北史卷二十二 列傳第十 長孫道生

長孫嵩の従子。忠厚廉謹で道武帝に信任され侍中・司空等を歴任し、太尉を贈られた(薨年・薨去時の元号年は伝わらず、享年八十二)。子孫は北魏末から隋にかけて活躍し、曾孫の承業(幼)は北魏末の動乱で各地を鎮め、承業の子孫の長孫晟は隋初、突厥への離間策と外交で辺境を安定させた功臣として知られる(?–609年)。

年表(17件)
  • 大統元年535年長孫承業が薨じ、大丞相・雍州刺史を追贈され文宣と諡された
  • 大統七年541年承業の子の子彦が太子太傅を拝した
  • 大業六年610年長孫熾が東都留守として留まったまま卒した
  • 開皇元年581年突厥の攝圖が隋の自立を怒り南侵を謀り、文帝は長城を修め防備した
  • 開皇二年582年攝圖が蘭州から侵入したが玷厥が従わず撤退し、長孫晟の離間策が奏功した
  • 開皇四年584年長孫晟が虞慶則の副使として攝圖に赴き大義公主を降嫁させた
  • 開皇七年587年攝圖が死に、晟は弟の処羅侯を莫何可汗、その子雍閭を葉護可汗に立てた
  • 開皇十三年593年長孫晟が大義公主と胡人の私通・謀反の企てを暴いた
  • 開皇十七年597年染幹が晟に伴われ入朝し安義公主を娶り南徙した
  • 開皇十九年599年達頭に大破された染幹を長孫晟が保護して入朝させ、意彌豆啓人可汗に立てた
  • 開皇二十年600年長孫晟が秦州行軍総管として突厥討伐に出て達頭を破った
  • 仁壽元年601年長孫晟が磧北の異変を上奏し、楊素に従い染幹の北伐に同行した
  • 大業三年607年煬帝の塞外巡幸に際し長孫晟が染幹との仲介を務めた
  • 大業五年609年長孫晟が五十八歳で卒した
  • 大統二年長孫紹遠が太常卿に除せられ中書令に遷った
  • 恭帝
  • 二年長孫紹遠が録尚書事に累遷した
  • 開皇二年582年長孫覽が東南道行軍元帥として江南討伐に赴いた

道武朝から太武朝の功臣

  • 長孫道生は嵩の従子。忠厚廉謹で道武帝はその慎重さを愛して機密を掌らせた。賀毗ら四人と共に内侍して左右に仕え詔命の出入りに従った。明元帝の即位後、南統将軍・冀州刺史に任じられたが、人の美女を取って献じたことを切に責められ、旧臣であるがゆえに罪を免れた。太武帝の即位後、汝陰公に進爵し廷尉卿に遷り、蠕蠕討伐に従って尉眷らと白黒両漠間で大捷、赫連昌討伐では司徒長孫翰・宗正娥清と前駆を務めその国を平定した。昌の弟・定が平涼に走り宋の到彦之・王仲德が河南を寇して定を救おうとすると、道生は丹陽王太之と共に河上に屯してこれを禦ぎ、宋将檀道済を誘って前後から邀撃し曆城まで追撃した。司空を除せられ侍中を加え上党王に進封。八十二歳で薨じ太尉を贈られ靖と諡された。
  • 道生は廉約で三司の身にありながら衣は飾らず食は兼味せず、一枚の熊皮の鄣泥を数十年替えず時人は晏嬰に比した。第宅も卑陋であったが、鎮守から戻った際に子弟が堂廡を修繕したのを見て「昔霍去病は匈奴が未だ滅びぬとして家を顧みなかった、我がどうして安坐して華美でいられよう」と嘆じて毀させた。太武帝の代を通じ在るところで功績を挙げ大議に合すること多く、将としても権略を備え士衆をよく遇した。帝は歌工に群臣を頌させた際「智は崔浩の如く、廉は道生の如し」と称えた。老年に至り妻の孟氏に惑うところがあり時に譏られたが、従父の嵩と共に三公となったことは当世の栄とされた。

道生の孫・觀(附伝)

  • 子の瓬は少卿で早卒。瓬の子の觀は若くして壮勇で知られ、祖・道生の上党王爵を襲いだ。異姓諸王の襲爵が多く公に降される中、道生が先朝を佐命した功により特に降されなかった。征西大将軍・仮司空として河西七鎮諸軍を督し吐谷渾を討ち、部帥拾寅は城邑を焼いて遁走した。孝文帝の初め殿中尚書・侍中を拝し、吐谷渾の再侵に対しても仮司空として討ち降させた。後に征南大将軍となり薨じ、定と諡された。葬礼は祖の靖王の故事に依り雲中の金陵に陪葬された。

曾孫・幼(承業)――北魏末の動乱

  • 子の冀歸は六歳で爵を襲ぎ公に降爵された。孝文帝はその幼くして家業を承けたことから「幼」の名と「承業」の字を賜った。承業は聡敏で才芸があり虚心に士を愛し、前将軍として孝文帝の南討に従った。宣武帝の代、揚州刺史・仮鎮南大将軍・都督淮南諸軍事となる。梁将裴邃・虞鴻が壽春を襲った際、承業の諸子の驍果ぶりに邃は「鉄小児」と号して難じた。河間王琛が総兵で援けに来たが、承業は雨が長く持重すべきと説くも琛は聞かず戦って賊に乗じられ、承業は後殿を務めた。
  • 承業が強兵を総べたまま長く決戦しなかったことに異図を疑う議者もあり、朝廷は河間王琛・臨淮王彧・尚書李憲ら三都督を「助け」の名目で遣わし実は監視させた。鮮于修礼が中山で反すると承業は北討の大都督となったが、本使として鄴城に達するとその行台は解かれ河間王琛を大都督、酈道元を行台とする詔が出た。承業は子の子裕を遣わして淮南で共に国難に当たった経緯を上表したが容れられず、承業と琛は呼沲に至り承業がなお戦を欲さぬ中、琛が独断で進んで五鹿で修礼に邀撃され大敗、承業と琛は共に除名された。まもなく正平郡で蜀(氐蜀)が反すると承業は鎮西将軍・討蜀都督として頻戦の功を挙げ平東将軍・本爵を復した。尚書右僕射に至り、雍州刺史の蕭寶夤が反すると再び行台として討伐に赴いた。背疽が癒えぬまま、霊太后の慰労にも「死して已む、力を尽くさぬわけにはいかない」と答え、子の子彦も脚癉を病みつつ杖をついて辞に赴いたという。
  • 薛鳳賢が正平で反し薛修義が河東に屯し鹽池を挟んで蒲阪を攻める中、承業は河東に拠った。鹽池税の廃止が詔された際、承業は「鹽池の利は畿甸に近く、冀・定二州の常調が収められぬ現状では鹽税の収入が府庫を支える、これを廃せば冀・定を失うのと同じ」と上表し、雍州平定後は雍州刺史に除せられた。
  • 孝荘帝の初め上党王に封じられ後に馮翊王と改封、後に郡公に降爵。司徒公に遷り侍中・兼尚書令・大行台を加えられ長安を鎮め続けた。節閔帝が立つと太尉公・録尚書事に遷り、韓陵の戦いで爾硃氏が敗れると斛斯椿が先に河橋を拠えた際、承業は洛陽へ入り節閔帝に誅世隆兄弟の意を啟した。孝武帝の初め太傅に転じ、定策の功で開国子に更封されたが、承業は生まれてすぐ母を失い洪超の母に育てられたことから恩を返すためこの封を廷尉卿元洪超の次子・惲に譲るよう請い許された。
  • 武帝(西魏文帝)の関中入りに際し承業は武牢を鎮めていたがこれに随い長安に赴き、太師・録尚書事・上党王を拝した。大統元年(535年)に薨じ、仮黄鉞・大丞相・都督三十州諸軍事・雍州刺史を贈られ文宣と諡された。
  • 承業は若くして軽俠で鬥雞走馬を好み力争して人を殺したことから逃れて龍門の陳興德の家に身を寄せたことがあり、赦を得て免れた。後妻の羅の前夫の娘・呂氏を興德の兄・興恩に嫁がせて報いたという。羅は承業より十余歳年上で嫉妬が強く、承業は敬愛して姫妾を持たなかったが、左右の童侍の中には嫌疑で数人が死ぬこともあった。前妻張氏の二子は子彦・子裕、羅は紹遠・士亮・季亮の三子を生み、兄弟はいずれも雄武であった。

承業の子孫・子彥・子裕(附伝)

  • 子彦、本名は雋。膂力があり従父の征討に累従した功で槐里県子に封ぜられた。孝武帝が齊神武と隙を構えると中軍大都督・行台僕射として恒農を鎮め心膂となり、帝の関中入りに従って高平郡公・儀同三司に至った。竇泰討伐・沙苑の戦功で開府・侍中を加えられ、東京(洛陽)復帰の際は尚書令・行司州牧を兼ねて洛陽に留鎮したが、戦況不利により班師した。大統七年(541年)、太子太傅を拝した。
  • 子彦は若い頃、落馬して肘の骨が寸余も出るほどの傷を負い、開いて骨を鋸る間も戯言を平然と言い続けたため関羽に勝ると評された。晩年は石発(体質の病)で全身に瘡が生じ親戚兄弟にも悪疾と見なされたが、「悪疾はこのままでは弁明できない、蝮蛇に螫まれれば痛まないと聞く、南山でこれを試みて兄弟に示そう」と自ら蛇を股に触れさせ痛叫の末に腫れて死んだ。文帝はこれを聞き「良将を失った」と慟哭し雍州刺史を贈った。
  • 子裕は衛尉少卿に至り、子の義貞のために階十七級を啓上して官を求め左将軍・通直散騎常侍を得た。また父の勲功で平原県伯に封ぜられた。
  • 義貞の弟の兕、字は若汗。機辯で強記博聞、賓遊を重んじ談論を善くした。孝武帝の西遷に従い鄴県侯に別封され、周の天和の初め驃騎大将軍・開府儀同三司に進み熊・絳二州刺史を歴任していずれも能名があった。平原県公を襲爵し卒すると子の熾が嗣いだ。

幼曾孫・熾――隋の忠勤

  • 熾、字は仲光。性は敏慧で容姿は美しく群書に渉猟し武芸にも長じた。建德の初め、周武帝が道法を崇め経史を兼ねる者を通道館学士に求めた際にこの選に応じた。隋文帝が丞相となると禦正上士から丞相府功曹参軍に抜擢され大都督を加えられ陽平県子に封じられ稍伯下大夫に遷った。王謙の平定に功があり儀同三司を拝した。文帝の受禅に際しては官属を率いて先んじて清宮に入り内史舎人・上儀同三司を授けられ東宮右庶子を摂して両宮に出入りし委任は篤かった。太常少卿に累遷し饒陽県子に改封、開府儀同三司に進み吏部侍郎に改授された。大業年間、大理卿・戸部尚書を歴任。吐谷渾が張掖を寇すると討たせ青海まで追撃した功で銀青光禄大夫を授けられた。六年(610年)、帝が江都宮に幸すると東都居守として留まり左候衛将軍を摂したが官のまま卒し、静と諡された。子の安世は通事謁者となった。熾の弟が晟である。

熾弟・晟――突厥経略

  • 晟、字は季晟。性は通敏で書記に略々渉り、彈と弓射を善くし矯捷は人に過ぎた。十八歳で周に仕え司衛上士となったが未だ知られていなかった頃、隋文帝だけがひとりその器量を見抜き「長孫は武芸逸群、また奇略に多い、後の名将はこの子ではないか」と評した。突厥の攝圖(他鉢可汗)が求婚した際、周は趙王招の娘を娶らせ、双方が驍勇を誇りあって選んだ使者として晟は汝南公宇文神慶の副使を務め千金公主を突厥牙帳へ送った。攝圖は多くの使者を無礼に扱う中、晟だけを愛し狩猟に同行させ歳を留めた。二羽の雕が肉を争う場に矢を二本渡され射止めるよう請われた晟は馳せて一発で両雕を貫き、攝圖は喜んで諸子弟貴人に晟から弾射を学ばせた。攝圖の弟で人望篤い処羅侯(突利設)とも密かに盟を結び、遊猟のたびに山川の形勢や部衆の強弱を察知して知り尽くした。帰国後、奉車都尉を拝した。
  • 開皇元年(581年)、攝圖は隋の自立を怒り高寶寧と共に臨渝鎮を攻め諸部落と結んで南侵を謀った。文帝は長城を修め幽州・并州に兵を屯して備えた。
  • 晟は攝圖・玷厥(達頭)・阿波・突利ら叔侄兄弟が各々強兵を統べ可汗を号しながら内は猜忌し外は和同を装う様を見抜き、力での征服より離間が易いと上書して「玷厥は攝圖に対し兵強く位下、処羅侯は民心を得て攝圖に忌まれ、阿波は首鼠両端で定心がない、玷厥・阿波と通じ処羅侯と結べば攝圖の兵は分散する、十数年後に隙を承けて討てば必ず一挙にその国を空しくできる」と献策した。文帝は大いに悦び、晟の言う形勢を手ずから山川を画いて示す様に深く嗟異し、太僕元暉を玷厥へ遣わし狼頭纛を賜って歓心を買う一方、玷厥の使者を攝圖の使者より上位に置くなど反間を用いた。晟は車騎将軍を授けられ奚・霫・契丹などへ贈物を齎して道案内とし処羅侯へ深く内附を誘った。
  • 二年(582年)、攝圖が四十万騎で蘭州から侵入し達奚長儒の軍を破ったが、玷厥がこれに従わず引き上げたため南進を断念した。晟はさらに染幹(処羅侯の子)を通じ「鉄勒らが反し攝圖の牙帳を襲おうとしている」と偽らせ、攝圖は懼れて塞外へ兵を返した。
  • 数年後、突厥の大挙侵入に八道元帥が出て拒んだ際、阿波は涼州で竇栄定と戦って敗れた。晟は「攝圖はいつも大勝するが阿波は敗れて突厥の恥となる、攝圖は必ず阿波に罪を帰し北牙を滅ぼすだろう」と説き、阿波にも「攝圖に従い戮辱を受けるより天子と達頭に連結すべき」と勧めて留めさせ人を随行させて入朝させた。攝圖は白道の戦で敗れ、磧に至って阿波の離反を知ると北牙を掩って母を殺したため、阿波は帰る所を失って玷厥に師十余万を乞い攝圖を攻め、故地を回復した。攝圖も朝貢を求め公主も改姓して帝女となることを願い許された。
  • 四年(584年)、晟は虞慶則の副使として攝圖へ赴き公主に楊氏の姓(大義公主)を賜った。攝圖が起拝を拒むと晟は「可賀敦(皇后)は帝女、それでは可汗は隋の女婿ではないか」と説き攝圖は拝礼を受けた。使者としての功で儀同三司・左勲衛車騎将軍を授けられた。
  • 七年(587年)、攝圖が死ぬと晟は節を持して弟の処羅侯を莫何可汗に、その子雍閭を葉護可汗に任じた。処羅侯は晟を通じ「阿波は天に滅ぼされ山谷間に五、六千騎で潜む、取って献ずべし」と奏し、朝議は生擒すべしとの意見と即刻梟首すべしとの意見に分かれたが、晟は「困窮に乗じて戮すのは招遠の道ではない、両者を存すべき」と献策し文帝はこれを採った。
  • 八年、処羅侯が死ぬと晟は弔問に赴き陳国から献じられた宝器を雍閭に賜った。十三年(593年)、流人楊欽が突厥に亡命し彭国公劉昶が謀反を企てていると偽って公主に密告、雍閭がこれを信じ朝貢を怠り公主も言辞不遜となる中、晟は使者として観察し公主が私通する胡人安遂迦と欽が策謀していることを察知、雍閭が欽を匿すのを買収と探索によって暴き公主の私事も明るみに出させた。国人は大いに恥じ、雍閭は遂迦らを晟に付した。功により開府を加えられ大義公主誅殺の使命も帯びた。雍閭が求婚した際、晟は「雍閭は反覆無信、玷厥と隙があるからこそ隋に依るのだ、婚を結んでも必ず叛く、染幹(処羅侯の子)こそ両世の誠款があり、南徙させ雍閭に対抗させるべき」と献策し文帝はこれを容れた。
  • 十七年(597年)、染幹は晟に伴われ入朝して逆女(求婚)し、宗女を安義公主として妻あわせた。晟の勧めで染幹は南徙し度斤の旧鎮に居した。雍閭はこれを疾んで抄略を繰り返したが、染幹は動静を察知して先に報せたため備えを怠らなかった。
  • 十九年(599年)、染幹は晟を通じ雍閭が攻具を作り大同城を攻めようとしていると奏し、六総管が出討した。雍閭は懼れて達頭と同盟し染幹を大長城下で大破、染幹の一族は皆殺され部落は亡散した。染幹と晟はわずか五騎で夜逃れ、百余里先で数百騎を収めた。染幹が玷厥への投降を謀ると、晟は密かに伏遠鎮に使者を送って烽火を挙げさせ「賊が近い」と偽って染幹を城内に留め、達官に部衆を執らせて自ら染幹を伴い駅を馳せて入朝した。文帝は大いに喜び晟を左勲衛驃騎将軍・持節護突厥とした。降虜の覘候により雍閭の牙内に度重なる異変や隋軍来襲の噂が広まっていることが知られた。まもなく染幹は意彌豆啓人可汗とされ、武安殿での賜射で晟の朋に加わりたいと願うほど懐いた。晟の弾射の妙技も披露された。五万人を率いて朔州に大利城を築き染幹を処し、安義公主の死後は義城公主を持節で送りまた妻あわせた。晟の奏で染幹の部落を五原に徙し夏・勝両州間に横塹を掘って安住させる策も採られた。
  • 二十年(600年)、都藍が部下に殺されると晟は染幹の部下を招尉に用いる策を献じ皆な帰附させた。恐れた達頭に対し晟は秦州行軍総管として晋王広の節度を受け出討、突厥は飲泉の習慣を利用した毒水の計で多くの人畜を失い夜遁した。晟は追撃して首千余級を斬り百余口を虜とし、王は大いに喜んで宴に招き晟を「突厥内で最も畏れられる長孫総管、弓声を霹靂、走馬を閃電と呼ぶ」と評した。師の凱旋後、上開府儀同三司を授けられ大利城へ戻された。
  • 仁壽元年(601年)、晟は磧北に「灑血」と呼ばれる不吉な兆しの赤気を望見したと上奏し、楊素を行軍元帥として染幹の北伐に受降使者として同行した。二年、北河で賊帥思力俟斤らを撃退、鉄勒の思結・伏具・渾・斛薛・阿拔・僕骨ら十余部が達頭を離反して来附するなど成果を挙げ、達頭は吐谷渾へ西奔した。晟は染幹を磧口に安置して入朝した。
  • 文帝の崩を秘したまま、煬帝は晟を大行前で内衙宿衛に委ね左領軍将軍を拝させた。楊諒の乱では相州刺史として山東の兵馬を発したが、子の行布が逆地にいることを理由に辞退を願った晟に対し帝は「公は終に子のために義を害さぬ人だ」と赴任させた。乱平定後、武衛将軍に転じた。
  • 大業三年(607年)、煬帝が塞外を経て涿郡へ幸する際、染幹が驚かぬよう先に晟が趣旨を伝えた。染幹の牙中の草が穢れているのを見た晟は「これは根が大変香る草だ」と偽り、染幹自ら草をむしって諸部落に威重を示させた。その後、榆林から染幹の牙、さらに薊まで三千里・広百余歩の御道を国を挙げて開かせた。帝は大いに喜び、後に淮陽太守に任じようとしたが赴任前に右驍衛将軍に戻された。
  • 五年(609年)、五十八歳で卒し帝は悼惜した。後に突厥が雁門を囲んだ際、帝は「もし長孫晟がいたなら匈奴をここまでのさばらせなかったろう」と歎じた。
  • 晟は奇計を好み功名を立てることに務め、至孝の性で喪に居ることで痩せ衰え士人に称された。唐の貞観年間、司空・上柱国を追贈され獻と諡された。少子の無忌が嗣いだ。長子の行布も謀略に富み父の風があったが、楊諒の乱で城を守り豆盧毓と共に城が陥って害された。次子の恒安は兄の功により鷹揚郎将を授けられた。

晟從祖・紹遠――音楽制度の議論

  • 紹遠、字は師、少名は仁。寛容大度で墳籍を好み聡慧は人に過ぎた。父の承業が壽春を鎮めていた頃、紹遠は十三歳。承業の管記・王碩が紹遠の強記を聞いて試すことを承業に請い、『礼記月令』を数紙読ませたところ一遍で流暢に誦したため碩は感服した。司徒府参軍事から起家し、別将として河東の蜀の薛氏を討平し東阿県伯に封じられた。
  • 魏孝武帝の西遷に承業と共に随い、功で文安県子に別封された。大統二年、太常卿に除せられ中書令に遷り父の爵を襲いだ。後に例により公に降爵され馮翊郡と改めた。恭帝二年、録尚書事に累遷。周文帝は「長孫公は任使するところ人に反顧の憂いなからしめる、漢の蕭何・寇恂もこれには及ばぬ、容止堂堂として当今の模楷たるに足る」と常に群臣へ語った。六官が建てられると大司楽を拝し、周閔帝の即位で上党郡公に復封された。
  • 紹遠が太常であった当時、多くの工人を召して楽器を創造したが黄鐘だけが調わず恨んでいたところ、韓使君の仏寺で三層の浮図の上の鐸の音が宮調に雅合するのを聞いて取り配奏させると初めて克く諧った。「魏氏は秦・雍に都したが黄鐘(天子の正位)の楽が長らく成らなかった、いま水行が終わり木運が始まる兆しとして天命が霊楽を降した」と啟し、明帝は「これは天地祖宗の祐、公の達鑒によるところ」と応じた。
  • 紹遠が奏した楽は八を数とした。梁の裴正は昔の舜が七始を制した故事を引き、林鐘を黄鐘の代わりに正調とすべきと上書、紹遠と論争になった。正は「天子は八を用いるにせよ縣(かける)だけで撃たないのは理屈に合わぬ、黄鐘を縣して太蔟を撃つのは天位を虚しくして人だけを用いること」と論じたが、紹遠は「天は言わず四時が行われ地は言わず万物が生ずる、黄鐘を縣して太蔟を撃つのは天子が端拱し群司が奉職する象」と反駁した。両者は『呂氏春秋』『周礼』の典拠を引きながら議論を重ね、正が「林鐘を黄鐘とするのが相生の義に適う」と主張すると紹遠は「天は陽位で音は平濁、地は陰位で音は急清、急清は絶えやすく平濁は久しきに堪える、これが王者の基」と論じ結局は八を数とする制に定まった。
  • 京兆尹を拝し少保・小司空を経て河州刺史に出た。河右の戎落では同姓婚が俗となっていたが紹遠は礼をもってこれを大いに改めさせ、政は簡恕を旨として百姓は悦服した。小宗伯に入った。
  • 武帝が史書を読み武王克殷の七始の故事から八を廃し七を用い黄鐘の正宮も除こうとした際、紹遠は「天子縣八は百王共軌、周武にして初めて七始の音を修めたのみで八を廃す典はない、黄鐘は天子の正位、廃すべきでない」と奏し、帝は「体本求直を望んだだけで苟も名を改めるつもりではない、さらに思案する」と述べたが結局は七音が行われた。
  • 紹遠は疾に倒れ面陳できぬまま楽部の齊樹へ書を送り「天子縣八の由来は古くよりある、八筍虡を毀すな、疾が癒えたら改めて奏聞する」と伝えた。その後疾篤くなり、子の覧に「黄鐘は天子の宮、大呂は皇后の位、黄鐘の位を廃せば禄は王室を去り、林鐘を首とすれば政は私門に出る、八百年の祚が姫周のように永くないことを恐れる、人臣として黙すことはできない、必ず輿疾してでも朝廷で争う」と遺言し、遺表でも『春秋』隠公伝・周礼・倕氏の鐘・母句氏の磬・漢成帝の得た古磬などの典拠を挙げて八への回帰を訴えた。帝は表を見て涕を流し、柱国大将軍を重贈し獻と諡し楽祖と号して廟庭に配饗した。子の覧が嗣いだ。

紹遠子・覽(附伝)

  • 覽、字は休因。性は弘雅で器度があり喜怒を色に出さなかった。書記に略々渉り鐘律に殊に通じた。周明帝の代、大都督となり、明帝は覽の質朴な性格が師表たりうると見て魯公(後の武帝)に事えさせ親善を得た。魯公が即位(武帝)すると車騎大将軍に超拝され、公卿の上奏はすべて覽に省読させた。覽は口辯があり声気は雄壮で百僚が属目した。初めの名は善であったが、帝が「朕は万機を卿の先覧に委ねる」と語って覽と名を賜った。宇文護の誅殺に功があり薛国公に進封、小司空に累遷。斉の平定に従い柱国に進んだ。武帝の崩後、遺詔を受けて輔政。宣帝の代、上柱国・大司徒に至り同州・涇州の刺史を歴任した。隋文帝が丞相となると宜州刺史に転じ、開皇二年(582年)江南討伐で東南道行軍元帥として八総管を統べ壽陽から水陸並進、師が江に臨むと陳は大いに驚いたが、陳宣帝の崩御を機に喪に乗じず還った。文帝は覽と安德王楊雄・上柱国元諧・李充・左僕射高熲・右衛大将軍虞慶則・呉州総管賀若弼らを同席で宴し「朕は昔周朝で誠節を尽くしたが猜忌に苦しんだ、共に終吉を用いよう、謀反でなければ問わない」と語り、その恩礼は篤かった。蜀王秀の妃に覽の娘を迎えた。後に涇州刺史となり官のまま卒した。子の洪が嗣ぎ宋・順・臨三州刺史・司農少卿・北平太守となった。

紹遠弟・澄(附伝)

  • 澄、字は士亮。十歳のとき司徒李琰之がその器量を見て娘を娶あわせた。十四歳で父承業の征討に従い智謀と勇で諸将に冠絶し西華県侯に封ぜられた。長じて容貌は魁岸、風儀は温雅で、魏の大統年間、豫州・渭州刺史を歴任、軍功で永甯県伯に別封され覆津県侯に進んだ。
  • 魏文帝が周文帝や群公と宴した際「『孝経』一巻は人の行いの本、諸君は各々要言を引くべし」と語ると、澄は「夙夜懈らず、以て一人に事う」と応じ、周文帝は澄の合機ぶりを深く歎じ次に応じた者を譴めたという。
  • 周孝閔帝の践阼で大将軍を拝し義門郡公に進爵、玉壁総管として威信があった。鎮で卒すると柱国を贈られ簡と諡された。喪の初めから葬までを明帝が三たび臨み、典祀中大夫の宇文容が「君が臣の喪に臨むのは節制がある、輿駕が屡々降るのは典礼に反する恐れがある」と諫めても帝は従わなかったという。子の嶸が嗣いだ。
  • 瓬の弟の禮は若くして父の任により散騎侍郎となり襄城公盧魯元らと内侍を務めた。恭敏で才志があり、太武帝は「その父は吾が祖に親近し、子が吾が左右にいるのも当然」と寵信した。