北史卷三十 列傳第十八 盧玄
盧玄、字子真、范陽涿の人。北魏に仕えた儒学の家系の出で、神䴥四年(431年)に太武帝が召した天下の名儒の第一人者として挙げられた。中書博士から本州大中正に進み、外兄崔浩の姓族分明の策を諫めた。劉宋への使者も務め、諡は宣。子孫は北朝随一の名門范陽盧氏として繁栄した。
年表(1件)
- 神䴥四年431年太武帝が天下の名儒を召した際、第一に挙げられ中書博士に任じられた
出自と生涯
- 盧玄、字子真、范陽涿の人。曾祖盧諶は西晋司空劉琨の従事中郎。祖父盧偃・父盧邈はともに慕容氏に仕え、盧偃は営丘太守、盧邈は范陽太守となり、儒学で知られた。
- 神䴥四年(431年)、太武帝が天下の名儒を召したとき、盧玄が第一に挙げられ、中書博士に任じられ、のち侍郎・本州大中正に進んだ。北燕の馮弘に使いし、臣として帰順するよう説いた。
- 外兄の司徒崔浩は盧玄と語るたびに「子真に対すると懐古の情がいっそう深まる」と歎じた。崔浩が人倫を正し姓族を分明にしようとした際、盧玄は「制度を創り事を立てるにはそれぞれ時機があり、これを心から望む者は少ない。よく思案されたい」と諫めたが、崔浩は容れなかった。のちの崔浩の失脚には、この一件も関わったという。
- 固安子に封ぜられ、散騎常侍として劉宋に使いした。宋文帝は盧玄と語らい長く感嘆し、「中郎(盧諶)は卿の曾祖であったな」と述べた。帰国後病を得て郷里で没した。平東将軍・幽州刺史・固安侯を贈られ、諡は宣。
盧度世(玄の子)――崔浩事件からの逃避と復帰
- 盧度世、字子遷。幼くして聡明で計数に長け、中書学生として東宮に出仕。従兄盧遐とともに学識と行いで世に重んじられた。盧遐は崔浩に特に敬われ、尚書・光禄大夫・范陽子に至った。
- 度世はのちに崔浩の事件に連座し、官を棄てて高陽の鄭羆の家に逃れ、羆に匿われた。使者は羆の長子を捕らえ拷問しようとしたが、羆は子に「君子は身を殺して仁を成す、死んでも言うな」と戒めた。子は父の言葉を守り拷問の末に焼かれて死んだが、ついに口を割らなかった。度世はのちに弟をその妹に娶らせ、恩に報いた。
- 太武帝が長江に臨んだ際、宋文帝の使者黄延年が来た。帝が「盧度世は崔浩と親しく、江表に逃げたはずだ」と問うと、延年は「都下にその噂はない」と答えた。帝は東宮に詔し、崔浩事件で逃亡・没官となった度世一族を赦し、度世は出仕して中書侍郎を拝し、爵位を襲いだ。
- 興安初、太常卿を兼ね、保太后の父・遼西献王の廟を建て、侯に進んだ。のち散騎侍郎として劉宋に使いしたが、宋の侍中柳元景との応対で失態があり弾劾されて一年で赦された。済州刺史となり、国境で争っていた将士を戒め俘虜を返し、両境は安定した。のち事に坐して免官。まもなく青州刺史に任じられたが、拝命前に没した。諡は恵。四子あり、伯源・敏・昶・尚之。
- 盧玄には五子あったが度世のみ嫡出で、他は側室の子であった。崔浩の事件の際、庶兄弟はしばしば度世を害そうとし、度世はこれを深く恨んだ。度世は自分の子には妾腹の子を厳しく遠ざけさせ後患を防いだ。伯源兄弟の代になっても、婢妾の生んだ子は容貌が似ていても認知しなかったため、識者に非難された。
盧伯源(小名陽烏、度世の子)――孝文帝への諫言と徐州の治績
- 温雅で欲少なく、祖父の風格があった。学業を重んじ、家門は和睦していた。侯爵を襲ぎ伯に降格。秘書監・本州大中正を加える。孝文帝が馮太后の姪を皇后に立てようとした際、真っ先に伯源に諮ったところ、伯源は改めて占うよう請うた。帝は「先の后の姪であることは既に決めている」と答え、伯源は「勅の通りとはいえ、私の心には尽くせぬものがある」と述べたが、朝議でも同じ意見を通した。馮誕の寵愛厚さゆえに恨まれたが、伯源は意に介さなかった。
- 孝文帝が斉討伐を議した際、伯源は皇帝親征の困難と輸送の負担を上表したが、詔は容れられなかった(ただし優遇の答が下った)。まもなく斉の武帝が崩じたため出師は止んだ。
- 涇州の羌が叛いた際、伯源は歩騎六千を三万と号して徐行進軍し、三十日足らずで賊衆は逃散、降者数万口のうち首謀のみ処刑し他は不問とした。侍中を兼ねる。
- 若い頃、長安で相者王逵に「盧郎はやがて関右に令を制するだろう」と予言され、後年その通りとなった。
- 斉の雍州刺史曹武が降を請うた際、使持節・安南将軍として前鋒諸軍を督し樊・鄧に赴くよう命じられた。伯源は儒生ゆえ軍事に不向きと辞したが許されず、曹武の偽降を見抜いたが赭陽攻めで敗れ、官爵を免じられた。
- のち徐州で京兆王愉の長史を兼ね、若い愉の政務を多く決した。誠信をもって治め、南徐州刺史沈陵の謀反を再三上奏したが朝廷は容れず、陵は逃亡した。伯源は陵の余党を赦し人心を安んじた。
- 景明初、秘書監のまま没す、享年四十八。幽州刺史を贈られ固安伯の爵を復す。諡は懿。
- 伯源は書に長じ、代京の宮殿の題字を多く手掛けた。李沖と親しく、婚姻を結んだ。八子あり。
盧道將(伯源の長子)――清廉な地方官
- 字祖業。父の爵を継ぐべきところ第八弟道舒に譲ろうとしたが詔で許されず、清河王国常侍韓子熙の先例を引いて改めて許された。経史に通じ、気節高く文才があり、諸父からも敬憚された。燕郡太守として楽毅・霍原の墓を顕彰し祠を建て、儒生を厚遇し農桑を奨励して墾田を倍増させた。司徒司馬で没し、太常卿を贈られ諡は献。文筆数十篇あり。
盧懷祖(道將の子)
- 太学博士・員外散騎侍郎で没した。子の莊は都水使者で官途に没した。
盧懷仁(懷祖の弟)――閑雅な文人
- 字子友。学に通じ文辞に長じ、恬静で閑雅な趣があった。太尉記室・弘農郡守を歴任するも赴任せず、陳留に隠棲。詩賦銘頌二万余言を著し、『中表実録』二十巻を撰した。琅邪の王衍・隴西の李壽と親しく、「太丘(陳寔)の道広きも許劭は顧みず、嵆康の峭立も鐘会は言を絶った。私は季孟の間に処し、その甚だしきを去るのみ」と語った。
盧彥卿(懷仁の子)
- 学識あり、隋に仕え御史となる。『後魏紀』三十巻を撰し、貞観中に石門令・東宮学士となった。
盧道亮(伯源の子、道將の弟)
- 字仲業。隠居して仕えず。子は思道。
盧思道(道亮の子)――才気と数奇な官途
- 字子行。聡明で弁が立ち、束縛を嫌った。十六歳のとき劉松の作った碑銘を読んでも理解できず発奮して読書し、邢子才に師事。数年で学才並び著しくなったが、素行に問題があり人を軽んじた。斉の天保中『魏史』完成に際し批判を加え、前後二度笞刑を受け不遇となった。
- 楊遵彦の推薦で司空行参軍・長兼員外散騎侍郎となり中書省に直宿。文宣帝崩御の際、群臣が作った十首の輓歌のうち魏収・陽休之・祖孝征らは一二首しか採用されなかったが、思道のみ八篇採られ「八米盧郎」と称された。のち省中の秘語を漏らし丞相西閣祭酒に左遷、太子舎人・司徒録事参軍を歴任するも官途で度々譴責された。庫銭の擅用で免職となり、薊北で悲憤の五言詩を作り評判となった。のち給事黄門侍郎、文林館待詔。
- 周の武帝が斉を平定すると儀同三司を授かり長安へ。陽休之らと『聴蟬鳴篇』を作り、庾信に激賞された。母の病で帰郷した際、同郡の祖英伯・従兄昌期らの反乱に連座し死刑寸前となったが、柱国宇文神挙が露布の起草を命じ、援筆立成の文才により赦された。のち掌教上士。隋文帝の丞相時代、武陽太守に転じ、不遇を『孤鴻賦』に託した(序文には、若くして京師に遊学し楊令君・邢特進らに認められながら三十年宦海に沈んだ心情が綴られている)。
- 開皇初、母の老いを理由に辞職を願い出て許されたが、才を恃んで人を陵ぎ官途はさらに滞った。『労生論』を著し当世を批判。母憂を経て散騎侍郎・内史侍郎事に起用され、六卿設置の議で大理寺の存廃を論じ、殿庭での杖罰を諫めて採用された。同年、京師で没した。集二十巻が世に行われた。子の赤松は大業中、河東県長。
盧道裕(道亮の弟)
- 字甯祖。学識と風儀を兼ね備え、献文帝の女楽浪長公主を娶り駙馬都尉。中書侍郎・太子中庶子・幽州大中正を経て涇州刺史で没す。諡は文。
盧道虔(道裕の弟)――公主事件と『喪服』論
- 字慶祖。経史と算術に通じた。孝文帝の女済南長公主を娶り駙馬都尉となったが、公主が驕淫で評判悪く、無病のまま急死し道虔の関与が疑われた。宣武帝は事を秘したが、のち霊太后が追及し道虔は終身不仕とされた。甥の李彧(荘帝姉豊亭公主の夫)を頼り、永安中に輔国将軍・通直常侍、天平中に都官尚書・本州大中正・幽州刺史・衛大将軍を歴任、没後尚書右僕射・司空公・瀛州刺史を贈られ諡は文恭。
- 『礼』学を好み、王儉の『喪服集記』七十余条に異論を唱えた。奴が馬上で琵琶を弾いたのを咎め杖百とするなど厳格な人柄であった。公主との間に昌宇・昌仁の二子(昌宇は不才、昌仁は早世)、司馬氏との間に昌裕、後妻元氏との間に昌斯・昌衡があり、昌衡が最も名を知られた。
盧昌衡(道虔の子)――隋朝の名吏
- 字子均、小字龍子。沈静で才識あり、経史に通じ草書行書に巧みだった。従弟思道(小字釈奴)とともに世に推重され、「盧家千里、釈奴・龍子」と幽州で称された。北斉に仕え尚書金部郎、右僕射祖孝征に「盧子均を用いて恥じることはない」と評された。頓丘の李若・彭城の劉瑉・河南の陸彦師・隴西の辛徳源・王循らと後進の風流の士と目され、周が斉を平げると司玉中士となり『礼令』を修めた。
- 隋開皇初、尚書祠部侍郎。文帝が群臣に自らの功を述べさせた際、昌衡だけは何も述べず、左僕射高熲に一目置かれた。徐州総管長史として名を上げ、吏部尚書蘇威に「徳は世の表、行いは士の則」と評された。乗っていた馬が牛に触れて死んだ際、牛主が弁償を申し出たが「六畜の接触は自然の理、人情に関わらぬ」と断った。壽州総管長史、金州刺史、河南道巡省大使を歴任し儀同三司を賜る。大業初、太子左庶子に召され洛陽への途上で没した。子は宝素・宝胤。
盧道侃(道虔の弟)
- 字希祖。沈着で学識あり、州主簿で没す。弟道約の子正達を後継とした。
盧道和(道侃の弟)
- 字叔雍。兄弟中もっとも人望低く、冀州中軍府中兵参軍で没す。子景猷は弘農太守、その子士彥は隋開皇中、蜀王秀の不軌を理由に病と称して仕えず家で没した。
盧道約(道和の弟)
- 字季恭。司徒属・幽州大中正。興和末、衛大将軍・兗州刺史として善政を敷き没す。儀同三司・幽州刺史を贈られる。
盧正通(道約の子)
- 若くして令誉あり、開府諮議で没す。妻謝氏が弟正思と姦通し御史に弾劾された。正思の弟正山(字公順)は文学で知られ符璽郎・文林館待詔。正思兄弟は斉太后の外戚として武平中に厚遇された。
盧道舒(道約の弟)
- 字幼安。父の爵を襲ぎ中書侍郎で没す。子熙裕が襲爵。熙裕は清虚に道を守り、親族に敬われた。
盧敏(伯源の弟)
- 字仲通、小字洪崖。孝文帝に才を認められその娘を嬪に納れられた。儀曹郎で早世、威遠将軍・范陽太守を贈られ諡は靖。五子あり。
盧義僖(敏の長子)――節を守った官人
- 字遠慶。学識と沈着な気品があり、九歳で父を喪い至孝であった。李沖に嘆賞され、母憂で職を辞す。幽州刺史王誦に重んじられ、李神軌との婚姻話を拒んだ(「一女で五男に易えぬ理由は、禍が及ぶのを恐れたため」)。王誦に義理を評され、霊太后の妨害に遭いながらも動じなかった。普泰中、都官尚書・驃騎大将軍・左光禄大夫。
- 清廉で財利を営まず、幽州の水旱の際、貸していた数万石の借用証書を焼いて州人に恩徳を施した。没後、大将軍・儀同三司・瀛州刺史を贈られ諡は孝簡。四人の弟はみな兄に及ばなかった。
盧遜之(義僖の子)
- 清廉で欲少なく、太尉記室参軍。
盧昶(敏の弟)――劉宋使節の失態
- 字叔達、小字師顔。経史に通じ早くから評判があった。太和中、員外散騎常侍として斉に使いし、孝文帝から慎重な対応を細かく指示された。到着後、斉の明帝は北魏の出兵を理由に一行を酷遇し、昶らは怖れて涙し、腐米・臭魚を供された。謁者張思寧は節を屈せず館中で死んだ。帰国後、孝文帝に「使命を帯びる礼は死すとも辱められず、蘇武に及ばずとも思寧に恥じよ」と厳しく責められ罷免された。
- 景明初、中書侍郎、給事黄門侍郎・本州大中正・散騎常侍を経て尚書を兼ねる。白鼠出現を瑞祥として時政を諫言、褒賞された。侍中・吏部尚書を兼ねるも、元暉らと結託し評判は悪かった。徐州刺史として朐山を守れず梁に降られ、諸軍とともに敗走、寒さで凍死者が続出、魏の江右経略で最悪の敗北とされた。宣武帝は鎖でつないで召還させたが、免官のみで済んだ。太常卿・雍州刺史・鎮西将軍を経て没す。諡は穆。
- 徐州在任中は病んだ戍兵を親しく見舞い人望を得た。
盧元聿(昶の子)
- 字仲訓。孝文帝の女義陽長公主を娶り駙馬都尉。太尉司馬・光禄大夫を経て没し、中書監を贈られる。子士晟。
盧元明(元聿の弟)――夢の予兆
- 字幼章。博学多識、風采優雅。臨淮王彧に重用され城陽県子に封ぜられ中書侍郎に遷る。永熙末、洛東緱山に隠棲し『幽居賦』を作った。友人王由が夢に現れ別れの詩を贈ったのち、実際に王由が乱兵に殺されたという逸話がある。天平中、吏部郎中として李諧の梁への使いに副い、南人に称賛された。尚書右丞・散騎常侍・監起居を歴任するも史館では特に業績を残さなかった。
- 玄理を好み、史子雑論数十篇を著した。次妻鄭氏が元明の甥士啓と密通しても離縁しなかった。世地を誇る性格が批判された。
盧元緝(元明の弟)
- 字幼緒。粗暴で酒を好み、婦人の家の宴で客を刃傷した。輔国将軍・司徒司馬を経て没し、驃騎大将軍・吏部尚書・幽州刺史を贈られ諡は宣。
盧尚之(昶の弟)
- 字季儒、小字羨夏。儒者として重んじられ、司徒左長史・前将軍・済州刺史・光禄大夫。
盧文甫・文翼・文符(尚之の子ら)
- 長子文甫、字元祐。文史に通じ名声があり司空行参軍。弟文翼、字仲祐は若くして軽躁だったが晩年に改め、軍功で范陽子を賜り太中大夫。弟文符、字叔偉は性通率で通直散騎侍郎。文甫の子は潛。
盧潛(文甫の子)――淮南経略の重臣
- 容貌堂々、弁舌に長け、大将軍府中兵参軍として文襄に才幹を見出された。潁川で捕らえた王思政を「節を守れなかった者に価値なし」と評し、文襄に「盧潛を得れば王思政をまた得たようなものだ」と評された。天保中、左戸郎中。『魏書』批判で禁固されるが清河王岳の江陵救援に従い赦免。中書・黄門侍郎を経て、清河王岳の南征に伴い梁将侯瑱を説いた際の賂遺を隠した廉で文宣帝に杖百・鬚を截られたが顔色を変えなかった。魏尹丞・懐州別駕・江州刺史で善政を敷いた。
- 孝昭帝の代、揚州道行台左丞として梁の王琳と南討を経略したが、意見対立で相互に上表しあった。武成帝が王琳を鄴に召し還すと、潛が揚州刺史・行台尚書となり淮南に十三年在任、陳から警戒された。天統・武平中の煩雑な徴税や馬の強制買い取りで民は動揺したが、潛の撫慰でしのいだ。武平三年、五兵尚書に召され揚州を去る際、民が香華を捧げて涙で見送った。まもなく揚州道行台尚書として再赴任。
- 四年、陳将呉明徹の侵攻で寿陽が包囲され水攻めにされる中、援軍の不統制もあって陥落、潛や行台僕射王貴顕・王琳ら将卒五十八人・軍士一万が捕らえられた。捕虜となった潛は陳主に幽州出身で北方の実情を語り、また逃亡を誘われても「相者の予言通り呉越の地で死す運命」と述べ、弟士邃への手紙も予言通りとなったといい、ついに絶食して死んだ。開府儀同三司・尚書左僕射・兗州刺史を贈られ、子がなく弟士邃の子元孝を後継とした。
- 祖珽の劉逖陥害の誘いを拒み、行台慕容恃徳の遺言(愛馬を潛に贈れ)が奇跡的に実現するなど、清廉で重んじられた逸話が伝わる。
盧士邃(潛の弟)
- 字子淹。崔昂に「この兄弟は後進の俊才だが読書が足りぬのが惜しい」と評された。尚書左右丞・吏部郎中・中山太守帯定州長史を経て斉滅亡後に没す。
盧氏一門の家風
- 度世が済州刺史であった頃、魏が升城を平定した際、外祖母や親戚の窮乏を助け供養を尽くした。青州陥落時には多くの崔氏を身請けした。伯源・昶らも父の風を継ぎ、遠親疎属にも礼を尽くし、閨門の礼で世に称された。父母没後も一族百口が同居し家産を共にし、饑饉の年も上下が睦まじく過ごした。一門三人が長公主の駙馬となり、当代の栄誉とされた。ただし伯源兄弟や道将没後、家風は次第に衰え、子孫に不行跡の者も現れ世に卑しまれた。
盧神寶(度世の従祖弟)
- 中書博士。孝文帝は弟の高陽王雍の妃にその娘を納れた。