北史卷二十一 燕鳳・許謙・崔宏・張袞・鄧彥海
北魏建国期に道武帝・明元帝・太武帝に仕えた文臣群像。燕鳳・許謙は昭成帝以来の学識をもって国事に参与し、鄧彥海は国記編纂に携わった。崔宏(字は玄伯、清河の名族出身、?–418年)は道武朝で国号議定や律令制定を主導し重んじられた。子の崔浩(字は伯深、?–450年)は明元・太武二朝で軍事・政治の中枢を担う謀臣として活躍したが、国史編纂を機に讒訴を受け太平真君十一年(450年)に一族もろとも誅殺された。張袞は道武帝の創業を助けた宿将で永興二年(410年)に没した。
年表(10件)
- 泰常三年418年崔宏が病没し、司空を追贈され文貞公と諡された
- 神瑞二年415年崔浩が鄴への遷都に反対し北方に留まるべきと説き、明元帝はこれに従った
- 泰常元年416年崔浩が劉裕の姚泓討伐への仮道を献策したが容れられず、明元帝は後にこれを悔いた
- 二年417年崔浩が姚興の衰えを見て劉裕の後路遮断策への賛同を説いた
- 三年419年崔浩が彗星の異変から東晋滅亡と劉裕簒奪を予言した
- 五年421年宋が晋に代わり改元したことを機に、明元帝は崔浩の彗星占の的中を喜んだ
- 神冢二年429年群臣が反対する中、崔浩だけが蠕蠕討伐に賛成し的中させた
- 神蒨二年429年崔浩が国書三十巻の編纂を主導した
- 太平真君十一年六月450年崔浩が誅され、清河崔氏とその姻族が族滅された
- 永興二年410年張袞が卒し、のち太保を策贈され文康公と諡された
燕鳳
- 燕鳳、字は子章、代の人。若くして学を好み経史に博く通じ、陰陽讖緯にも明るかった。昭成帝(什翼犍)はその名を聞き礼を尽くして招いたが、鳳は応じなかった。苻堅の軍が代を囲んだ際、堅が「鳳が来なければ代の民を屠る」と告げたため、代人は恐れて鳳を送り出した。昭成帝は賓客の礼で迎え、後に代王左長史に任じて国事に参決させ、経書を献明帝に授けさせた。
- かつて苻堅への使者となった鳳は、堅の「代王とはどのような人物か」との問いに「寛和仁愛で経略は高遠、当代の雄主であり天下併呑の志を常に抱く」と答えた。堅が北人の武備の弱さを難じると、鳳は「北人は壮健で身軽、軍は輜重の煩いなく速く動き、これが北方が常勝する所以」と応じ、雲中の地の広さや馬の数(控弦の士数十万、馬約百万匹)を挙げてその国力を説き、堅を納得させて厚遇を受けた。
- 昭成帝の崩後、道武帝が幼く長安への遷徙が図られた際、鳳は苻堅に「代主が急死し遺孫はなお幼く、別部大人の劉庫仁と鉄弗の衛辰は互いに深い仇があり先んじて動けない、これを利用し両者に部を分け治めさせ、孫が成長したら立て直すのが上策」と説き、堅はこれに従った。鳳はまもなく東へ帰り、道武帝の即位後は吏部郎・給事黄門侍郎・行台尚書を歴任して重んじられた。明元帝の代には崔宏・封懿・梁越らと共に経伝を講じ朝政にも与った。太武帝の初め、旧勲により平舒侯に叙せられ、卒すると子の才が爵を継いだ。
許謙
- 許謙、字は元遜、代の人。若くして文才があり天文図讖の学に長けた。建国の頃、一族を挙げて帰附し、昭成帝は代王郎中令に抜擢して文記を掌らせた。燕鳳と共に献明帝に経書を授けた。昭成帝の崩後、謙は長安に移ったが、苻堅の従弟で和龍を鎮める行唐公洛の招きでその鎮へ赴き、まもなく継母の老いを理由に辞して帰った。登国の初め、道武帝に帰し右司馬となり、張兗らと共に草創期の政を助けた。
- 慕容寶の来寇に際し、道武帝は謙を遣わして姚興に危急を告げさせた。興が派遣した将楊佛嵩の進軍が遅れたため、謙が書を作って促すと、佛嵩は道を倍にして進んだ。道武帝は大いに喜び謙に関内侯を賜った。寶が敗れると佛嵩は退いた。慕容垂の死に際しては上書して即位を勧め、并州平定後は陽曲護軍となり平舒侯に叙せられた。卒すると幽州刺史・高陽公を贈られ、文と諡された。
- 子の洛陽が爵を継いだ。明元帝は謙の功を追録し洛陽を雁門太守とした。洛陽の家の田に嘉禾三本(いずれも異畝同穎)が生じたことを太武帝が善しとして北地公に進爵させ、卒すると恭と諡された。
崔宏――出自と冀州神童の評
- 崔宏、字は玄伯、清河東武城の人。魏の司空崔林の六世孫にあたる。祖の悅は石季龍に仕えて司徒右長史、父の潜は慕容暐に仕えて黄門侍郎となり、いずれも才学で知られた。
- 宏は若くして俊才があり「冀州神童」と称された。苻融が冀州を治めた際に虚心に礼遇され、陽平公侍郎・領冀州従事を拝し、庶事を総べて滞りなく処断した。苻堅はこれを聞き太子舎人に召そうとしたが母の病を理由に就かず、著作佐郎に左遷された。太原の郝軒は宏を「王佐の材、近代にいまだかつてない」と評した。苻堅の滅亡後は乱を避けて斉魯の間に身を寄せ、丁零の翟釗や晋の叛将張願に留められた。郝軒は「この人がこの時に遭いながら扶搖の勢に因れず鴳雀と共に沈むとは、惜しむべきか」と歎じた。
- 慕容垂に仕えて吏部郎・尚書左丞・高陽内史を歴任し立身は雅正、兵乱の中でも学問に篤く資産に頓着せず、妻子は飢寒を免れなかった。
崔宏――道武朝での国号議定と重用
- 道武帝が慕容寶を征して中山に至った際、宏は郡を棄てて海浜に走ったが、帝はその名を聞いて求めさせ、黄門侍郎として張兗と共に機要を総べ制度を草創させた。晋の使者が来聘した際、帝が国号を議させると、宏は「三皇五帝の号は所生の地や封国の名に因るもので、虞・夏・商・周も初めは諸侯だったが聖徳が隆んになると号を改めなかった。ただ商人だけは屡々遷り殷と号を改めたが旧号も兼ね用いた。我が国は登国の初めに代を魏と改め、慕容永も魏の土地を献じた。魏は大名州の上国であり革命の徴験である」と論じ、帝はこれに従って魏と称した。
- 帝が鄴に幸した際、宏は故事に応対して流れるがごとく、帝はこれを善しとした。恒嶺で帝が新たに徙された人々を撫慰した際、宏が老母を扶けて嶺を登る姿に遭い牛米を賜り、詔して自力で進めない徙民に車牛を給させた。吏部尚書に遷り、官爵の制定・朝儀の撰定・音楽の協和・律令の制定・科禁の頒布を総裁して永式とし、八部大夫を置いて八坐に擬した。宏は三十六曹を通署し令・僕のごとく事を統べ、深く信任され勢は朝廷を傾けたが、みずからは倹約を守り産業を営まず家は四壁のみ、車も持たず母には重い膳を供さなかった。帝はこれを聞いて益々重んじ厚く賜賚した。世人は過度の倹約を譏ったが宏はますますこれを守った。古今の旧事や王者の制度を問われては古人の製作の体や興廃の由来を陳べ、常に上意に叶い、諫言で忤らうことも諂うこともなかったため、道武帝の晩年に大臣の多くが咎めを受ける中でも宏だけは譴責を免れた。
- 帝は『漢書』を講じさせた際、婁敬が漢祖に魯元公主を匈奴へ嫁がせるよう説いた故事に感心し、以後は諸公主を賓附の国に嫁がせ朝臣の子弟を尚わせなかった。尚書職を罷めると白馬侯・周兵将軍を加えられ、旧功臣の庾岳・奚斤らと同班ながら寵信はこれを凌いだ。
崔宏――明元朝での輔政
- 道武帝の崩後、明元帝の即位前、清河王紹が人心の不安に乗じ財帛を大出して朝士に班賜したが、宏だけはこれを受けず、長孫嵩以下は恥じ入った。詔して使者を郡国に遣り法に従わぬ守宰を糾察させた際は宏と穆観らに案じさせ、帝はその公平を称えた。また宏は長孫嵩らと朝堂で刑獄を決するよう命じられた。
- 明元帝が郡国の豪右大人を害と見て徴召を優詔した際、民が本貫を慕う中で長吏が無理に遣わしたため軽薄な少年が扇動して各地に聚結し、西河・建興で盗賊が起こった。帝が宏・安同・叔孫建・元屈らに問うと、宏は大赦による緩和を主張し、屈は首悪だけを誅すべしと反対したが、宏は「王者が天下に臨むのは民の安寧を本とする、赦は正道ではないが権により行いうる。もし赦して改めなければその時誅しても遅くない」と説き、明元帝はこれに従った。
- 神瑞の初め、宏は南平公嵩らと止車門の右に坐して機事を聴決した。并州の胡数万が河内を南掠し公孫表らが討って敗れた際、宏は「表らの軍が足りぬのではなく処分を誤ったのだ、胡は多いが猛将がいない。胡が服信する大将に数百騎を率いさせて表軍を摂すべきで、これを聞けば胡は必ず震怖する。壽光侯建なら諸将も及ばぬ」と献策し、帝はこれに従って胡寇を平定した。まもなく天部大人を拝し公に進爵。泰常三年(418年)夏、宏が病篤くなると帝は侍中穆観を遣わして遺言を受けさせ、しばしば侍臣を通じて見舞った。卒すると司空を追贈され文貞公と諡された。喪礼は安城王叔孫俊の故事に依り、群臣と附国の渠帥に会葬を命じた。子の浩が爵を継ぎ、太和年間、孝文帝は先朝の功臣を追録して宏を廟廷に配饗した。
崔宏子・浩――少年期から明元朝の信任
- 浩、字は伯深。若くして学を好み、経史・玄象陰陽百家の言に通じないものはなく、義理を研精し当時これに及ぶ者はなかった。弱冠で通直郎となり著作郎に遷る。道武帝は浩が書に巧みなことから常に左右に置いた。道武帝晩年、威厳が峻しく宮省の左右は些細な過ちで罪を得ることが多く逃避したが、浩だけは恭勤怠らず終日帰らぬこともあった。帝がこれを知って禦粥を賜るほどであり、窮通によって節を変えぬ人物だった。
- 明元帝の初め博士祭酒を拝し武城子に叙爵された。常に帝に経書を授け、郊祀には父子で軒軺に乗り時人の栄とするところとなった。明元帝は陰陽術数を好み、浩の『易』・『洪範』五行の説を善しとして吉凶を筮させ、天文を参観して疑惑を考定させた。時に後宮に兎が現れたことを浩に推させると「隣国からの貢嬪あるべし」と判じ、翌年姚興が果たして女を献じた。
- 神瑞二年(415年)、穀の不作を機に太史令王亮・蘇坦らが讖書を根拠に鄴への遷都を勧めた際、帝が浩に問うと、浩は「東州の人は国家を広漠の地で牛毛のごとき民衆と見ており、今南徙すれば諸州の地にも満たず水土に慣れず疾疫で死傷し声実ともに損なわれる、北方に留まれば山東に変あれば軽騎で威を燿かし敵に多少を知られず百姓は望塵して伏す、春に草が生じ乳酪と菜果で来秋まで食い繋げる」と論じ、帝は深く然りとした。中貴人を通じ更に問われた浩は「窮下の戸を諸州で就穀させよ、ただ遷都だけは不可」と答え、帝は山東三州へ民を分け倉穀を稟して救い、翌年は大熟した。
- 姚興死の前年、熒惑が匏瓜星中で忽然と消えた異変を帝が碩儒に問うた際、浩は『春秋左氏伝』の説と日辰の推算から「熒惑は秦(姚興の拠る咸陽)に入ったのだ」と判じ、人々に嘲られたが、八十余日後に熒惑が東井に出現し、姚興が死んで二子が争い三年で国が滅ぶと諸人は服した。
- 泰常元年(416年)、晋の劉裕が姚泓を伐つため黄河を遡って道を仮そうとした際、外朝の公卿は函谷の険を恃み河上流を断つべきと論じたが、浩は「裕は必ず関中に入る、塞げば裕は北侵し姚は無事で我が方が敵を受ける、水道を仮して裕を西進させ後に東帰の路を断てば卞莊が二虎を刺す形になる、裕が勝てば仮道の恩に感じ、姚が勝てば救隣の名を失わない、いずれにせよ関中は遠くて守り難く終には我が物となる」と説いたが容れられず、長孫嵩を派遣して戦い、畔城で晋将硃超石に敗れた。帝は浩の言を用いなかったことを悔いた。
- 二年(417年)、晋の齊郡太守王懿が降り劉裕の後路を断てば戦わずして克てると献策すると、帝は浩に問い、浩は「姚興は虚名を好み実がなく子の泓も病弱、衆叛親離、乗ずれば必ず克つ」と答え、劉裕と慕容垂・王猛・苻堅・慕容恪・慕容暐・司馬德宗・太祖(道武帝)・屈丐(赫連勃勃)らを比較して評した問答が交わされ、帝は深夜まで語り合い縹醪酒十斛・水精戎鹽一両を賜って「朕の卿の言を味わうこと、この鹽酒のごとし」と語った。
- 三年(419年)、彗星が天津から太微・北斗・紫微・天棓を経て八十余日で消えた異変に帝が問うと、浩は「王莽篡位の前にも彗星が今回と同様に出入りした、これは僭晋(東晋)滅亡と劉裕の簒奪の応である」と論じた。五年(421年)、宋が晋に代わり改元赦書を発すると、帝は狩の最中に浩を駅馳で召し「往年の彗星の占が験した、今日はじめて天道を信じた」と告げた。かつて浩の父が病篤かった際、浩は爪髪を截って庭で禱り身代わりを求め、父の死後は喪に居ること礼を尽くしたと称された。白馬公の爵を襲いだ。
崔浩――太武朝の軍事・政治への献策
- 浩は朝廷の礼儀・策詔・軍国の書記のすべてに関わり、雅説を能くしたが文を長じず、制度科律や経術の言に心を留めた。『家祭法』を著し、性は老荘の書を好まず「矯誣の説で人情に近くない」と評した。
- 帝に微疾があり災異が屡々見えた際、密かに問われた浩は「早く東宮を建て公卿忠賢を師傅とし、監国撫軍させれば陛下は優遊できる」と説き、帝はこれに従って太武帝を国副主として臨朝させ、長孫嵩・奚斤・安同を左輔、浩と穆観・丘堆を右弼とした。明元帝はこれを窺い喜んで、群臣に「長孫嵩は宿徳、奚斤は辯捷智謀、安同は俗情に明るく、穆観は政事の要に達し、崔浩は天人の会に精しく、丘堆は公に専謹、この六人で吾子を輔ければ経国に足る」と語った。
- 宋武帝の死を機に洛陽・武牢・滑台を取ろうとした帝に対し、浩は「劉裕が新たに死んだのに喪に乗じて伐つのは不令、弔祭して恤み義風を布くべき、裕死して党与も未だ離れず緩めて悪の熟すのを待つべし」と諫めたが帝は聴かず、奚斤らを南伐させた。滑台攻めが長引き公孫表が済師を請う中、浩は「南人は固守に長じる、大国の力で小城を攻めて時に克たねば軍勢を損なう、淮を限りに略地し租穀を収めるべき」と献策したが用いられず、帝自ら南巡し浩を相州刺史・随軍謀主とした。
- 始光年間、赫連昌討伐が議された際、群臣が難色を示す中、浩だけは「熒惑が羽林・鉤陳を犯した占は秦の亡、五星並びに東方に出るのは西伐に利あり」と主張し、帝は蒲阪と都城を撃って大いに獲た。再度の討伐では風雨に紛れて撤退を装う敵の計を看破し「賊は前方が止まらず後方は離絶している、風道は人にあり常なし」と分軍しての奇襲を進言し、大破した。
- 神冢二年(429年)、蠕蠕討伐が議された際、朝臣内外はみな反対し保太后も固く止めたが、浩だけが賛成した。太史令張深・徐辯らが「今年は三陰の歳で挙兵すべきでない」と唱えると、浩は陰陽刑徳の理を説いて反論し、深らを「俗生で術数に牽かれ大体に達せず遠図と与にし難い」と難じ、漠北の水草の豊かさや高車の帰服の実などを挙げて蠕蠕討伐の利を説き、赫連昌の面前で深らを黙らせた。帝は「亡国の臣とは謀るべからず、というのは真実であった」と喜んだ。実際に軍は蠕蠕領を東西五千里・南北三千里に亘って捜討し、高車が降った蠕蠕種類三十余万落を殺し、大檀(蠕蠕主)を敗走させた。
- 南籓諸将が宋の来襲に備えて先制攻撃を求めた際、浩は「南賊は北の輕兵の急襲を恐れて備えているだけで先んじて発するものではない、南は下濕で夏は行師の時でない、待って秋に涼しくなってから討つのが万全」と論じ帝は浩に従った。また司馬楚之らを用いて誘引しようとする議に対しても浩は反対し、天時が彼に不利な五つの理由を挙げて用兵を控えさせた。しかし帝は衆議に従い、寇は疾く至って到彦之が清水から入河した。
- 帝が赫連定討伐を先んじようとした際、群臣は宋の劉義隆の脅威を懸念したが、浩は「義隆と赫連定は連雞のごとく共に飛べない、儜児(義隆)は固河自守を望むのみで渡河の意はない、赫連定を摧いた後は潼関を出て江淮以北に草も残らぬ勢いとなる」と説き、平涼平定の宴で帝は浩を蒙遜の使者に「所謂崔公とはこの人、才略当代無比、朕の行止はこれに問い成敗を決す、符契の如し」と称えた。安頡の献じた南俘の証言もすべて浩の予測通りであった。
- 方士祁纖が四王を立てて禎吉を致そうとした議、代を万年に改名しようとした議に対しても、浩は先王の制と国史の由緒を根拠に反対し帝はこれに従った。河西王沮渠牧犍討伐の是非についても、浩は牧犍の内心の離反や過去の北伐の損害の少なさを挙げて討つべしと説いたが、恆農王奚斤ら三十余人は水草の乏しさを理由に反対、尚書古弼・李順らも同調した。浩は『漢書地理志』を引いて涼州の畜産の豊かさを論駁し、順らが「吾曹は目にした」と言い張ると「金銭を受けて欺こうとするのか」と難じた。帝が隠れて聞き親しく斤らを問い質すと群臣は黙り、討伐の結果、涼州は水草に富み浩の言の通りであった。
- 詔により浩は国史編修を総理し、中書侍郎高允・散騎侍郎張偉を著作に参じさせ実録に努めた。景穆(太武帝の太子)が輔政すると浩は宜都王穆壽と輔政事に与った。劉潔が異議を唱えた蠕蠕再討伐でも浩の献策通り軍を分けたが、潔が計を沮んで無功に終わった。薛永宗討伐では「北風迅疾、急撃すれば須臾に破れる」と献策し的中、蓋吳討伐では北道からの先撃を進言したが帝は南道を取り不利を招いた。
- 河西巡幸の際、浩は漢武帝の涼州経営の故事を引き軍資確保の策を上表した。また『五寅元曆』を上表し、太宗(明元帝)即位以来三十九年にわたり暦学を究めた経緯と、古来の暦術の誤りを正す意義を述べた。『晋書』の誤りを正す『晋後書』も著したが未完に終わった。
崔浩――国史編纂と誅殺
- かつて道武帝は鄧彥海に国記十余巻を編ませたが未完成のまま明元帝の代に廃絶していた。神蒨二年(429年)、諸文人を集めて国書を編ませる詔が出され、浩は弟の覧、高讜・鄧穎・晁継・范享・黄輔らと著作に参じ、国書三十巻を編んだ。著作令史の閔堪・郤標は浩に諂って石に銘を立て国書を彰そうと請い、浩の注した『五経』も併せて刻ませることとなり、景穆もこれを善しとして天郊の東三里に方百歩の石碑を立て、費用三百万を用いて完成させた。
- 浩の書いた国史は事を備えて典雅を欠き、石銘が衢路に顕現していたため北人はみな忿り、朝廷に浩を讒訴した。帝は大いに怒り、有司に浩を案じさせ秘書郎・長暦生数百人の供述を取った結果、浩は賄賂を受けたことを認めた。太平真君十一年六月(450年)、浩は誅された。清河崔氏は遠近を問わず、姻族の范陽盧氏・太原郭氏・河東柳氏に至るまでことごとく族滅され、秘書郎史以下も皆死んだ。
- 浩は弱冠の頃、太原の郭逸が娘を妻あわせた。逸の妻王氏は宋の鎮北将軍王仲德の姉で浩の才を奇として婿に迎えたが、初め嫁いだ娘が早世すると少女を継ぎ嫁がせた。浩は仏法を非毀し、仏典を敬読する妻郭氏の書を焼いて廁に捨てるほどであった。誅殺に際しては檻に入れられ城南で衛士数十人に溲をかけられ嗷嗷たる声が行路にまで聞こえたといい、宰司の被戮辱でこれに及ぶ者はなく、世は皆これを報応の験とした。
- 浩がかつて李順を害した際、火で順の寝室を焚く夢を見てそのとおり順が死んだという逸話や、浩が「急就章」を書に望まれるたびに「馮代強」と記して国への忠を示した謹直さも伝えられている。母は盧諶の孫女で、浩は『食経序』を著し家の婦功の伝統と自身の栄達を回顧している。
崔浩弟簡・崔宏祖悅・崔宏弟徽(附伝)
- 浩の弟の簡、字は仲亮、一名覧。学を好み書に巧みで知られ、道武帝の初め中書侍郎を歴任し五等侯に叙せられ著作事に参じたが卒した。簡の弟の恬、字は叔玄、小名は白、豫州刺史・武陽侯となったが浩の誅に連座した。
- 宏の祖の悅は范陽の盧諶と博芸で並び称された。諶は鍾繇の書法、悅は衛瓘の書法を学び共に索靖の草書に通じた。諶の書は子の偃、孫の邈に、悅の書は子の潜、孫の宏に伝わり、代々業を絶やさなかったため魏初は崔・盧の書を重んじた。悅はかつて苻氏の乱を避けて江南に渡ろうとしたが張願に捕らえられ本図を遂げられず、詩を作って自ら傷んだが世に伝わらなかった。浩の誅殺の際、中書侍郎高允が浩の家書を検分してこの詩を初めて見出し、允の孫綽が允の文集に録した。宏の父潜が兄渾らのために手ずから書いた誄の草稿は、延昌の初め著作佐郎王遵業が市で入手し秘蔵、その子松年が武定年間に崔季舒へ贈ろうとした際、書法に優れた姚元標が「浩に勝る」と評したという。
- 宏の弟の徽、字は玄猷。若くして文才があり勃海の高演と並び知られた。秘書監を歴任し貝丘侯を賜り、樂安王元範が長安を鎮めた際は平西将軍副将・行樂安王傅として従い済南公に進爵した。政を為すに大体を存し小事に頓着せず、人倫を好み賓客を接して談論・誨誘に終日励んだ。疾により京師に召還され卒し、元公と諡され士類がみな嘆惜した。
崔寬一族(附伝)
- 清河の崔寬の祖・肜は晋の南陽王保に従い隴右に避地し西涼・沮渠氏に仕えた。肜の子・剖、字は伯宗は常に東土(魏)への思いを抱き、太武帝の西巡に際し一族を挙げ子の寬を送って款を通じさせた。太武帝はこれを嘉して寬を岐陽令とし延水男に叙爵、使者を寬と共に西へ遣わして初附の地を撫慰させたが、剖は京師へ向かう途上で卒した。文成帝の代、涼州刺史・武陵公を贈られ元と諡された。
- 寬、字は景仁。京師に還って安国子に封ぜられ弘農太守となった。かつて款を通じた際に崔浩と誼を結び厚遇されたが、遠縁の疏族であったため浩誅殺の際も連座を免れた。武城の司空崔林の旧墟に家し、一子を浩の後嗣に立てて浩の弟覧の妻・封氏と親しく交わった。後に武陵公を襲爵し陝城鎮将となる。三崤の険しい地で寇劫が多い中、寬は滑稽な性格で豪右や盗魁と交わり誠意を尽くして人心を得た。官に禄力がない中でも民から取り立てを行いつつ恨まれず、恆農の漆蠟竹木の産と南方との交易で家産を豊かにし百姓もこれを楽しんだ。諸鎮中「能政」と称され、解任の際は三百余人が留任を請う上疏を献じた。卒に際し薄葬・時服での葬儀を遺言した。
- 寬の長子・衡、字は伯玉。孝行で知られ崔浩の書法を学んでよく似た。天安元年、内秘書中散に抜擢され詔命や御覧の書の多くを筆した。李沖・李元愷・程駿らを推挙し名器となした。承明元年、内都坐令に遷り訴訟を善く裁いて孝文帝に嘉された。太和二年、武陵公を襲爵。書史に渉猟し文筆に長け、蠕蠕の犯塞に対し備禦・便国利人の策五十余条を上書した。秦州刺史に除せられ齊郡公に徙封、河東の飢饉には龔遂の法に倣って農桑を勧め一年で盗賊を鎮めた。卒すると冀州刺史を贈られ惠公と諡された。衡には五子があった。
- 衡の長子・敞、字は公世。爵を襲いだが例により侯に降爵され平原相となった。性は狷急で刺史楊椿と互いに表列し合い免官された。宣武帝の初め钜鹿太守。弟の朏の逆に連座して黄木軍主韓文殊に匿われ、家は籍没されたが妻の李氏は公主の甥であったため奴婢田宅二百余口を伴って免れた。正光年間、禁錮が解かれ敞は郡侯を回復し趙郡太守で卒した。
- 敞の弟・鐘、字は公祿。奉朝請となったが弟朏の逆で連座せず、司徒右長史・金紫光禄大夫・冀州大中正を歴任。敞の死後、鐘は敞の財を貪り敞の子・積ら三人が兄の胤にあらずと誣告し訴訟を重ねて人士に疾まれた。爾硃世隆が尚書令になるとその官を除かせ終身用いなかった。朏は学を好み文才があったが京兆王愉の録事参軍として愉の逆に加担し伏法された。
- 宏と同郡の董謐。父の謐京は同郡の崔康時・広陽の霍原らと共に碩学で遼海に名を播した。謐は学を好み父の業を継ぎ、中山平定後に入朝して儀曹郎を拝し朝覲・饗宴・郊廟・社稷の儀を撰んだ。
張袞
- 張袞、字は洪龍、上谷沮陽の人。祖の翼、父の卓はいずれも太守を勤めた。袞は篤実に学を好み文才があった。道武帝が代王だった頃、左長史に選ばれた。蠕蠕を五、六百里追撃した際、諸部帥は糧の不足を理由に深追いに反対したが、帝が袞に問うと副馬を殺せば三日食に足ると答え、帝は倍道で広漠赤地の南床山下まで追いつき大破した。帝が後にその意図(畜産の失飲や水を求める行程を計算した三日という期日)を問い明かすと部帥は皆その先見に感服した。袞は「主上は天資傑邁、必ず六合を囊括する、風雲の会に遭って騰跳の功を建てぬ者は人豪ではない」と常に語り、誠を尽くして仕えた。
- 劉顕が広大な地を有していた頃、その兄弟の不和に乗じ「速やかに乗ずるべし」と袞が進言し、道武帝は顕を破走させ、続いて賀訥をも破った。道武帝が勿居山に登り遊宴した際、従官が石を積んで功徳を記す峰を築こうと請い、帝は袞に文を作らせた。
- 慕容寶の来寇では「寶は滑台の功に乗じ長子の捷に因って財力を頌尽している、争うのは難しいから羸師で敵の心を侈らせよ」と献策し、帝はこれに従って参合で寶を破った。給事黄門侍郎に遷る。道武帝の南伐で中山に至った際、袞は寶に書を遺して成敗を諭し、寶はこれを見て恐れ和龍へ奔った。中山平定後、八議に列せられ幽州刺史・臨渭侯を賜り百姓を安んじた。
- 天興の初め、京師へ召還されたが、後に崔逞と共に晋将郗恢への答書が旨に失し尚書令史に黜けられた。袞は創業の初めに才謀を見込まれ心を尽くして上に仕え嫌疑を顧みなかったが、道武帝に南州の人物を問われ盧溥を推薦したこと、崔逞と面識もないのに風聞で称美したことが、後に盧溥の反乱と崔逞の答書問題を招いた遠因となった。
- 袞は七十を過ぎても門を閉ざし静を守り、経書を手に誤りを刊定した。人物を愛し倦まず人を導いたため士類はこれを高く評価した。永興二年(410年)に卒し、太武帝は後に旧勲を追録して大鴻臚を墓へ遣わし太保を策贈、文康公と諡した。
張袞一族(附伝)
- 袞の子・度は学を好み臨渭侯を襲爵、中都大官で卒した。度の子・白澤は十一歳で母の喪に遭い孝で聞こえ、長じて博学、文成帝の初め殿中曹給事中に除せられ寵任された。本字は鐘葵であったが献文帝が白澤と名を賜り娘を嬪に納めた。雍州刺史に出て清廉少欲、監臨官の羊酒収受を厳罰とする献文帝の詔について、行き過ぎれば奸人の窺望を招き臣を懈らせると諫め改めさせた。太和初め、懐州の伊祁苟初らの謀反に文明太后が一城皆殺しを図った際も『周書』を引き連座の限度を説いて止めさせた。散騎常侍・殿中尚書に転じ卒し、相州刺史・広平公を贈られ簡と諡された。
- 白澤の長子・倫、字は天念。大司農少卿・燕州大中正。熙平年間、蠕蠕主醜奴が敵国の礼で通交を求めた際、倫は「虜を強で懼れさせれば帰附し、弱を示せば窺覦を招く」と説き高祖・世宗の故事を挙げて厚遇に慎重を期すよう上表した。孝荘帝の初め大司農卿で卒した。
- 袞の弟・恂、字は洪讓。兄袞と共に北へ帰り代王軍事に参じ、中土士庶の望を収めて大業を建てるべきと道武帝に説き重んじられた。皇始初め、中書侍郎を拝し帷幄の密謀にも参与、平皋子に叙爵され広平太守に出た。離散の民を招集し農桑を勧めて数千戸を帰らせ、常山太守に遷って学校を開き儒士を優礼し吏人に歌われた。喪乱の後、清廉恭恕で当時第一の政と称された。明元帝の即位後、太中大夫に召され卒した。死の日、家に余財がなかったという。并州刺史・平皋侯を贈られ宣と諡された。
- 恂の子・純、字は道尚。爵を襲いだが事に坐して除かれた。純の弟・代、字は定燕。陳留・北平二郡太守を歴任し卒すると営州刺史を贈られ惠侯と諡された。代の子・萇年は汝南太守。郡人の劉崇之兄弟が牛一頭を争い訴えた際、自らの牛を賜って和解させ、境内は敦厚な譲りあいの風となったという。萇年は郡官のまま卒し、子の琛、字は寶貴は孝行で知られ太子翊軍校尉に至って卒した。
鄧彥海
- 鄧彥海、安定の人。祖の羌は苻堅の車騎将軍、父の翼は河間相。慕容垂が鄴を囲んだ際、翼は冀州刺史・真定侯に任じようとする垂の使者に「先君は秦室に忠であった、翼がどうして先に叛けようか」と拒み、垂が異姓の兄弟の情を説いても「冀州は親賢に任せるべき、翼は他役で命を効したい」と固辞、垂は河間太守に用い、後に趙郡内史で卒した。
- 彥海は性貞素で言行が信頼でき、経書に博く『易』の筮に長けた。道武帝の中原平定に際し著作郎に抜擢され尚書吏部郎に再遷、崔宏と共に朝儀・律令・音楽を参定し、軍国の文記・詔策の多くも彥海が起草した。下博子に叙爵された。道武帝は彥海に国記十余巻を撰ばせたが年月・起居行事を次第するのみで体例は整わなかった。彥海は朝事に謹み帝旨に忤らわなかったが、従父弟の暉が尚書郎として凶俠で定陵侯和跋と厚誼を結び、跋の罪誅の後にその子弟の逃亡を送り出したとの疑いから道武帝に知情を疑われ、彥海は死を賜った。まもなく帝はこれを悔い、時人は彥海を憐惜した。
彥海子・穎(附伝)
- 子の穎は爵を襲ぎ中書侍郎に遷った。太武帝が太常卿崔浩に文学の士を集めて国書を撰述させた際、穎は浩の弟覧らと共に著作事に参じた。太武帝が漠南に幸した際、高車の莫弗庫若干が数万騎を率い鹿百余万を駆って行所に詣でると、穎は文を作って漠南に銘し功徳を記した。散騎常侍を兼ねて宋に使いし、爵を侯に進めた。卒して文恭と諡され、子の怡が爵を襲ぎ荊州刺史・南陽公に叙爵されて卒した。
- 穎の子・侍は孝文帝より述と名を賜り齊州刺史となった。百官の制を改めた際、公府元佐が重んじられ述は太傅元丕の長史となり、司空の長史の座に列した。貞と諡された。
史論
- 昭成・道武の時代、王業の兆しが立った当初から経邦緯俗の文武を兼ね備えた人材が輩出した。燕鳳は博識をもって最初に礼命を受け、許謙は才術を兼ね備えて艱難に馳駆し、いずれも彼らなくして帝業は成らなかった。崔宏は名家の出で権輿の時に総機の重任を守り正しく務めを成し、清廟の祭祀に列するのも当然である。崔浩は才芸に通博で天文を究め政事の籌策にかけて並ぶ者がなく、自ら子房(張良)に比したのも故なきことではない。明元・太武の治世に言聴計従され朝廷の安定に功があったが、謀は世を蓋う一方で威が主を震わすまでには至らず、末路で不慮の禍に遭い自らを全うできなかった。鳥尽きて弓を蔵する故か、器が満ちれば概(ならす)を受けるものか、なぜこの人がこの酷を受けたのかと痛惜される。張袞の才策も咎めを免れず、彥海の貞白も罪ならぬ禍に遭ったのもまた痛ましい。恂(洪讓)が代々循吏として称えられたのは家風の貴さゆえであろう。