北史卷三十 列傳第十八 盧溥

盧玄の従祖兄。慕容宝の末年、范陽の郷部を統べ海浜に拠って自立し、征北大将軍・幽州刺史を自称して郡県を攻略したが、まもなく北魏に討伐され捕らえられた。

年表(2件)
  • 慕容宝末年郷部を統べ海浜に屯し、鄕姻の諸祖十余人を殺して征北大将軍・幽州刺史を自称し郡県を攻略した
  • 天興中討伐され捕らえられた

叛乱の首謀

  • 慕容宝の末年、郷部を統べ海浜に屯し、鄕姻の諸祖十余人を殺して征北大将軍・幽州刺史を自称し郡県を攻略した。天興中、討伐され捕らえられた。

盧洪(溥の玄孫)

  • 字曾孫。太和中、中書博士、楽陵・陽平二郡太守、幽州中正。三子あり。

盧崇(洪の長子)

  • 若くして名声があり、驃騎府法曹参軍で没す。子は柔。

盧柔(崇の子)――西魏の重臣

  • 字子剛。幼くして孤児となり叔母に育てられ、聡明で学を好んだが吃音で議論は苦手だった。臨淮王彧に才を認められその娘を娶った。
  • 孝武帝と斉神武帝の不和の際、賀抜勝の荊州赴任に従い大行台郎中となり機務に関与。孝武帝が勝を洛陽に召還しようとした際、柔は「高歓の意図は測りがたく、京師に急行して決着をつけるのが上策、魯陽に拠り荆楚を併せるのが中策、三荊の地を挙げて梁に款じ保身するのが下策」と献策したが、勝は若さゆえに用いなかった。
  • 孝武帝西遷後、勝は梁へ逃れ柔も従った。梁武帝は柔の文才を知り厚遇した。帰還の途上、斉神武帝の追撃を受け船を棄てて山道を行軍、飢寒で多数が死んだ。大統二年、長安に至り容城県男に封ぜられ、周文帝に行台郎中に登用され蘇綽と機密を掌った。汝穎方面からの帰順者への文書処理を的確にこなし子爵に進む。中書侍郎・著作を兼ね、黄門侍郎、周文帝に貧を知られ衣を賜る。中書監に遷り、孝閔帝践祚後、小内史大夫・開府儀同三司で没す。詩・頌・碑・銘・檄・表・啓数十篇が世に行われた。子愷が継ぐ。

盧愷(柔の子)――隋の吏部での失脚

  • 字長仁。孝友で聡悟、経史に通じ文才があった。周斉王憲の記室として斉討伐に従軍、柏社鎮攻略を説いた。小吏部大夫の際、賄賂で塚宰宇文護に取り立てられた染工王神歓を諫めたが、事は止められた。武帝が老牛で兵を饗しようとした際も諫めて止めさせた。礼部大夫として陳への使者となり、他国の礼を用いず本朝の礼を貫き陳人を屈服させた。李穆の軹関・柏崖攻略の露布を起草し、武帝に「盧愷の文章は大いに進んだ」と称賛された。大象元年、東都吏部大夫。
  • 隋開皇初、尚書吏部侍郎、侯に進み尚書左丞を摂す。文帝の百僚考課で最上と評されたが固辞。礼部尚書・吏部尚書事摂行。国子博士何妥と右僕射蘇威の不和に連座し、房恭懿の登用や蘇威従弟らへの便宜を朋党と弾劾され除名、家で没した。周以来、選挙に清濁の別がなかったが、愷は薛道衡・陸彦師らと士流を甄別したためこの讒に遭ったという。

盧仲義(崇の弟)

  • 字小黒。世に名を知られ員外散騎侍郎・幽州刺史。婚姻は盧玄の家系と対等であった。

盧光宗(洪の弟)

  • 尚書郎。子は観。

盧観(光宗の子)

  • 字伯挙。若くして学を好み俊才で秀才に挙げられ甲科に及第。太学博士・著作佐郎、李神俊・王誦らと朝儀を撰定。尚書儀曹郎中に遷り孝昌元年(525年)に没す。

盧仲宣(観の弟)

  • 小名金。才学は兄観を凌いだが文体は繊細に過ぎた。太尉属。孝荘帝の初め、河陰の変で殺害された。兄観ともに子がなく文集も伝わらなかった。

盧叔彪(仲宣の弟)――諸葛亮を慕う策士

  • 機知に富み豪快で奇策を好み、諸葛亮を慕った。賀抜勝の荊州開府長史となるが献策が用いられず、勝の梁亡命に従わず本県に戻り築室隠棲。斉文襄・文宣の召しにも応じず、天保初にやむなく粗末な身なりで鄴に赴いた。楊愔に司徒諮議を勧められるも辞退。孝昭帝には中庶子として召され、関西討伐と平陽への重鎮構築を進言し帝に納れられ、元文遙とともに『平西策』一巻を撰した。帝崩御で計画は頓挫。武成帝の代、儀同三司・判都官尚書、金州刺史、太子詹事。
  • 郷里在住時、粟千石を蓄え春夏に貧民へ貸し秋に無利子で返させ、毎年倍増した。朝貴となってからも大屋を建て「歌うも哭くもここで」と語った。魏収が旧事を尋ねに訪れた際は粗末な粟飯でもてなした。斉滅亡後、范陽に帰り乱で城が陥落した際、族弟士邃とともに飢寒で没した。周将宇文神挙が二人の名徳を惜しみ葬った。

盧附伯・盧侍伯(洪の従弟)

  • ともに学識あり。附伯は滄州平東府長史、侍伯は南岐州刺史。

盧文偉(侍伯の従弟)――幽州の義挙

  • 字休族。父敞は議郎、文偉の勲功により幽州刺史を贈られた。若くして孤児となり志を持ち経史に通じた。三十八歳で秀才に挙げられ本州平北府長流参軍。刺史裴俊に督亢陂の修復を説き万余頃を灌漑して民の利となった。私財も蓄え富を成した。北方動乱の際、范陽城に穀物を蓄え多くの窮民を救い、韓楼討伐の功で大夏県男に封ぜられ范陽太守。
  • 孝荘帝崩御後、幽州刺史劉霊助と挙兵、霊助が瀛州を落とすと文偉は州事を代行、霊助が爾朱氏の将侯深に敗れた後は高乾兄弟に呼応し、神武帝に子懐道を送り帰順を申し出た。中興初、安州刺史・幽州刺史。同郷の刺史盧曹の挙兵失敗後は爾朱兆に降ったため入城できなかったが、のち青州刺史。
  • 財を軽んじ客を愛し人情に厚く、贈答を絶やさなかった。没後、司徒公・尚書右僕射を贈られ諡は孝威。

盧恭道(文偉の子)

  • 温良で文学あり范陽郡太守として徳政を敷いたが父に先立って没す。度支尚書・諡定を贈られる。

盧詢祖(恭道の子)――才気煥発の悲運

  • 祖父の大夏男の爵を襲ぎ、文才華麗で後進の俊秀とされた。秀才で鄴に至り、趙郡の李祖勲邸での宴で急な賀表作成を即座に成し「昔十万横行、樊将軍請いて屈を受く。五千深入、李都尉降りて帰らず」の名句で評判となった。大規模な人事異動の際、東止車門外で二十余人分の表文を無点で書き上げた。爵位継承時の「大夏初成」の祝辞に「且つ燕雀の相賀を得ん」と即答した機知も伝わる。
  • 天保末、築長城子使として不遇を託ち、賤役の身なりで楊愔に会いに行き「大夏(自分)だけ配慮がない」と詰った。役所で『築長城賦』を作り心情を託した。邢邵に「才学富むが早世を恐れる」と戯れられ、機知で応じた。口達者で人物評を好み恨みを買い、従妹との密通の噂も立った。宗人思道との皮肉の応酬(「大夏よ、なぜ四海の非難を招く」「骨肉すら相残すのに、まして万国の交際者をや」)が伝わる。魏収は思道を評価し詢祖を評価しなかった。太子舎人・司徒記室で没す。文集十巻はすべて散逸した。

盧懷道(恭道の弟)

  • 軽率で酒を好んだが志尚あり、義挙に父とともに加わり神武帝に厚遇された。烏蘇鎮城都督で没す。

盧宗道(懷道の弟)

  • 粗暴で狂俠な性格、南営州刺史。晋陽での宴で中書舎人馬士達の妓女を強引に贈った逸話や、督亢城で酔って旧知の門人を溺死させた逸話があり、のち残酷な行いで除名された。

盧輔(玄の族子)

  • 字顕光、本州別駕。子は同。

盧同(輔の子)――勲功調査の改革者

  • 字叔倫、容貌魁偉で処世に長けた。太和中、北海王詳の国常侍から尚書左丞に至る。相州刺史奚康生が過大な歳調で名声を得ていたのを暴き、康生に処罰を、同に功労評価を得た。
  • 明帝の代、軍功詐称の横行に着目し勲書を検核して三百余人の詐称者を摘発、以下の上表を行った。
  • 吏部・中兵局の勲簿を突き合わせ、名級が一致する場合は黄素の楷書に階級数を書き硃印を押し、吏部・兵局双方に写しを保管する二重確認制を提案。
  • 従来は姓名のみで本属を記さなかったため詐称が容易だったので、本籍地・官名を明記し、統将・都督・行台の各段階で印記を重ねる制度を提案。
  • 敘階後の記録簿を整備し、加階の日月を注記して詐称を防ぐ制度を提案。 詔してこれに従わせた。同はさらに、軍中の斬首勲功を券契で証明する制度(両片に割印し行台と勲人が各一片を持つ)、及び勲功評価を三年以内に必ず処理する期限制、行台の勲簿提出の遅延を禁じる制度を上表し、いずれも詔で施行された。
  • 元叉が霊太后を廃した際、相州刺史中山王熙の挙兵を鎮圧する使者となり熙を処刑、元叉に阿附したと非難された。兄琇の昇進を求めて安州刺史とし論者に称賛された。営州の就徳興の反乱では投降者の家族を厚遇して降伏させたが、再叛の際は徳興を信用せず出陣し大敗した。
  • 霊太后復権後、元叉党として除名されたが荘帝践祚で復官、都官尚書・七兵を兼ね、章武県伯に封ぜられる。侍中・驃騎将軍・左光禄大夫。節閔帝との旧誼により儀同三司を授かる。永熙初、薨じ尚書右僕射を贈られる。四子あり長子斐が継ぐ。

盧斐(同の長子)――酷吏の末路

  • 字子章、残忍で強断で知られた。斉文襄帝に大将軍府刑獄参軍として重用され、天保中、尚書左丞として京畿の詔獄を専断、拷問により多数を死に至らしめ「校事」と恐れられた。のち『魏書』誹謗事件で李庶とともに鞭杖の末に獄死した。

盧筠(斐の弟)

  • 青州中従事。

盧靜(同の兄)

  • 学を好み風度あり、酒を数斗飲んでも乱れなかった。太常丞で没し、太僕卿・平州刺史を贈られる。子は景裕。

盧景裕(靜の子)――経学の泰斗

  • 字仲孺、小字白頭。専ら経学に打ち込み、拒馬河のほとりで老婢とのみ暮らし妻子を伴わなかった。大寧山に避難して世事を離れ、注解に専念、居士と称された。節閔初、国子博士。天平中、邢子才・魏季景・魏収・邢昕らと鄴に召され僧寺に寓居して講学を続けた。
  • 従兄仲礼の反乱に連座を強いられたが、経学の名声により賀抜仁討伐後に赦され、諸子の教育係とされた。斉文襄帝が邸で『周易』注の講義をさせた際、激論にも動じず従容と応答し士君子に称賛された。清静を好み栄利に淡泊で、粗衣粗食に安んじ終日厳格な姿勢を保った。興和中、斉王開府属として晋陽で没す。
  • 『周易』・『尚書』・『孝経』・『論語』・『礼記』・『老子』を注し(『毛詩』『春秋左氏』は未完)、注『易』は世に広く行われた。仏教にも通じ、胡僧道悕の訳経の序を多く書いた。獄中で経を誦じ枷が自然に外れた逸話や、その経が『高王観世音経』として広まった逸話が伝わる。弟は辯。

盧辯(景裕の弟)――北周礼制の設計者

  • 字景宣。博学で正光初に秀才、太学博士。『大戴礼』に注疏がないことから注釈を著し、兄景裕に「昔は『小戴』に注し、今お前は『大戴』に注す、先人の業を継ぐものだ」と評された。節閔帝の代、中書舎人。斉神武帝の挙兵に際し節閔帝の使者として鄴へ赴き、神武帝が奉ずる中興主への謁見を拒み、神武帝の怒りにも節を曲げなかった。
  • 孝武帝の代、広平王賛の師。平等浮屠成立の法要で石仏が首を動かした逸話に「石が立ち社が移るのは古来ある事、怪しむに足りぬ」と応じた。孝武帝の関中入りに単騎で従い「門外の道は義を以て恩を断つ」と述べた。
  • 長安到達後、范陽県公に封ぜられ、給事黄門侍郎・著作領・本州大中正。周文帝に儒学を重んじられ朝議に諮問された。太子少保・国子祭酒、趙青雀の乱の際も太子に従い家族に告げなかった。太常卿・太子少傅・少師、爵は范陽郡公に進む。
  • 孝武帝西遷以来乱れた朝儀・法服・律呂・渾儀を制定し古礼に則った。強記で果断、驃騎大将軍・開府儀同三司・尚書令、師氏中大夫、小宗伯・大将軍。宜州刺史として赴任せず没す。諡は献、文帝廟庭に配食された。子慎が継ぎ復州刺史。弟詮は騎射に優れ儀同三司。隋開皇初、前代の名徳により沈国公を追封された。
  • 周文帝が『周官』の制を行おうとし蘇綽に命じたが未完のまま没したため、辯が完成させた。『周礼』に基づき六官を建て漢魏の法を改め、魏恭帝三年(556年)に施行された。三孤(太師・太傅・太保)の設置、東宮官制の整備など制度の詳細が記されている(以降、武成・保定・建徳年間に幾度も官制改定があったことも付記される)。原文は周の主要な官位・命数の対応表(柱国大将軍から一命の武威将軍・武邪将軍まで)を詳細に列挙し、開国の爵位加官の規定にも言及する。

盧光(辯の弟)――佛道への篤い帰依

  • 字は伝わらないが、性温謹で博覧、『三礼』に精通し陰陽・鐘律・玄言にも通じた。孝昌初、司空府参軍事。孝武帝西遷の際、山東で挙義し晋州刺史を遙授された。大統六年、家族を伴い西入し丞相府記室参軍、范陽県伯。行台郎中・書記専掌、安息県伯に改封。京兆郡守・侍中・開府儀同三司・匠師中大夫を経て燕郡公・虞州刺史、陝州総管府長史行を兼ね官途で没す。周武帝がかつて師事した縁で厚く弔われ、少傅・諡簡を贈られる。
  • 仏道を篤く信じ、周文帝の檀台山での狩りで一同が見えなかった「桑門(僧)」の姿を独り見て的中させ、その場所に寺を建てさせた逸話や、妖怪が出ると噂された京兆郡舎に平然と住み「吉凶は人によるもので妖は妄りに作らぬ」と語った逸話が伝わる。『道徳経章句』の注を著し世に行われた。子は賁。

盧賁(光の子)――隋建国の功臣にして反覆の臣

  • 字子征。書記に通じ鐘律にも明るかった。周で燕郡公を襲ぎ、魯陽太守・太子少宮尹・儀同三司・司武上士を歴任。隋文帝が大司馬であった頃から接近し、宣帝崩御時には文帝の側近として仕え、東第への移動に際し百官を招集し「富貴を望む者は付き従え」と促し武装して威圧、宮門の抵抗を排して文帝の入宮を助けた。受禅後は宿衛を掌り、周の旗幟を改め青竜・騶虞・朱雀・玄武・千秋・万歳の旗を創案した。散騎常侍・太子左庶子・左領軍将軍。
  • 高熲・蘇威の朝政専断に不満を抱き、劉昉・元諧・李詢・張賓らと共に高熲・蘇威の排除と晋王の擁立を謀り、皇太子にも意中を漏らしたことが露見。文帝は龍潜時代の旧誼から誅殺を免じ除名に留めた(張賓はまもなく病没)。
  • 復爵後、太常卿検校として周の楽制(宮県七か八か)の論争に「周武帝が林鐘を宮としたのは亡国の兆し」と上表し、七県八・黄鐘を宮とする制に改めさせ、儀同楊慶とともに周斉の音律を刊定した。郢・虢・懐三州刺史を歴任し懐州で利人渠・温潤渠を開削し灌漑に貢献したが、斉州刺史時に官米の私糶で除名された。
  • 文帝に旧恩を語られながらも過失を重ね、再び怨言を漏らして帝の不興を買った。皇太子が「佐命の功臣ゆえ棄てるべきでない」と弁護すると、文帝は劉昉・鄭訳らとともに賁を「反覆の子(信用できない人物)」と評しつつも、功に免じて処断せず、蘇威の進言もあり列侯として奉朝請の待遇に留め、まもなく家で没した。

盧勇(景裕の従弟)――北辺の名将

  • 字季礼。父璧は魏の下邳太守。叔父の同に「白頭(景裕)は文で、季礼は武で家を興すだろう」と評された。十八歳で幽州の反乱者僕骨邢に范陽王に擁立され、のち葛栄にも燕王に推された。斉神武帝の挙兵時、盧文偉の招きに応じず、爾朱氏滅亡後に晋陽へ赴いた。
  • 丞相主簿として山西の飢饉時に山東からの租税輸送を厳格に管理し、鄕郡公主の水増し請求を弾劾、神武帝に「盧勇は威厳があり真の公人だ」と評された。
  • 元象初、広州包囲戦で西魏の援軍の動静を偵察し百騎で急襲、旗を多数樹てて虚勢を張り西魏の儀同程華を捕らえ王征蛮を斬った。陽州刺史として宜陽を鎮め、叛人韓木蘭・陳忻らを撃破。入朝を求めた際、神武帝は「そなたに陽州を委ねれば安心して眠れる」と留任させた。享年三十二で没し、私有の武具・馬をすべて献上する遺言を残した。司空・冀州刺史を贈られ諡は武貞。

盧誕(玄族曾孫、晏の曾孫)――西魏の帝師

  • 本名恭祖。曾祖晏は博学で隷書に優れ慕容氏に仕え給事黄門侍郎・営丘・成周二郡守。祖父壽は太子洗馬、慕容氏滅亡後は魏の魯郡守。
  • 父叔仁は十八歳で州辟主簿・秀才に挙げられ員外郎となるも親の老いを理由に辞して帰郷、父母没後六年間喪に服し墳墓を自ら営んだ。景明中、召されて武賁中郎将となるも本意でなく、のち鎮遠将軍・通直散騎常侍を病と称して辞し、幽州司馬もまた辞して帰郷し、高潔と称された。
  • 誕は度世の族弟にあたる。博学で才彩があり、秀才に挙げられずも侍御史から輔国大将軍・太中大夫・幽州別駕・北豫州都督府長史に至った。刺史高仲密の西魏帰順に際し大将軍李遠の援軍に文武二千余人で応じ、鎮東将軍・金紫光禄大夫・固安県伯に封ぜられ、給事黄門侍郎。
  • 西魏帝が「経師を求めるは易いが人師を得るは難い、卿を諸子の師としたい」と晋王邸に自ら赴き諸王に拝礼させ「誕」の名を賜った。征東将軍・散騎常侍を加え、周文帝にも儒宗として国子祭酒・車騎大将軍・儀同三司に進む。恭帝二年、秘書監に任じられ、のち病により没した。

史論

  • 盧玄は学問と徳行で名を成し、その子孫が代々続いて名門となった。文武の功績自体は特筆すべきものは少ないが、当代に重んじられたのは徳と儒学の風があったからである。伯源兄弟は二方(政事・文雅)の風流をよく備えたが、その子には及ばぬ者もあった。思道は一代の俊才でありながら官途に恵まれなかったのは、運命もあるが素行の慎みに欠けた面もあろう。潛と昌衡は家風をよく継いだが、子剛(柔)は酒に溺れて節を失った。長仁(愷)の諫言は評価されるべきだが晩節を全うできなかったのは惜しい。伯挙・仲宣は文雅で並び評された。叔彪は志高く任俠を好み、文偉は艱難の中で英雄の主に出会い佐命の一人となった。詢祖は才気煥発ながら驕慢で早世した。叔倫(同)は器量が大きく融通が利いた。子章(斐)は残忍で咎を招いた。景裕兄弟は学業で名を成し、辯はよく制度を成した。勇は文武両面で異なる美質を持ち、賁は志節が定まらぬ人物であったが移り気ゆえに人を害することもなかった。誕は儒業を全うし称賛に値する。