北史卷二十 列傳第八 穆崇
代の人。神元・桓・穆三帝以来の忠臣の家に生まれる。道武帝に仕え、劉顕・窟咄の難で密告・救援に功を立て中原平定にも従った。天賜三年に薨じたが、衛王儀の謀反への連座を道武帝が秘して丁公と諡した。太和中に功臣として太廟に配饗された。子孫は北魏を通じて代々公卿を輩出した。
穆崇
- 代の人。先祖代々神元・桓・穆の三帝に節を効した。若くして盗みを事としていたが、道武帝が独孤部にいた頃、崇はよく奉仕し当時他に及ぶ者がいなかった。劉顕の反逆に際し平文皇帝の外孫梁眷がそれを察知し密かに崇を遣わして道武帝に告げさせた。眷は崇に「顕が知れば刀剣に切り刻まれても漏らすな」と言い、寵愛する妻と乗馬を託して「事が発覚すれば、これで自ら証を立てる」と語った。崇が難を告げると道武帝は賀蘭部へ馳せ、顕は眷が漏らしたと疑い眷を囚えようとしたが、崇は「梁眷は恩義を顧みず顕に加担している、私が妻と馬を掠め取ったのを憤りの証とせよ」と偽って言いふらし、顕はこれを信じた。窟咄の難では崇の甥の于植らが崇を誘って道武帝を捕らえ窟咄に応じようと謀ったが、崇は夜これを道武帝に告げ、道武帝は于植らを誅殺し陰山を越えて再び賀蘭部へ幸した。
- 道武帝が魏王となると崇は中原平定に従い侍中・豫州刺史・太尉・宜都公に至った。天賜三年に薨じたが、先んじて衛王儀の謀反に崇も連座していたため、道武帝はその功を惜しんで秘し、有司が諡を奏する際に帝自ら諡法を閲して「述義克たざるを丁という」に当たるとし、丁公と諡した。
- 道武帝が窟咄の難を避けた際、崇に人心の様子を探らせた逸話――微行して敵陣に潜入し火が出たため春を撞く妾に見破られかけたが坑に隠れて逃れ、大澤で白狼に導かれて難を免れたという――が伝わり、道武帝はこれを異として崇の子孫に祀りを立てさせた。太和中、功臣の追録に際し崇は太廟に配饗された。
逐留・乙・真(崇の子孫)
- 崇の長子逐留は功により零陵侯を賜ったがのち罪により廃された。
- 子の乙は功により富城公を賜り、侍中で卒し諡は靜。
- 子の真は長城公主を尚し駙馬都尉を拝したが、のち勅により離婚し文明皇后の姉を娶った。南部尚書・侍中で卒し諡は宣。孝文帝は崇の勲を偲び著作郎韓顕宗に真と共に碑文を撰定させ白登山に建てさせた。
泰(真の子)
- 本名は石洛、孝文帝が泰と名を賜った。功臣の子孫として章武長公主を尚し駙馬都尉を拝し羽猟四曹の事を典った。のち尚書右僕射・馮翊侯、定州刺史として出た。文明太后が孝文帝を別室に幽閉し廃立を図った際、泰が切に諫めてこれを止めた功で寵遇を受けた。恒州刺史を願い許された。
- 泰は遷都を望まず密かに叛意を抱き、定州刺史陸睿・安樂侯元隆らと謀り朔州刺史陽平王頤を主に推そうとしたが、頤が密かに事を上表したため帝は任城王澄に并・肆の兵を発して討伐させた。澄が先に遣わした書侍御史李煥は単騎で代に入り不意を突き、泰らは驚愕して為す術を失った。李煥は逆党を諭し禍福を説いたため凶党の心は離れて用をなさなくなった。泰は敗れることを悟り麾下を率いて李煥の郭門を攻めたが敗れ、逃走の末捕らえられ送られた。孝文帝が代に幸した際、泰らは誅された。
士儒・子容(泰の子孫)
- 子の士儒は字を叔賢といい涼州に徙され、のち帰り太尉参軍事となった。
- 子の子容は学を好み書を万余巻集め、魏末には兼通直散騎常侍として梁に聘使した。斉が受禅すると司農卿で卒した。
觀(逐留の弟)
- 字は闥拔。崇の爵を襲ぎ、若くして文藝で知られた。明元帝の時左衛将軍となり門下・中書を綰ね詔命の出納や旧事の考察に遺漏がなかった。宜陽公主を尚し駙馬都尉、太尉に至った。
- 太武帝の監国に際し右弼となり、外は朝政を統摂し内は左右に応対し巨細の事にすべて関与、終日穏やかで慍色がなく、謙虚に人を導き富貴で人に驕らなかった。泰常八年、暴疾で薨じた。享年三十五。明元帝は自ら喪に臨み左右を悲しませ、通身隠起金飾棺を賜り安城王叔孫俊の故事に倣った喪礼を行い、宜都王・諡文成を追贈した。太武帝は即位後も群臣との宴のたびに、道武帝以来の佐命勲臣で文武を兼ね備えた者は觀に及ぶ者がないと嘆じたという。
壽(觀の子)
- 爵を襲ぎ樂陵公主を尚し駙馬都尉となった。聡明で父の風があり、太武帝に愛重され下大夫に抜擢された。奏事に巧みで内外に声望があり、侍中・中書監・南部尚書に遷り宜都王に進み征東大将軍を加えられた。壽は「祖の崇は先皇の危難の際、梁眷の誠心のおかげで功を効すことができたのに、その眷の子孫はいまだ賞されていない、自分だけが世々栄誉を受けるのは古の賢者に恥じる」と辞退を願い出、太武帝はこれを嘉し眷の孫を捜し出し爵公を賜った。
- 太武帝の涼州征討では壽が景穆を輔け機要を総録した。雲中で渡河の際、太武帝は壽・崔浩・李順を召し「蠕蠕の吳提と牧犍が結んで我らの涼州征討に乗じ寇するだろう、漠南に伏兵すれば容易に殲滅できる、指図に背けば斬る」と命じたが、壽は占卜を信じ賊が来ないと判断し備えを怠った。吳提が果たして来襲し京邑は大いに驚き、壽は狼狽して西郭門を築こうとし景穆を南山に避けさせようとしたが太后が許さず、司空長孫道生らに撃退させた。太武帝は還幸後、大きな損害がなかったため咎めなかった。
- 景穆の監国では崔浩らと輔政したが、人が崔浩を敬う中で壽は独りこれを軽んじ、自らの位任を恃んで「我が子が私に及べばそれで十分、無理に教える必要はない」と語るなど諸父兄弟を僕隷同然に扱い、夫妻で同席し諸父に残り物を食べさせるなど時人に卑しまれた。薨じ太尉を贈られ諡は文宣。
平國・伏幹・羆(壽の子孫)
- 子の平國が爵を襲ぎ城陽長公主を尚し駙馬都尉・侍中・中書監、太子四輔となり卒した。
- 子の伏幹が爵を襲ぎ濟北公主を尚し駙馬都尉となったが卒し諡は康、子がなかった。
- 伏幹の弟の羆が爵を襲ぎ新平長公主を尚し駙馬都尉・武牢鎮将となった。しばしば法に背く罪を犯したが孝文帝は勲旧の家柄として赦した。吐京鎮将に転じ自ら励んだ。のち吐京鎮を汾州に改め羆を刺史とした。前任の吐京太守劉升の徳政を胡人八百余人が惜しみ、前定陽令吳平仁の恩信で戸口が数倍に増えていたことも知った羆はいずれも表して用いられ、孝文帝はこれに従った。羆が推挙した官吏はみな自ら律し州は大いに治まり、州人李軌・郭及祖ら七百余人が朝廷に羆の恩徳を訴えた。孝文帝は治績に応じ秩位と任期を増した。のち光禄勲に召され、例により王を降されて魏郡公となった。侍中・中書監に累進したが穆泰の反乱に連座しかけたことが赦後に発覚し編戸に落とされ家で卒した。宣武帝の時、鎮北将軍・恒州刺史を追贈された。
亮・紹(崇の裔孫)
- 羆の弟の亮は字を幼輔といい早くから風度があった。獻文帝の時侍御中散として出仕、中山長公主を尚し駙馬都尉・趙郡王を拝し、のち長樂王に徙封された。
- 孝文帝の時、征南大将軍・護西戎校尉・仇池鎮将となった。宕昌王梁彌機の死後、子の彌博が吐谷渾に逼られ仇池に奔った際、亮は彌博が氐羌に見捨てられていることを見て、彌機の兄の子彌承を戎人が慕っていることから彌承の擁立を上表し孝文帝もこれに従い、吐谷渾を撃退して彌承を立てた。氐豪楊卜が延興以来二十一戦に従いながら前任の鎮将に功を無視されていたことに対し、亮は卜を廣業太守に推挙し豪族らを喜ばせ境内を安んじた。
- 侍中・尚書左僕射に召された。司州が新設された際、孝文帝は「司州には中正が必要、崔浩が冀州中正、長孫嵩が司州中正であった前例のように徳望ある者を選べ」と命じ、尚書陸睿の推挙で亮が司州大中正となった。のち司空に拝し律令の議定に参画、例により爵を公に降された。
- 文明太后崩御後、孝文帝が期月を過ぎてもなお過度に哀毀していたことに対し亮は上表し、金冊の遺訓を奉じ万民の心にも応えるよう、輕服を続けたり常膳を控えたりせず郊祀を修めるよう諫めた。詔は「孝悌の至りは通ぜざるなし、いま旱天に雨降らぬのは誠の慕いが薄いためではない」と応じた。太子太傅を兼ねた。太極殿造営に際し、孝文帝が「永楽宮に遷り塵埃を避けるが、この殿は高宗の代のもの、壊すのは忍びない」と群臣に別れを告げた場面で、亮は卜筮による決定を願い出、また昨年の造営で人力が疲弊していることから材木を寝かせ余裕を持つことを願ったが、帝は周・漢の草創期の造営の故事を引いて「人の寿命は定まりがあり卜筮に頼るものではない」と述べ永楽宮に遷った。
- 帝が朝堂で「三代の礼では日出に視朝したが、漢魏以降は儀礼が簡略化された。今後は日中の集いの前半で卿らが政事を論じ、後半で朕と共に可否を議す」と述べた際も、奏案を読み帝が親決する形が定められた。
- 遷都に際し武衛大将軍・本官董攝中軍事を加えられた。帝の南伐では録尚書事として洛陽に留守した。帝が小平津から石済へ舟で渡ろうとした際、亮は漢帝が渭水を渡ろうとした際に王吉が首を車輪に血で染めて諫めた故事を引いて「小さな渭水ですらそうなのに、洪河には測り知れぬ危険がある」と諫め、帝はこれを是とした。羆が穆泰の反乱に連座した際は自ら弾劾を上表したが帝は優詔で留任させ、固辞の末にようやく許された。のち頓丘郡公に徙封し崇の爵を継がせた。
- 宣武帝即位後、尚書令・司空公を拝した。薨じ、宣武帝が自ら小斂に臨み太尉を贈り諡は匡。
- 子の紹は字を永業といい、瑯邪長公主を尚し駙馬都尉となった。秘書監・侍中・衛将軍・太常卿・中書令・七兵殿中二尚書を歴任、生母の喪に服し孝で知られた。さらに衛大将軍・中書監・侍中を歴任し本邑中正を領した。
- 紹は特に才能はなかったが方正な性格で賓客に接することも少なかった。権勢を振るう領軍元叉が邸を訪ねた際も紹は下階で送迎するのみで、時人はこれを称賛した。靈太后が元叉を黜けようと迷った際、紹はこれを賛成し功により特進・侍中を加えられた。元順が酔って紹の寝所に侵入した際、紹は「私は二十年侍中を務め、卿の先君とも共に職を勤めた仲、後進の卿が礼を失ってよいのか」と正色で叱り、事を謝して官を辞したが詔で説得され復職、のち侍中を辞し病と称して河陰の禍を免れた。
- 莊帝の即位に際し爾朱榮に召された紹は死を覚悟し家廟に別れを哭した。榮に会っても手を拱えるだけで拝礼しなかったが、榮はかえって礼を尽くし「穆紹は空しく大家の子ではない」と評した。尚書令・司空を授かり王に進み班剣四十人を賜り侍中を加えられた。河南尹李獎が紹を訪ねた際、獎は紹の国主であることを恃み拝礼を待ったが紹は膝も動かさず匡坐したままで、獎は位望を憚りやむなく拝して帰った――両者とも議者から譏られた。まもなく王位を降され本爵に復した。
- 普泰元年、驃騎大将軍・開府・青州刺史・都督を加えられたが赴任前に薨じ、大将軍・尚書令・太保を贈られ諡は文獻。子の長嵩は字を子嶽といい爵を襲ぎ光禄少卿となった。
正國・多侯(崇の他の子孫)
- 平國の弟の正國は長樂公主を尚し駙馬都尉となった。正國の子の平城は早卒し、孝文帝の時、始平公主が宮中で薨じた際、平城に駙馬都尉が追贈され公主と冥婚が行われた。
- 壽の弟の多侯は長寧子に封ぜられ司衛監となった。文成帝崩御後、乙渾が専権を振るい司徒陸麗を召した際、湯治中だった多侯は「渾には君を無視する心がある、大王(陸麗)は衆望を集める存在ゆえ行けば危うい、ゆっくり戻って対策すべき」と勧めたが陸麗は従わず渾に害された。多侯もまた殺された。
翰・龍兒・弼(觀の弟の系統)
- 觀の弟の翰は平原鎮將・西海王で薨じた。
- 子の龍兒が爵を襲ぎ公に降されて卒した。
- 子の弼は風格があり自らの身の処し方に長け経史に通じ、長孫承業・陸希道らと名を並べたが、自らを誇り人を陵ぐ性格が短所となった。孝文帝が氏族を定める際、弼を国子助教にしようとしたが弼は屈辱と辞退し、帝が「白玉が泥に投じられても汚れることはない」と勉め弼も感じ入って「明時に遇いながら泥滓に沈むことを恥じる」と応じた。ちょうど司州牧の咸陽王禧が入ったところで帝が「州督として主簿を挙げよ」と命じ弼を推薦させたことで帝の知遇を得た。宣武初年、廣平王懷の国郎中令となりしばしば諫めの功があった。中書舎人を経て華州刺史で卒し諡は懿。
顗(翰の弟)
- 才力があった。侍御郎として太武帝の赫連昌征討に従い勇冠一時、泥陽子・司衛監を賜った。太武帝が崩山を通った際、虎が突出したのを顗が組み伏せて捕らえ、帝は「『詩経』に『力あること虎の如し』とあるが、顗はそれを超えている」と嘆じた。白龍征討・蠕蠕討伐に従い建安公に進んだ。殿中尚書となり涼州に出鎮、還って散騎常侍・太倉尚書を加えられた。文成帝の時征西大将軍として吐谷渾征討の諸軍を督したが賊撃退が進まず免官・徙辺となった。文成帝は顗の前朝での勲功を思い内都大官に召し、卒して征西大将軍・建安王を贈られ諡は康。子の寄生が爵を襲いだ。
醜善(崇の宗人)
- 道武帝初年、部を率いて帰附し崇と心を同じくして左右を守り、天部大人を拝し東蕃に居した。子の莫提は中原平定に従い相州刺史・假陵陽侯となり、子孫も顕達した。