北史卷三十二 列傳第二十 崔辯

博陵安平の人、崔鑒の従祖弟で字は神通。経史に通じ風儀整った人物で、献文帝の代に召されて中書博士・武邑太守となり、余暇には専ら学問を教授した。没後、安南将軍・定州刺史を追贈され諡は恭。

年表(1件)

鑒の従祖弟

  • 字神通。祖琨(字景龍)は本郡太守代行、父経は兗州刺史を追贈。辯は経史に通じ風儀整った人物で、献文帝に召され中書博士・武邑太守となり、余暇には専ら学問を勧めた。没後、安南将軍・定州刺史・恭を追贈。

崔景俊(逸)――辯の長子

  • 高潔な人柄で古学を好み、経明行修により中書博士に召された。侍御史・主文中散を歴任。孝文帝より「逸」の名を賜り、員外散騎侍郎として著作郎韓興宗と朝儀を定めた。孝文帝の信任厚く国子博士に転じ、公事のたびに独り召され、博士が独立して奏事する例は逸に始まった。通直散騎常侍・廷尉少卿で没した。

崔巨倫――逸の子

  • 字孝宗。幼くして父を失う。経史と文学武芸に通じた。叔父楷が殷州にあった際、巨倫は長史・北道別将として仕え、州が賊(葛榮)に陥った際に民を慰撫し賊にも義とされた。葛榮が巨倫の才を惜しんで黄門郎に用いようとしたが、巨倫はこれを嫌い、五月五日の宴で「五月五日時、天氣已大熱、狗便呀欲死、牛復喘吐舌」という戯詩を贈って自ら愚を装い、免れた。決死の士を集め夜中に南へ逃れる際、賊に遭遇し、「南で一寸死すとも、北で一尺生きるものか」と言い、勅命を受けたと欺き、賊が松明で勅を確認しようとする隙に自ら十余人を斬り、馬数匹を得て脱出した。夜道に迷い仏塔の灯りを頼りに洛陽に至り、持節別将として北討に従軍。叔父楷の喪の際に急いで殯葬したことを悔い、後日改めて改葬し家族も連れ帰った。国子博士を授かった。
  • 荘帝即位後、東濮陽太守となり、河北の混乱で流入した民に私財を投じて救済し、当時称賛された。元顥の洛陽入りに従わず郡を守り、荘帝還宮後に漁陽県男に封ぜられた。後に光禄大夫。没し、子の子武が爵を継いだ。
  • 巨倫の姉は聡明で片目を患い縁談がなかったが、叔母(李叔胤の妻)がこれを憐れみ自分の子に嫁がせ、人々はその義を称えた。

崔模――逸の弟

  • 字叔軌。身長8尺で恰幅もそれに応じた。叔父の後を継ぎ、志気があった。蕭寶夤の関隴討伐に西征別将として従い戦功を重ね槐里県伯に封ぜられた。岐州事務代行中、賊討伐で陣没。永熙中、驃騎大将軍・儀同三司・都督・相州刺史を追贈。

崔楷――模の弟

  • 字季則。廣平王元懷の文学となる。正始中、王国の官の不適格者が多く誅殺される中、楷と楊昱のみ度重なる諫言により免れた。太子中舎人・左中郎将を歴任。高肇に付いたとして中尉に弾劾された(『高聰伝』に見える)。性は厳烈で豪強を挫く力があり、「莫鋋(彳解孤楷反)、付崔楷」と評された。冀・定数州の水害への対策を上疏し実施された。
  • 孝昌初、殷州が置かれ楷が刺史・後将軍となった。単身赴任を勧める声に対し「単身では朝廷に進退の計ありと疑われ、将士も志を固めまい」と全家で赴任。賊勢が迫った際、幼い子女を夜に逃がそうとしたが「一朝子女を逃がせば我が志が揺らいだと思われる」と呼び戻した。賊の攻撃に対し力戦し「崔公すら百口を惜しまぬのに、我らが一身を惜しもうか」と将士を鼓舞したが、力尽きて城は陥落。楷は節を曲げず殺された。楷の兄弟父子は皆国事に殉じ、朝野が悼んだ。侍中・鎮軍将軍・定州刺史を追贈、永熙中さらに驃騎大将軍・儀同三司・都督・冀州刺史を追贈。

崔士元――楷の長子

  • 沈着で学才あり。殷州陥落時に戦死し、平州刺史を追贈。

崔育王・崔文豹――士元の子・弟

  • 育王は才幹で知られ北斉で起部郎に至った。文豹(字蔚)は文才あり本州大中正。

崔士謙――士元の弟

  • 孝昌初、著作佐郎から出仕。賀拔勝の荊州鎮守に従い行台左丞となった。孝武帝の西遷に際し、勝に急ぎ関右で帝に謁見するよう勧めたが用いられなかった。州人劉誕が侯景軍を引き入れると勝は敗れ梁に奔り、士謙も同行。梁で援軍を請うたが梁武帝は出兵せず勝らの志節のみ賞し帰国を許した。士謙が先に帰国し隣好を通じ、周文帝(宇文泰)に厚遇され千乗県男に封ぜられた。勝の帰国後は太師長史となり功により子爵、尚書右丞。周文帝の洛陽解囲・河橋の戦いに従い定州大中正・瀛州刺史を加えられた。柳仲禮を隨郡で破り李遷哲を魏興で討ち、驃騎大将軍・開府儀同三司・直州刺史に進み、宇文氏の姓を賜った。恭帝初、利州刺史に転じた。
  • 士謙は政治手腕に優れ官民に敬愛された。周保定2年(562年)、総管・安州刺史に遷り大将軍を加え武康郡公に進んだ。天和中、江陵総管・荊州刺史。南は陳、東は北斉と接する要地を、外は強敵を防ぎ内は軍民を撫し、良牧と称された。毎年の考課で常に天下一とされ度々褒詔を受けた。賀拔勝の荊州在任時は親遇されつつも名位は目立たなかったが、この地位に就くと朝野の栄誉となった。任地で没し、境内の人々が哀惜し祠堂を建て四季に祭った。子の曠が爵を継いだ。
  • 士謙は至孝で弟の説と特に友愛深く、地位資産とも私することなく共有した。家風は厳粛で、曠と説の子弘度もその遺訓を守った。

崔曠――士謙の子

  • 温雅な人柄。北周大象末、開府儀同大将軍・浙州刺史に至った。

崔彭――曠の弟

  • 字子彭。幼くして父を失い母に孝を尽くした。剛毅で武略あり、騎射に巧み、『周官』『尚書』の大義に通じた。北周に仕え門正上士に至る。隋文帝が丞相の頃、周の陳王宇文純が斉州鎮守中に謀反を疑われ、彭が2騎で純を召還する使命を帯びた。齊州まで30里の地で仮病を装い純を呼び、純が多くの騎兵を従えて来たところを機を見て捕らえ鎖につなぎ、「陳王は罪あり詔により入朝せしめる、左右は動くな」と大声で宣言し、左右は愕然として去った。上儀同を拝した。隋文帝即位後、監門郎将、右衛長史を兼ね、安陽県男に封ぜられた。驃騎将軍に再遷し宮中宿衛を長年務め、謹密な人柄で20余年間務めに怠りなく、文帝は「卿が宿直の日は安眠できる」と評した。文帝が学問について問うと『周礼』『尚書』を好むと答え、君臣の戒慎の義を説き称賛された。上開府に進み備身将軍に転じた。
  • 文帝が達頭可汗の使者を武徳殿に宴した際、梁上の鳩を彭に射させ命中させ1万銭を賜った。使者帰国後、可汗が改めて崔将軍との対面を求め、彭が派遣された。可汗が招集した数十人の射手の多くが的を外す中、彭は連射しすべて命中させ突厥人を感嘆させた。仁寿末、安陽県公に進んだ。煬帝即位後、左領軍大将軍に遷り、漢王楊諒平定後は山東鎮撫と慈州事務を兼ねた。没し大将軍・肅を追贈。子の宝徳が爵を継いだ。

崔説――士謙の弟

  • 本名士約。気概あり膂力に優れ騎射を得意とした。賀拔勝の荊州赴任に仮節・冠軍将軍・防城都督として従い、梁への逃亡・西魏帰還も共にした。武衛将軍・都督、安昌県子。周文帝の弘農回復・沙苑の戦いに功を立て侯爵に進み、京兆郡守。都官尚書・定州大中正を歴任し安固県侯に改封、宇文氏の姓と「説」の名を賜った。驃騎大将軍・開府儀同三司、侍中を加え萬年県公に進んだ。総管・涼州刺史に再遷し、政は剛毅で百姓に畏れられた。使持節・能和中三州及び崇徳等十三防諸軍事を加授され大将軍、安平県公に改封。建徳4年(575年)没し、廓・延等五州刺史・壮を追贈。子の弘度。

崔弘度――説の子

  • 字摩訶衍。膂力絶人、容貌魁偉、性は厳酷。17歳で北周大冢宰宇文護に親信として引き立てられ大都督に転じた。護の子中山公宇文訓が蒲州刺史であった際、共に楼に登り、高所から見下ろし「畏るべし」と言う訓に「何を畏れることがあろう」と答えて飛び降り無傷であったため訓に驚嘆された。戦功で儀同を授かり、北斉平定に従軍し上開府・鄴県公に進んだ。汝南公宇文神舉の范陽での盧昌期討伐、鄖公韋孝寛の淮南経略に従い前後の勲功で上大将軍に進み、父の安平県公の爵位を継いだ。
  • 尉遲迥の反乱では行軍総管として韋孝寛に従い各地で戦果を挙げた。弘度の妹は迥の子の妻であった。鄴城陥落時、迥が窮して楼に登ると弘度は龍尾道を登って追い、迥が弓を引くと兜を脱いで「今日は各々国事のために事に当たっている、私事を顧みる余地はない、早く覚悟を決めよ」と告げた。迥は弓を投げ捨て丞相(楊堅)を罵倒して自殺した。弘度は弟弘升に命じて迥の首を取らせ、上柱国に進んだ。行軍総管は通例国公に封ぜられるが、弘度が即座に迥を殺さず暴言を吐かせたとして一等降爵され武郷郡公となった。
  • 開皇初、行軍総管として原州で突厥を防いだ。帰還後、華州刺史を拝し、妹が秦孝王(楊俊)の妃となった。襄州総管に遷った。
  • 弘度は身分高く部下に厳格で、令行禁止され盗賊も跡を絶った。梁主蕭琮が入朝を止められた際、弘度は江陵総管として荊州を鎮め、陳人はこれを恐れて境を窺わなかった。行軍総管として秦孝王に従い陳平定に加わり物5千段を賜った。高智慧の乱では楊素に隷属したが、地位は同格ながら年長であった弘度は不満を抱いた。素は寛容に接した。帰還後、原州事務代行として胡に備えたが虜は現れなかった。文帝は厚遇し弟弘升の娘を河南王妃とした。仁寿中、太府卿事務代行。
  • 「一門二妃」を出したことを誇りとし、常に僚吏に誠実を求めた。ある時、鱉料理を試食した侍者らに味を問い、皆「美味」と答えたところ、まだ食べていない者が嘘をついたとして八九人全員を杖打ちにした逸話がある。同時代の屈突蓋も厳酷で知られ、長安では「寧ろ醋三斗を飲むとも崔弘度に会うな、寧ろ艾三斗を炙るとも屈突蓋に遭うな」と言われた。しかし家庭では子弟が白髪になっても体罰を加える一方、家内は整粛と称賛された。秦王妃(妹)が罪により誅され、河南王妃(弘升の娘)も廃されると弘度は憂い病と称して引きこもり、諸弟とも別居し不遇であった。煬帝即位後、河南王が太子となり、崔妃の復位を図る使者が弘升邸を訪れたが弘度はそれを知らなかった。帝が使者に弘度の反応を問うと「病と称して起きなかった」と答え、帝は沈黙しその話は立ち消えとなった。弘度は憂憤のうちに没した。

崔弘升――弘度の弟

  • 字上客。北周で右侍上士。尉遲迥平定の功で上儀同、黄台県侯。隋文帝受禅後、公爵に進み驃騎将軍。慈州・鄭州刺史、襄州総管を歴任し、外戚として厚遇された。河南王妃(娘)が罪により廃された際、弘升も免官。煬帝即位後、冀州刺史・信都太守、金紫光禄大夫、涿郡太守を歴任。遼東の役で左武衛大将軍事務代行として平壌へ向かうが宇文述らと共に敗れ、逃げ帰って発病し没した。