北史卷二十 列傳第八 奚眷

奚眷

  • 代の人。若くして将略があった。道武帝の代に戦功があった。明元帝の時、武牢鎮将となり寇に恐れられた。太武帝の時、南陽公を賜った。蠕蠕征討では都曹尚書として偏将を督し別道から出たが、鹿渾海での会合を命じられていたところ中山王辰ら諸大将と共に期限に遅れ、都の南で斬られ爵を除された。

史論

  • 帝王の興隆は天命によるとはいえ、経綸を助けるのは股肱の臣である。神元・桓・穆の頃、王業がまだ顕れぬ中、衛操・莫含は身を投じて功名を立てた志ある士であった。劉庫仁兄弟は忠義を貫き盛衰を通じて変わらず、その志は遠大であったが、いずれも非命に斃れたのは惜しむべきである。尉古真兄弟は忠勇にして生を惜しまず、子の眷は威略で家業を高めた。穆崇は早くから信頼を得て誠を尽くし、寵栄を極め台司に至った――謀反に連座しながらも保護され廟に配享されたのは、その功が重んじられたゆえだろう。代々公卿を輩出し栄華を極めた。
  • 奚斤は忠孝と征伐の功で知られたが、平涼の役で軍は殲滅され身は虜となった――崤の敗戦の責は赦されたが功を全うできなかったにもかかわらず、恩礼は篤く廟廷に祀られた。叔孫建は初め誠勤を尽くし、のち大功を立て辺境で威を震わせた。俊は明元帝に忠節を尽くし危難に処する義を示し、日磾(漢の金日磾)の風があり、柔にして正しく朝野に賞賛された。安同は異民族出身ながら智識を用いられ時の俊才と並んだ――理由あってのことだろう。頡は赫連昌を捕らえ宋の軍勢を摧いた名将であり、軽んじがたい存在である。庾業延は危難の中に頭角を現し草創の時に事に当たり智勇を発揮し功名を挙げたが、傾覆を免れなかったのもまた天命であろう。王建は高位にありながら直言をもって兄を陥れ、参合の役での過ちもまたその罪ではなかったか。羅結は枝葉のように連なり子孫は栄禄を保った。婁伏連・閭大肥はともに征伐で功を立て前代に名を残した。奚牧・和跋・莫題・賀狄幹・李栗・奚眷は忠勤と征伐の功を挙げながら功名に驕らず身を慎むことができず、いずれも誅殺されたのも、それぞれの天命であろう。