北史卷二十二 列傳第十 長孫肥

代の人。昭成帝の代、十三歳で選ばれ内侍となる。道武帝の独孤部・賀蘭部滞在中は常に侍従し帝の信頼を得た。中山平定・仇儒の乱平定・姚平討伐などで武功を挙げ、南は中原を平げ西は羌寇を摧いた。卒すると武と諡され金陵に陪葬された(薨去の元号年は訳文に記されていない)。

道武朝の武功

  • 長孫肥、代の人。昭成帝の代、十三歳で選ばれ内侍となった。雅度があり果毅で寡言だった。道武帝が独孤部・賀蘭部にあった頃、常に侍従し左右で禦侮を務め帝は深く信頼した。登国の初め、莫題らと共に大将となり屡々軍功を挙げた。中山平定後の功で琅邪公に叙爵され衛尉卿に遷り盧郷に改爵。中山太守の仇儒が内徙を望まず趙郡に逃れ趙准を主に推して妖言を流した際、准は钜鹿公を自称し儒を長史として関城に拠り丁零を引き入れ長吏を殺害したが、肥はこれを九門で討ち破り仇儒を斬り趙准を捕らえた。儒の肉を准に食わせて京師へ伝送し市で轅(車裂)にして一族を夷した。肥は兗州刺史に除せられた。
  • 姚平が平陽を寇した際、道武帝は肥と毗陵王順らを前鋒とし、平は柴壁に退保するも帝が攻めて屠った。肥は兗州鎮に戻り河南を撫慰し威信は淮泗に著れた。策謀に善く諸将に冠絶し、前後の征討で敗れたことがなく、大難のたびに肥に当たらせて南は中原を平げ西は羌寇を摧いた。功は最も多く賞賜は千を数えたが、後に藍田侯に降爵された。卒すると武と諡され金陵に陪葬された。子の翰が爵を襲いだ。

肥の子・翰(附伝)

  • 翰は少くして父の風があった。道武帝の代、騎射に善く獵郎となった。明元帝が外にあった頃、翰は元磨渾らと潜謀して奉迎、即位後は磨渾らと拾遺左右を務めた功で平南将軍に累遷。衆を率いて北境を鎮め威名は著れた。太武帝の即位後、平陽王に封じられ、蠕蠕の大檀の入寇に対し太武帝親征に従い東平公娥清と長川に出て討ち、大檀の北遁を追撃して克獲して還った。司徒に遷り、赫連昌襲撃にも従いこれを破った。翰は清正厳明で将士を撫することを喜んだ。薨じると太武帝は流涕して自ら喪に臨み、喪礼は安城王叔孫俊の故事に依り威と諡され金陵に陪葬された。
  • 子の成は爵を襲いだが公に降爵され南部尚書となり卒し金陵に陪葬された。翰の弟の陵は駕部尚書。性は寛厚で学を好み士を愛し、呉郡公に封ぜられ呉郡王を贈られ恭と諡され金陵に陪葬された。

史評

  • 昭成帝の末年、衆叛親離の中、長孫嵩は寛厚沈毅で王室に重きをなし累世に仕えて元老となった。生きては宗臣、没しては清廟に祀られたことは美事である。儁(儉)は器識明允・智謀通贍、堂々として公輔の望があり謇謇として王臣の節を備えながら、朝廷に在る日より方岳に在る日の方が多かったのはなぜであろうか。平は識具が該通で内外に流誉を得たことは開物成務の理に適い、隋の重要な柱石であった。道生は恭慎廉約で威名を兼ね備え明主に知られ歌にまで詠まれた。二公が並び立ち朝野に光を放ち門祚は代々栄えたことは、漢の八王や張氏七葉の重光にも比べえないほどである。子彦は勇烈絶倫、紹遠は楽の音に殊に妙を極め、熾は早くから英俊と称され覽は独り雄弁を擅にした。それゆえ師旅を統べ礼閣を司り鐘鼎の家名を絶やさず、公にも侯にもなったのである。晟は英武の資質に奇略を兼ね、機に因って変を制し戎夷を懐柔してその巣を尽く落とし、稽顙させるに至った。塞垣に鳴鏑の旅は絶え、渭橋には単于の拝がある。恵は辺朔に流れ功は王府に光り、世禄を保ったのも当然である。肥は結髪より内侍を務め雄武で自立し、軍鋒の向かうところ棄散せぬ者はなく、関羽・張飛の万人敵をもってしても多しとするに足らぬほどであった。翰は父の風を継ぎ先構を殞さず、喪に臨んで礼を加えられたのも故あってのことである。