖弟の浚、字は道賾。父の琰は周の渭南太守。浚は幼くして父を失い母を孝養したことで知られた。幼くして学を好み志行があった。周の天和年間、虞城侯の爵を襲ぎ新豊令を務めた。隋の開皇年間、尚書虞部・考功侍郎を歴任した。帝は浚が母に孝であることを聞き、母の老いに輿服・几杖・四季の珍味を賜り当世の栄誉とした。母が病にかかると浚の憔悴ぶりは著しく親しい者も見分けがつかないほどであった。
  • 母の喪に及んで詔により鴻臚が喪事を監護し夏陽に帰葬した。真冬の厳寒の中、浚は喪服のまま裸足で霜雪を冒し、京師から郷里まで五百余里を歩き、足は凍傷で指を失い傷から血が流れ、朝野はこれを哀れんだ。郷里からの贈り物は一切受け取らなかった。まもなく起用され職務に復したが、帝はその過度な痩衰ぶりを見て顔色を変え、群臣に「私は薛浚の哀毀を見て、悲しみを覚えずにいられない」と嘆じた。
  • 浚は結局喪に耐えかね病を得て没しかけた。弟の謨は当時晋王府兵曹参軍事として揚州にあった。浚は謨に遺書を送り、自らの不幸な生い立ち、父祖の教え、長年の労苦、官途に就いてからの孝養、そしてこの病の苦しみと兄弟が共に喪に服せない無念を切々と綴り、今生の別れを覚悟して面会を待つ心情を記した。書き終えると息絶えた。有司がこれを奏上し、文帝は涙を流し勅使を遣わし冊書を持たせて弔祭させた。浚は清廉な性格で、死の日には家に遺財がなかった。
  • 浚が幼い頃、宗中の子らと澗のほとりで遊んだ際、角と足のある黄蛇を見たが他の子らには見えなかった。不祥として家では大いに憂えた。母が問うと事実を答え、そこに托鉢に来ていた胡僧が「この子には吉兆がある、早くに名声を得るが寿命は六、七十を超えない」と告げ言い終えると忽然と姿を消した。浚は結局四十二歳で没し、その予言が的中したことになる。子の乾福は武安郡司倉書佐。