北史卷三十二 列傳第二十 崔挺
博陵安平の人、辯の従父弟で字は雙根。秀才に挙げられ中書博士から侍郎、光州刺史を歴任し善政で知られた。娘は孝文帝の嬪となった。清廉で三十余年の仕官でも家産は増えず、没後輔国将軍・幽州刺史を追贈され諡は景。子は6人、長子孝芬をはじめ子孫は北斉・隋で栄えた。
年表(1件)
- 景明初光州刺史を離任する際、老幼に泣いて見送られた
出自と経歴
- 字雙根。辯の従父弟。父郁は濮陽太守。幼くして父を失い喪に礼を尽くし学問に励んだ。五代同居の後、飢饉が続き分家、挺は弟振と田宅を譲り合い墓田のみを守った。家は貧しかったが兄弟は和やかに学問を続け、郷人の贈与も辞退しては人に分け与えた。秀才に挙げられ策問で上位となり、中書博士から侍郎に転じた。書に長け文明太后の父燕宣王の碑文を勅命により書し、秦昌子に封ぜられた。登聞令から典属国下大夫に遷り、律令制定に参与し帛・穀・馬・牛を賜った。尚書李沖に重んじられ、孝文帝は挺の娘を嬪とした。宋王劉昶の彭城鎮守に長史として推薦されたが病を理由に辞退、代わりに王肅が長史となったほど信頼が厚かった。後に昭武将軍・光州刺史となり善政を行った。
光州での治績
- 孝文帝の兗州行幸に際し召され辺境統治の方策と文章について問われ、帝は喜び「別れて2年、私の文章を編集した、副本を与えよう」と述べ、側近に「辺境を守る者は皆この様であれば何を憂えることがあろう」と言った。散騎常侍張彜の巡察でも清廉さを称された。州の掖城西北の斧山の頂に観宇を営もうとした際、古老が「暴雨が多くこれは龍の通り道と伝わり長続きしない」と諫めたが挺は「人と龍の道は遠くない」と造営し、数年間風雨の異変はなかったが、挺の離任後すぐに壊れ、人々は善政の感応と評した。
- 犯罪者を辺境に配流する際、一族全員を連座させる制度が逃亡を招いていたため、挺は『周書』の「父子罪不相及」を引き、一人の罪で一族が連座するのは不当だと上書し、帝はこれを納めた。州内の鉄不足を解消するため鉄官の復置を上表。孝文帝が天下の氏族を整理する際に本州大中正に任じられた。掖県の90歳超の老人が林邑で得た美玉を献上しようとした際、挺は「私は玉を宝としない」と固辞したが受け取らず都に送らせた。景明初、離任時には老幼が泣いて見送り、贈られた縑帛もすべて辞退した。
晩年
- 宣武帝に寵愛された散騎常侍趙修とは同郷ながら訪門しなかった。北海王元詳が司徒・録尚書事となり挺を司馬に任じたが固辞できず、周囲は屈することを惜しんだが挺は平然としていた。詳が選任を主宰した際、他者は考課の等級向上を競ったが挺は一言も発しなかった。詳が牒を出すよう勧めても「階級・考課は国家の常例であり、自ら誇り求めるのは恥ずべきこと」と答え、詳は大いに感嘆した。詳は挺を名で呼ばず州号で呼ぶほど礼遇した。没後、輔国将軍・幽州刺史・景を追贈。光州の旧吏は訃報に悲しみ、銅像を鋳造して広固寺で追善を行った。
- 挺は若い頃、貧しい崔光を援助し、邢巒・宋弁を幼くして見出し、人物眼で知られた。三十余年の仕官で家産は増えず食事も質素で、子には孝の一字を字とし恭敬廉譲を望んだ。葬儀では諸子は父の遺志により贈り物をすべて辞退した。子は6人、長子が孝芬。
崔孝芬――経歴
- 字恭梓。早くから才識あり文章を好んだ。孝文帝に召見され称賛された。李彪が「そなたの子が帝に謁見した様子は優れ、抜群の人物になろう」と挺に言ったが、挺は「それは私には過分な言葉だ」と答えた。父の爵位を継ぎ、司空属・定州大中正を歴任し裁断に優れ、府主任城王元澄に重んじられた。澄が上奏した地制8条は孝芬が参定したもの。廷尉少卿に遷る。孝昌初、梁将裴邃らの淮南侵攻に対し行台酈道元・都督河間王元榮の討伐を督促する使者となり、賊は退却した。荊州刺史・尚書兼南道行台・領軍司に遷り諸将を率いて神俊を救援、代わって指揮した。恒農道から南下し敵は敗走、明帝に称賛された。
崔孝芬――受難と復帰
- 元叉の党与として盧同・李獎らと共に除名され召還されたが、後に廷尉に復帰。章武王元融の贓罪を重法で処断したところ、融は鮮于修禮討伐の際、孝芬の弟孝演が博陵で賊に陥落し殺害されたことを利用し、孝演が賊に投じたと密告、孝芬は捕えられた。一家で梁に亡命し恩赦で帰還。梁将成景俊が彭城に迫った際、尚書右丞・徐州行台を兼ね出発の挨拶をした際、霊太后が「そなたの娘は我が子に仕えているのに、なぜ元叉の車中で悪口を言ったのか」と詰問したが、孝芬は「そのような発言をした者があれば元叉との親密度は私より深いはず、対決させよ」と反論し、太后は恥じた。孝芬到着後、景俊らは退却し、徐・兗二州行台を兼ねた。
- 建義初、太山太守羊侃の反乱で兗州行台が包囲されると散騎常侍・鎮東将軍・金紫光禄大夫・東道行台を兼ね大都督刁宣と共に救援、侃は梁に逃走した。永安中、西兗州刺史を授かるが辞退し太常卿となった。太昌初、殿中尚書を兼ね、儀同三司・吏部尚書を加えられた。孝武帝の関中入りの際、斉神武(高歓)の洛陽入城で尚書辛雄・劉廞らと共に誅殺され、家族も没収されたが天平中に赦免された。
- 孝芬は博聞で弁が立ち談論を好み、後進を愛し古今を論じ諧謔を交え、聞く者は疲れを忘れた。文筆数十篇。子8人。
崔勉――孝芬の長子
- 字宣祖。史伝に通じた。普泰中、尚書右丞を兼ねた。世評では権勢に阿ると評された。尚書令爾朱世隆に重用されたが、尚書郎魏季景も世隆に重んじられ両者は不和で、季景が世隆に右丞の地位を求め勉から奪った。太昌初、散騎常侍・征東将軍・金紫光禄大夫・定州大中正に任じられたが家族が捕縛された際に難を逃れ、斉神武に慰撫された。天平初、勲貴の妻子を定州に護送する使者となり生還。母李氏の喪に哀傷しすぎて病没。子なく弟宣度の子龍子を後継とした。
崔猷(宣猷)――孝芬の子
- 少くして学を好み風度閑雅、剛直で軍国の籌略あり。普泰初、司徒従事中郎に累進。家難(孝芬の受難)後、間道を経て関中に入り孝武帝に謁見し哀を極め、帝は「忠孝の道はこの一門に集まる」と感嘆した。大統初、給事黄門郎・平原県伯を兼ね、2年に正黄門となり、竇泰討伐・弘農回復・沙苑の戦いに従軍し文翰を掌った。5年、司徒左長史・驃騎将軍。太廟で優伶の戯を用いていたことと祭祀官の兼任の弊を諫め、実施させた。京兆尹に遷り、婚礼の音楽濫用と華美な織物着用を禁止させた。盧辯らと共に六官制度を創設。12年、涇州刺史。
- 14年、侯景が河南を挙げて帰順すると行台王思政が赴任、周文帝が猷に「思政に疑問があれば相談させよ」と書を送った。思政が襄城から潁川へ移る計画に対し猷は「襄城は京洛を扼する要地、動静に応接しやすい。潁川は寇境に近く山川の険もなく賊が来れば城下に至る、行台は襄城に置き潁川には州を置き郭賢を守らせるべき」と献策し周文帝はこれに従った。潁川陥落後、周文帝は深く悔いたという。猷は疾を得て去職したが、東征に際し周文帝から馬を賜り籌略に加わった。17年、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・本州大中正、宇文氏の姓を賜った。
崔猷――西魏末~北周
- 恭帝元年、周文帝が梁・漢への旧路開通を命じ、猷は儀同劉道通ら5人を督し山を穿ち谷を埋め500余里の車路を開き梁州刺史となった。周文帝没後、始・利・沙・興等の諸州が反し信・合・開・楚の四州も叛いたが、梁州のみ民心が乱れなかった。利州刺史崔士謙の援軍要請に6千の兵を送り、信州へは食糧4千斛を送り両鎮を保全した。猷の次女は皇帝の養女となり富平公主に封ぜられた。
- 周明帝即位後、御正中大夫に召された。周礼に基づき「天王」と称し年号を建てない慣例に対し、猷は「世に澆淳の別あり帝王は沿革すべき」と秦漢に倣い皇帝を称し年号を建てるよう提言、朝議はこれに従った。司会中大夫を兼ねる。明帝崩御に際し晋公宇文護が武帝擁立の遺詔について問うと、猷は「殷は尊尊、周は親親を道とするが、朝廷は既に周礼に従っており違えるべきでない」と答え、その正論が称賛された(実際には行われなかった)。
- 陳の蔡皎の来附に晋公護が南伐を議した際、公卿は誰も反対しなかったが猷は独り「前年の東征で死傷者は半数を超え傷は癒えていない、長星の異変も天の戒めであり、窮兵を慎むべき」と諫めたが聞き入れられず、水軍は敗れ裨将元定らが江南で没した。建徳6年、少司徒・上開府儀同大将軍。隋文帝受禅後、旧臣として大将軍・汲郡公。
- 開皇4年(584年)没し、諡は明。子仲方が爵を継いだ。
崔仲方――経歴
- 少くして読書を好み文武の才略あり。15歳で周文帝に見出され諸子と共に学んだ、隋文帝も同席し親交を結んだ。明経により晋公宇文護の参軍から記室、司正大夫に遷り斛斯征・柳敏らと礼律を修めた。軍功で平東将軍・銀青光禄大夫、石城県男。武帝が北斉滅亡を図った際、二十策を献じ帝に絶賛された。少内史赴芬と格式を刪定。晋州攻略に従軍し翼城等四城の説得に成功、儀同・范陽県侯。行軍長史として郯国公王軌の呂梁での陳将呉明徹捕獲戦に策を出した。宣帝嗣位後、少内史。
- 宣帝崩御時、隋文帝が丞相となり仲方と親しく交わり、仲方は文帝に心服した。18の便宜を上疏し嘉納された。文帝の受命(禅譲)を勧め従われた。受禅後、正朔・服色を高熲と議定するよう命じられ、「晋は金行、北魏は水、周は木、隋は火が木徳を継ぐ、車服旗牲は赤を用いるべき」と献策し、六官制度を漢魏の旧に戻すことも勧め、いずれも採用された。上開府、司農少卿、固安県公。朔方・霊武の丁3万を発し黄河から綏州・勃出嶺に至る700里の長城を築かせ、翌年さらに丁10万を発し辺境に数十城を築かせた。父の喪で去職、期年を経ず虢州刺史に起用され、陳征討策を上書した。
崔仲方――陳征討策(要旨)
- 晋の呉平定から開皇6年まで300余年を経ており「王者三百年で法を改める」との讖緯を引き、陳の建国が丙子で今年丙午と子午の対衝にあたる不吉を指摘。史書の予言や五行相克の理論を援用し隋の火徳と陳の滅亡の関連を論じ、天時よりも人和が重要とし、陳は主君暗愚・民の怨嗟・地の険なく兵も少ないと分析、武昌以下の諸州に精兵を配し密かに渡河を計画すること、益州・信州等では舟楫を整え水戦の構えを見せること、蜀漢二江が要衝であり陳軍は漢口・峡口に集結して水戦火攻を用いるだろうと予測し、上流に軍がある場合の対処、下流諸将の渡河の機を見た対応を献策した。
- 文帝はこれを大いに喜び、基州刺史に転じ入朝させた。この策により御袍褲と雑彩500段を賜り開府に進んだ。陳征討では行軍総管として秦王(楊俊)と合流。陳平定後、事に坐して免官も、間もなく復位。
崔仲方――晩年
- 後年、会州総管。羌族討伐で30余戦の末、紫祖・四鄰・望方・渉題・幹碉・小鉄囲山・白男・弱水等の諸賊を平定し、奴婢120口・黄金30斤を賜った。代州総管に遷り召還された。文帝崩御時、漢王楊諒の残党が呂州に拠り、煬帝が周羅睺を送るも流矢で戦死、仲方が代わって指揮し攻略、大将軍に進んだ。戸部・礼部尚書を歴任し事に坐して免官。国子祭酒、太常卿を経て、老齢のため上郡太守に出された。母の喪で去職、1年余で信都太守に起用され、後に致仕を願い許され家で没した。子の燾は定陶令。宣猷の弟宣度は斉王開府司馬・恒農太守、宣軌は尚書考功郎中、弟の宣質・宣静・宣略はいずれも早世した。
崔孝偉――孝芬の弟
- 趙郡太守。郡は葛榮の乱後、人々が子女を売るほど困窮していたが、豊作の夏椹を多く貯えるよう勧め安定させた。農事を教え流民を招撫し、恩を先に威を後にして流民を呼び戻した。学校を興し百姓に感謝された。任地で没し瀛州刺史・簡を追贈、朝議で不足として安北将軍・定州刺史を追贈。子は昂。
崔昂――経歴前半
- 7歳で父を失い母に孝を尽くした。伯父吏部尚書孝芬は「この子はいずれ大成する、我が家の千里の駒だ」と評した。
- 端直で文才があり、天平2年(535年)文襄(高澄)に記室参軍として引き立てられ腹心とされた。文襄の輔政後は開府長史・京畿長史を兼ね、勲貴や孫騰・司馬子如ら不法の家を文襄の密旨により法で取り締まり内外を粛正した。司徒右長史に遷り、左府の陽平人呉賓の相続偽装事件を長年解決できなかった王昕・鄭憑・盧斐・王敬寶らに対し、司徒婁昭の命で昂が推問すると即日真相を明らかにし、昭は「左府の官吏数人より右府の長史一人が優る」と嘆じた。
崔昂――上書と度支尚書
- 武定中、文襄が広く意見を求めた際、昂は屯田の重要性(曹魏・晋の先例と幽・安二州、徐揚兗豫の国境防衛の必要)と、法獄の審理不十分による冤罪防止(贓物の額の誤認による重罪化を戒める)の2点を上書し採用された。尚書左丞、その年度支尚書を兼ねる。左丞と尚書の兼任は近代に例がなく朝野の栄誉とされた。度支の水陸運送の制度を整え利便を図り常式とされた。右僕射崔暹の海塩専売案について問われ「官が製塩を独占すれば民の竈を断つことになる、関市に準じ薄く竈税を課し官民双方に利すべき」と答え採用された。
崔昂――北斉朝での活動
- 武定6年、甘露降下の祝賀で魏帝が徳績の由来を諸臣に問うた際、昂は「吉凶は瑞祥によらず、桑雉の戒めが中興を開いた例もある、小鳥が大きな鳥を孕む瑞祥に浮かれるべきでない」と答え帝を粛然とさせた。都官尚書として田事7条を献策。太府卿を兼ねる。北斉受禅後、散騎常侍・大司農卿。二寺(太府・大司農)の煩雑な事務を巧みに処理し不正を許さず、横領・浪費是正案34条も上奏。太子少師邢邵と建国の礼式を議定し華陽県男に封ぜられた。律令・礼楽の刪定にも参与し尚書右僕射崔琡ら43人と共に議定。晋陽行幸の際、命令伝達の統括を任された。廷尉卿に遷る。
崔昂――厳酷な裁判官として
- 法運用が厳格で世評は「平恕でない」とされ、盧斐と共に京畿の詔獄を担当し残酷との評もあった。しかし濮陽の沈子遐が侯景の鉄券を持ち徐州都督府長史畢義緖の謀反を告発した件や、衛尉卿杜弼の門生郝子寛が弼の誹謗と元子雄との謀反を告発した件では、昂は事実を明らかにして両者の無実を晴らし、告発者を偽証罪に問うた。天保3年、度支尚書。内臣の投書や飛書による告発事件も的確に真相を暴き、告発を絶えさせた。都官尚書、済州北郡の采地を賜った。
崔昂――文宣帝以降
- 文宣帝は「旧臣は多く州に出るが、卿は令僕(尚書令・僕射)に用いる、六十を過ぎたら本州刺史に」と述べた。皇太子への訓示でも尉瑾・司馬子瑞と共に名臣として紹介された。宴席で他の臣は罪過を指摘される中、昂は「直臣」と評された。10年、兼右僕射から正式な僕射となるが間もなく再び兼任に戻された。楊愔との不和により文宣帝崩後に右僕射を免ぜられ儀同三司・光禄勲。皇建元年、太常卿。河清元年、御史中丞を兼ねる。
- 甥の李公統が高歸彦の乱に連座して誅された際、法により60歳以上の婦人は連座を免れる規定があったが、公統の母(昂の姉妹)が50代であるのに60と偽り免れようとした件が発覚し、昂も連坐して除名された。3年、五兵尚書、祠部に遷る。天統元年、没し趙州刺史を追贈。
崔昂――人物評
- 風格才識に優れ堅正剛直の名を得たが、上の意向を推し量り時の君主に取り入る面もあり、便宜の提言や陰私の摘発を行い文宣帝に重用され朝の大事を委ねられた。厳酷な性格で鞭打ちを平然と行い、崔暹・季舒が前盾、後には高徳正と姻戚関係にあり権勢を恃んだため名流には受け入れられなかった。子5人、第3子液(字君洽)は文藻に優れ待詔文林館、隋開皇中に中書侍郎。
崔孝演――孝偉の弟
- 字則伯。伯父の後を継ぐ。気さくな性格で立派な髭を持ち、若くして仕官の意志なく郷里で過ごした。瀛州安西府外兵参軍となるが罷免され帰郷。鮮于修禮の乱で殺害された。子なく弟孝直の子士遊を後継とした。
崔孝直――孝演の弟
- 字叔廣。身長8尺、眉目秀麗。直閣将軍・通直散騎常侍。爾朱兆の洛陽入城後、天下不安を理由に辞職し帰郷。太昌中、衛将軍・右光禄大夫を辞退。家で没する際、子らに「私は功なく、朝廷が贈諡しても私の意に従い受けるな」と戒めた。子士順は太府卿。
崔孝政――孝直の弟
- 字季讓。10歳で父を失い深く悲しんだ。志操堅固で経史を博く学び辞賦を好んだ。喪礼への配慮が深く衣服の制まで自ら手掛けた。太尉汝南王元悅の行参軍。
崔孝芬一族の家風
- 孝芬兄弟は孝義に厚く、弟孝演・孝政の死には哭泣哀慟し肉食を絶ち痩せ細るほど哀傷した。孝偉らは孝芬に恭順を尽くし、孝芬の指示なしには坐食の順序も動かなかった。日々の生活も慎み深く、財を私せず慶弔には皆で分担した。叔父振の没後は叔母李氏に孝を尽くし、家事はすべて相談して決め、財物もすべて李氏の管理下に置いた。従弟宣伯・子朗も実子同様に育てた。
崔振――挺の弟
- 字延根。学行あり家で孝を尽くし宗族に称賛された。秘書中散として謹厳に勤め孝文帝に知られた。孝文帝の南討に高陽内史から尚書左丞に抜擢され京に留まった。太子庶子に遷る。景明初、長兼廷尉少卿。公正な裁断で知られ、河内太守陸琇が咸陽王元禧の謀反に連座した際、内外の要人の助命嘆願にも屈せず厳正に裁き獄死させた。肆州刺史として治績を挙げ、河東太守で没し南兗州刺史・定を追贈。
崔子朗ほか――振の子孫
- 振は40余年官途にあり常に称職とされた。子の子朗は容貌美しく経史に通じ温厚で、侍御史・平東将軍で没した。挺の従父の子瑜(字仲璉)は幼くして父を失うも学業を修め鴻臚少卿・高邑男、瀛州刺史を追贈。子の孟舒(字長才)は父の爵を継ぎ広平太守、殷州刺史・鎮東将軍・康を追贈。孟舒の弟仲舒は鄴県令。仲舒の弟季舒が最も知られる。
崔季舒――北斉での躍進
- 字叔正。幼くして父を失い聡明、経史に通じ書簡に長け当代の才幹があった。17歳で州主簿。大将軍趙郡公高琛に器量を認められ斉神武(高歓)に推薦され大行台都官郎中となった。文襄輔政期、大将軍中兵参軍に転じ寵愛された。魏帝側近として腹心が必要とされ中書侍郎に抜擢。文襄が中書監として門下の機事を中書に集中させた際、内伎(宮中音楽)も季舒が音楽に優れたことから中書に隷属した(内伎の中書隷属は季舒に始まる)。文襄の上奏文の文辞を整え、静帝は文襄への返答を季舒と相談し「崔中書は我が乳母」と評した。給事黄門侍郎・主衣都統も領し、外見上は魏朝に属しながら心は霸府(高氏)に帰し密謀に与った。賓客が集まり名声は崔暹を凌いだ。暹は朝堂で「私が僕射になれれば皆叔父(季舒)の恩による」と拝礼したほど権勢があった。
崔季舒――受難と復帰
- 当時勲貴の不法行為に対し文襄は容赦せず、季舒・崔暹らの取り締まりが恨みを買った。文襄が横死した際、文宣帝(高洋)が晋陽へ赴く際、黄門郎陽休之が季舒に同行を勧めたが、季舒は声色を好み享楽を求めて同行せず、司馬子如の宿怨や尚食典御陳山提らの弾劾により季舒と崔暹は共に鞭打ち200回・北辺流罪となった。天保初、文宣帝は無罪を知り将作大匠に復帰、侍中・尚書左僕射・儀同三司に至り厚遇された。乾明初、楊愔により僕射を停められ、母喪で解任、後に光禄勲・中兵尚書を兼ね、斉州刺史に出た。淮河を渡っての密貿易と贓賄の疑いで弾劾されたが恩赦で不問。武成帝在藩中の病を治療し尽力した。大寧初、召還され慰撫を受け、度支尚書・開府儀同三司に累進。昭陽殿の造営を監督したが、胡長仁の讒言で西兗州刺史に出された。吏部への典簽推薦で処罰され免官、また広寧王邸訪問の件で杖罰を受けた。武成帝崩御時に哭泣に参加できなかった。後、膠州刺史、侍中・開府に遷り新安・河陰二郡の采地を賜り、左光禄大夫・待詔文林館・『御覧』監修、特進・監国史となった。
崔季舒――最期
- 晩年も書籍好きで人材推薦や文学奨励に努め評判が高かった。祖珽が季舒を内作の総監とした後、珽が失脚すると韓長鸞は季舒も珽の党とみなし追放を図った。壽春包囲の際、皇帝の晋陽行幸を張雕と共に諫めようとし、従駕の文官と連名で上奏。趙彦深・唐邕・段孝言らも当初同調したが躊躇し、季舒との間で議論となった。韓長鸞は「漢人文官の連名上奏は反乱の疑いあり誅すべき」と讒言、皇帝は署名者を含章殿に召し、季舒・張雕・劉逖・封孝琰・裴澤・郭遵らを首謀として殿庭で斬り、屍は漳水に棄てられた。他の署名者も鞭打たれかけたが趙彦深の諫めで免れた。季舒らの家族男女は北辺に流され、妻娘・子婦は奚官に配され、幼い男子は蚕室に処された。
- 季舒は医術を好み、天保年間の流謫中に研鑽を積んで名手となり、身分の上下を問わず治療に尽くした。庶子の長君(尚書右外兵郎中)、鏡玄(著作佐郎)は共に長城で労役に処された。後、南安王高思好の反乱に季舒らの死を口実として利用され、六人の兄弟子姪が軍に召集され、事敗れて長君らも誅殺された。妻たちも再び官に没収された。北周武帝が北斉を滅ぼした後、斛律光と共に季舒ら六人に優れた贈官が行われ、季舒には開府儀同大将軍・定州刺史が贈られた。
崔敬邕――挺の従祖弟
- 徳望ある人物で左中郎将、軍功で臨淄男、営州刺史。庫莫奚国の馬数百匹が風で境内に迷い込んだ際すべて送り返し夷人に感服された。太中大夫で没し済州刺史・恭を追贈。
崔接――敬邕の従弟
- 字願賓。容貌魁偉で高慢、奔放な性格。中書博士・楽陵内史。任城王元澄に礼遇され、澄が本部に着任した際も遠慮なく振る舞い、澄はこれを喜んで受け入れた。楽陵太守を経て帰郷して没した。
崔纂――挺の族子
- 字叔則。博学で文才あるが時に知られず『無談子論』を著した。廷尉正として大獄の判断に明晰さを発揮し評判を得た。太原王静が廷尉監から少卿に転じた際、纂はその下に居ることを恥じ、上下の礼を欠いた書を送り辞職を願い出た。洛陽令となり没し、司徒左長史を追贈。
崔穆・崔暹――纂の兄と甥
- 纂の兄穆(字子和)は度量あり州辟主簿で没した。穆の子が暹。
崔暹――出仕まで
- 字季倫。若くして書生として勃海に避難し高乾に依り、妹を高乾の弟高慎に嫁がせた。慎の滄州・光州刺史時代に工史として登用された。趙郡公高琛の定州鎮守に開府諮議として招かれ晋陽に随行、斉神武(高歓)と語らい親しくなり丞相長史を兼ねた。神武が洛陽入りの際、暹を高琛の下に留め後事を一切託した。琛が罪で処罰されると暹も免官。尉景の并州任で別駕に起用され、文襄が景に代わると開府諮議として別駕を続けた。文襄の鄴都鎮撫に従い散騎常侍を加え、左丞・吏部郎、定州大中正を兼ね『麟趾格』の議定を主導した。
崔暹――文襄の信任
- 文襄の信頼が日々増し、人材推薦を好み邢邵の重用を進言したが、邢邵は逆に暹を悪く言い、文襄が「邵はお前を長所ありと言うのに、お前は邵を短所ありと言うのは愚かだ」と暹に言うと、暹は「邵が私を悪く言い私が邵を良く言うのはどちらも事実であり愚ではない」と答えた。高慎の叛乱時、暹と不仲を装っていたが、実は文襄が救いを苦言して神武の疑いを解いた。御史中尉に遷り畢義雲・盧潜・宋欽道・李愔・崔贍・杜蕤・嵇曄・酈伯偉・崔子武・李廣ら御史を選任し人物眼を称賛された。文襄が暹の威勢を高めようと諸公の前で殊礼を演出した逸話や、旬日後に東山で暹の先駆けが赤棒で打たれ文襄が馬を避けた逸話がある。
崔暹――弾劾と評価
- 尚書令司馬子如、尚書元羨、殷州刺史慕容献を弾劾、また太師司州牧咸陽王元坦、并州刺史可朱渾道元、冀州刺史韓軌を弾劾し、鄴下の貴人らへの戒めともなった。僧尼の乱れを正す科条を上奏し沙門法上を昭玄都として検束させた。
- 斉神武が鄴に赴いた際、群臣が迎える中、神武は暹の手を握り「小児(文襄)は任は重く才は軽い、中尉(暹)がいなければ今日はなかった、栄華富貴は中尉自らが取ったもの、高歓父子は報いようがない」と労い、馬を賜って随行させた。魏帝が華林園で宴を開いた際、公正な弾劾を行う者に神武自ら酒を勧めるよう求め、神武は跪いて「御史中尉崔暹一人のみです」と答え、褒賞の千段を暹に回すよう願い出た。文襄も暹に酒を勧め、神武はこれに手を打って喜んだ。文襄は退いて「私すら羨(高慎)を恐れるのに、他の者は言うまでもない」と暹に語った。神武が晋陽に戻る際も馬と彩物を暹に賜り、威名は日に日に高まった。
崔暹――文襄輔政期の諫言
- 神武の崩御を秘した間、文襄は暹を度支尚書・監国史・右僕射兼任として腹心とし魏帝の侍読とした。暹は国事を我が事のように憂えた。文襄が王昭儀を正室にしようとした際、暹は「天命はまだ改まらず魏室は健在、公主(魏帝の娘)に罪はなく捨てるべきでない」と諫め、文襄は不満ながらも従った。文襄の車服の逸脱や誅戮の過度、言動の失当に暹はしばしば厳しく諫め、文襄も改めた。臨淮王元孝友が文襄に寵愛され歌舞戯謔を演じても暹を見ると態度を改めた。数百人の獄囚を文襄が皆誅そうとした際、暹は文書処理を意図的に遅らせ文襄の怒りが解けるのを待ち赦免させた。司州別駕司馬仲粲・中従事陸士佩が文襄に殴打され獄死しかけた際も暹は食料と薬を送り助命に尽力した。
崔暹――生活と人物
- 出仕以来、遅くまで勤め、朝は兄弟と母への挨拶、夕は食事と就寝の様子を見てから外の書斎で客と論じ、時に僧と玄理を論じ夜遅くまで過ごした。家産に無頓着で、魏梁通好の際に他の要人が使者に交易品を求める中、暹は仏経のみを求め、梁武帝はこれを聞いて写経し幡花宝蓋を添えて送った。
- 一方で大言を好み節度なく戯れる面もあり、密かに沙門明藏に『仏論』を書かせ自分の名で著したり、13歳の子達拏に権会から『周易』の一部を学ばせただけで朝貴を集め高座で講義させたりし、同郡の眭仲讓が偽って敬服して見せると司徒中郎に用いた逸話があり、これらは暹の短所とされた。
崔暹――文宣帝との関係
- 文宣帝(高洋)嗣位初、司馬子如・韓軌らの旧怨や高隆之の進言により暹は流罪となり馬城で昼は労役夜は地牢に置かれた。1年余で奴隷の讒言により謀反容疑で晋陽に護送されたが実証はなかった。かつて文襄が文宣帝を愚を装っていると疑い暹に相談した際、暹は「かつて二郎(文宣)と職にあった時、手板で背を叩いても怒らず、犀角の手板と自分の竹の手板を交換し自ら磨いて眺めていた、これは実際に愚かなのだ、心配無用」と答えていた。文宣帝が暹を鎖につないだ際にこの過去の一件を問い詰めると、暹は自分の言葉が文宣帝を守ったのだと弁明し、帝は「私が禍を免れたのは暹の力だ」と悟り釈放し太原郡事務代行、太常卿とし「崔暹の清正は天下に並ぶ者なし」と群臣に語った。かつて文襄が末妹を暹の子達拏に嫁がせようとして崩御で中断していたが、文宣帝が改めて婚姻を実現させた。暹は中書監・併省右僕射に遷り、法網が厳しく千余人が獄にあった状況を大録囚により旬月で処理した。文襄・神武ともに暹を封じようとしたが固辞。文宣帝は暹の娘を皇太子妃にしようとしたが李后が反対し中止。天保8年、尚書右僕射・儀同三司。絹の反物の規格を旧に戻す提言も採用された。文宣帝の飲酒過多への諫言に「私は酒で何を廃したか」と反問された逸話や、常山王(高演)が「陛下は威厳あり酔われても太后すら諫められないのに僕射のみが直言する」と感謝した逸話がある。10年、没し、帝自ら霊前で哭し開府儀同三司・尚書左僕射・定州刺史・貞節を追贈。
崔達拏――暹の子
- 温良廉謹で学識あり。儀同三司・司農卿、北周では御府大夫。大象中、鄴への使者となり尉遲迥挙兵に遭遇し総管司馬となる。迥平定後、誅された。文宣帝がかつて娘の楽安公主(達拏の妻)に「達拏はそなたに対してどうか」と問うと「よく敬ってくれるが、姑が私を憎む」と答え、帝は宮人に達拏の母を召させて殺し漳水に投じさせた。北斉滅亡後、達拏は公主を殺して復讐した。暹の兄は謀開(未詳)。
崔游――纂の従祖弟
- 字延叔。若くして気概あり。東郡太守。郡内の塩戸が代々州郡の兵役に徴発される苦役を訴え、交代制を上奏し郡内が感謝した。城内にあった太学を城南の開けた場所に移し自ら経を講じ、良守と称された。正光中、南秦州刺史。
崔游――最期
- 州人楊松柏・洛徳兄弟がたびたび反乱を起こしていたが、游は懐柔して帰順させた。松柏は郡の豪帥であったため恩を施し賊も帰服したが、游は宴会に乗じて一斉に斬殺した。これにより人々の信を失い全境が反乱した。正光5年、秦州城の民が刺史李彦を殺害する事件が起こり、游は不安を感じ脱出を図ったが城人韓祖香らに攻められた。窮した游は楼に登り悲嘆の末、幼い娘を自ら手にかけて群小に辱められることを拒み、祖香らに殺害された。永熙中、散騎常侍・鎮北将軍・定州刺史を追贈。子は伏護。
史論
- 崔鑒は文業により世に用いられ、家門は繁栄を重ねた。崔辯は才能で知られながら地位は及ばず、逸(景俊)は優れた官途に恵まれなかったことを人々は惜しんだ。模の勇壮、楷の忠貞は殺身成義・臨難如帰の大丈夫の行いというべきである。士謙兄弟は武勇のみならず忠公の誉れも称賛に値する。挺兄弟は高潔な人柄と文質を兼ね備え、朝野に重んじられ子孫も栄えた。猷(宣猷)は入朝しては謀を陳べ、出でては威恩を施し、仲方は文武を兼備し伐陳の策も深遠であった、その世々の徳は偶然ではない。昂は功業をなす才幹があったが、仁心に背き苛政を布いたため晩年に躓いたのは当然である。季舒は龍逢の節を守り、季倫(暹)は分庭の礼遇を受け、境遇は異なるが名を残した点は同じであり、まさに「彼に人あり」というべきである。