北史卷三 孝文帝
献文帝の太子で北魏第六代皇帝、孝文帝(諱は宏、467–499年)。当初は祖母の文明太后が摂政し、親政後は三長制・均田制・俸禄制などの制度改革を進め、姓を元氏に改めて洛陽へ遷都、漢化政策を強力に推進した。読書を好み文才にも富み、南朝斉への南伐中に三十三歳で崩御した。
年表(10件)
- 皇興元年467年八月、平城の紫宮に生まれる
- 皇興五年471年禅譲を受けて即位
- 太和五年481年方山に永固石室を建て太皇太后の終制を金冊に銘記
- 太和十年486年三長制を初めて立て戸籍を定める
- 太和十四年490年九月、太皇太后馮氏が崩じる
- 太和十七年493年洛陽への遷都を計画し始める(南伐を名目とした行軍中に)
- 太和十八年494年姓を元氏に改める詔(実際の発令は二十年)、六宮及び文武百官が洛陽に遷る
- 太和十九年495年四月、洛陽の魯城で孔子廟を自ら祀る
- 太和二十年496年正月、姓を元氏に改める詔を下す
- 太和二十三年499年三月、南伐中に馬圈を破るが病重くなり、四月丙午朔、谷塘原の行宮で崩御(三十三歳)
出自と生い立ち
- 諱は宏。獻文皇帝の太子。母は李夫人。皇興元年(467年)八月戊申、平城の紫宮に生まれた。生まれる際、神光が室を照らし、天地に瑞気が満ちたという。色白く容姿にすぐれ、幼くして聡明の相があり、成長すると寛仁孝順、人君の器量を備えていた。獻文帝はとりわけこれを愛した。皇興三年(469年)六月辛未、皇太子に立てられた。皇興五年(471年)、禅譲を受けて即位した。
延興元年(472年)
- 八月丙午、太華前殿で即位し、皇興五年を延興元年と改元した。丁未、宋が使者を送って通好した。九月壬戌、在朝の官と庶人に直言を求める詔を下した。壬午、青州高陽の封辨が党を集めて齊王を自称したが、州軍がこれを討平した。冬十月丁亥、沃野・統萬の二鎮の敕勒が反乱を起こしたため、太尉・隴西王源賀に追討させ枹罕まで至って滅ぼし、残党を冀・定・相の三州に移して民籍に編入した。十二月乙酉、駙馬都尉の穆亮を趙郡王に封じた。壬辰、舜の後裔を求めさせ、東萊の媯茍之を得て、その家の賦役を永久に免じ、盛徳の不朽を彰した。前濮陽王孔雀の旧封を回復した。辛丑、趙郡王穆亮を長樂王に改封した。癸卯、日食があった。
延興二年(473年)
- 春正月、大陽の蠻酋桓誕が部族を率いて内属し、征南將軍に任じられ襄陽王に封じられた。京師及び河西から秦・涇、西は枹罕、北は涼州・諸鎮に至るまで曲赦を行った。員外散騎常侍邢佑を宋に派遣した。二月丁巳、孔子廟の祭祀に関する詔を下し、婦女が雑じって淫祀を行うことを禁じた。蠕蠕が塞を犯したため、太上皇帝は北郊に出陣し諸将に討伐を命じたが、敵はことごとく逃走した。北部の敕勒が叛いて蠕蠕へ奔ったため、太上皇帝は石磧まで追撃したが及ばず引き返した。三月戊辰、散騎常侍・駙馬都尉の萬安國を大司馬・大將軍とし安城王に封じた。庚午、親耕籍田の礼を行った。連川の敕勒の謀反を防ぐため、青・徐・齊・兗の四州に移して営戸とした。夏四月庚子、工商・雑技の民にも農耕への従事を許す詔を下した。諸州に菜果の栽培を奨励した。辛亥、宋の使者が来聘した。癸酉、沙門が寺を離れることを禁じ、外出には公文を要するとした。この月、宋の明帝が崩じた。五月丁巳、軍中の警急には璽印と伝符を給する詔を下した。六月、安州が水害・雹害に遭い、租税を免じ振恤した。丙申、貢挙の乱れを正す詔を下した。戊午、陰山に行幸した。秋七月壬寅、州郡県に対応能力のある者二人を選び、九月の講武に参加させ帝自ら風俗を問う詔を下した。八月、百済が使者を送り高麗討伐の援兵を求めた。九月辛巳、車駕は宮に還った。戊申、統萬鎮將・河間王閭武皮が貪残の罪により死を賜った。己酉、州鎮十一箇所の水旱に対し田租を免じ倉を開いて振恤する詔を下した。また流民には本籍への帰還を命じ、従わぬ者は辺境に徙すとした。冬十月、蠕蠕が塞を犯し五原に至った。十一月、太上皇帝が自ら討伐に赴き漠を渡ろうとしたところ、蠕蠕はこれを聞いて北へ数千里逃げた。丁亥、皇叔の元略を廣川王に封じた。壬辰、使者を分遣して風俗を巡省させ、民の疾苦を問わせた。帝は毎月一度崇光宮に朝した。十二月庚戌、地方官の頻繁な交代の弊害を戒め、温良仁儉で克己奉公の牧守は任を長く続けさせ、成績があれば昇進、貪残の者は在任間もなくとも黜罰するとの詔を下し、これを令に明記した。代郡の事情を豊沛に準じ、先に辺戍に配された代人を免じる詔を下した。この年、高麗・地豆于・庫莫奚・高昌などの国々が使者を送り朝貢した。
延興三年(474年)
- 春正月庚辰、員外散騎常侍崔演を宋に派遣した。丁亥、崇光宮を寧光宮と改称した。二月戊午、太上皇帝が北討から帰還し、宗廟に戦功を報告した。甲戌、県令で一県の劫盗を鎮めた者は二県を兼理して禄を得、三県を鎮めた者は三年で郡守に昇進、二千石(郡太守)で二郡・三郡を鎮めた者も同様に三年で刺史に昇進させる詔を下した。三月壬午、諸倉に穀麦が充満する所では貧民に放出させた。夏四月戊申、假司空・上黨王長孫観らに吐谷渾の拾寅を討たせる詔を下した。壬子、孔子の二十八世孫、魯郡の孔乘を崇聖大夫とし、十戸を給して灑掃に供させた。六月甲子、前年の県での秀才選抜で賞された者は少なく罪せられた者が多かったことを憐れみ、告発された者の罪を特に赦す詔を下した。秋七月、河南六州の民に戸ごとに絹一匹・綿一斤・租三十石を課す詔を下した。丁亥、陰山に行幸した。八月庚申、帝は太上皇帝に従い河西に行幸した。拾寅が謝罪して降伏を請い、許された。九月辛巳、車駕は還宮した。丁亥、宋の使者が来聘した。己亥、囚人が獄中で死し近親のない者には衣衾棺櫝を給して埋葬させ、遺体を野ざらしにさせない詔を下した。辛丑、十人の使者を派遣し州郡を巡って戸口を検括させた。冬十月、太上皇帝が南討を計画し、州郡の民十丁につき一人を徴発、戸ごとに租五十石を軍糧に充てる詔を下した。十一月戊寅、河南の州郡の牧守に法を守らぬ者が多く新附の民の訴えが上聞しない状況を正すため、使者を派遣し風俗を観察させ黜陟・振恤させる詔を下した。癸巳、太上皇帝が南巡して懐州に至り、経過地で民の疾苦を問い高齢者・孝悌力田の者に布帛を賜った。十二月癸卯朔、日食があった。庚戌、関外の苑囿での樵採を民に許す詔を下した。この年、高麗・契丹・庫莫奚・悉萬斤などの国々が朝貢し、州鎮十一箇所の水旱に田租を免じ倉を開いて振恤した。相州で餓死者二千八百四十五人を数えた。妖人劉挙が天子を自称し、齊州刺史・武昌王平原がこれを捕らえて斬った。
延興四年(475年)
- 春正月癸酉朔、日食があった。丁丑、太尉・隴西王源賀が病により辞位した。二月甲辰、太上皇帝が南巡から帰還した。辛未、寒食を禁じた。三月丁亥、員外散騎常侍許赤武を宋に派遣した。夏四月丁卯、謀反大逆以外は本人のみを罰し連坐させない旨の詔を下した。秋七月己卯、仇池を曲赦した。八月戊申、北郊で大閲兵を行った。九月、宋の内乱に乗じ、将軍元蘭らに蜀漢を討たせた。冬十月庚子、宋の使者が来聘した。十一月、侍臣を分遣し河南七州を巡らせ、風俗を観察し帰順した民を撫慰させた。この年、粟特・敕勒・吐谷渾・高麗・曹利・闊悉・契丹・庫莫奚・地豆于などの国々が朝貢し、州鎮十三箇所の大飢饉に田租を免じ倉を開いて振恤した。
延興五年(476年)
- 春二月癸丑、考課を定め黜陟を明らかにする詔を下した。夏四月、鷹鷂の飼育を禁じ、相告発の制を開いた。五月丙午、員外散騎常侍許赤武を宋に派遣した。丁未、武州山に行幸した。辛酉、車輪山に行幸した。六月庚午、牛馬の屠殺を禁じた。壬申、京師の死罪を曲赦し蠕蠕への備えに徴発した。秋九月癸卯、洛州の賈伯奴が恒農王を、豫州の田智度が上洛王を自称したが、郡がこれを討平した。冬十月、太上皇帝が北郊で大閲兵を行った。十二月丙寅、建昌王長樂を安樂王に改封した。己丑、城陽王長壽が薨じた。庚寅、宋の使者が来聘した。この年、高麗・吐谷渾・龜茲・契丹・庫莫奚・地豆于・蠕蠕などの国々が朝貢した。
承明元年(476年)
- 春二月、司空・東郡王陸定國が事に坐して官爵を免じられ兵に落とされた。夏五月、冀州の宋伏龍が党を集め南平王を自称したが、郡県がこれを捕らえ斬った。六月甲子、京師内外に戒厳の詔を下した。京師の兵を三等に分け、第一軍が出れば第一兵を派遣する制とした。辛未、太上皇帝(獻文帝)が崩じた。壬申、大赦・改元した。大司馬・大將軍・安城王萬安國が法に坐して死を賜った。戊寅、征西大將軍・安樂王長樂を太尉、尚書左僕射・南平公目辰を司徒とし宜都王に進封、南部尚書李訢を司空とした。皇太后(馮氏)を尊んで太皇太后とし、臨朝称制させた。秋七月甲辰、皇妣李貴人を思皇后と追尊した。濮陽王孔雀が罪により死を賜った。八月甲子、群公卿士に国益に資する意見があれば具状して上奏させる詔を下した。甲戌、長安で蚕が多く死んだため、その年の賦の半分を免じた。九月丁亥、京師を曲赦した。冬十月丁巳、七寶永安行殿を起工した。乙丑、假東陽王丕の爵位を王に進めた。己未、群官卿士から吏人に至るまで上書し直言極諫することを許す詔を下した。国政の益となる意見は有司から上奏させた。辛未、建明佛寺に行幸し罪人を大いに赦した。濟南公羅拔を王に進封した。この年、蠕蠕・高麗・庫莫奚・波斯・契丹・宕昌・悉萬斤などの国々が朝貢した。
太和元年(477年)
- 春正月乙酉、太和と改元した。辛亥、太和殿・安昌殿の二殿を起工した。己酉、秦州略陽の王元壽が党を集め冲天王を自称した。雲中で飢饉が起き倉を開いて振恤した。二月辛未、秦益二州刺史・武都公尉洛侯が王元壽を討破した。三月庚子、雍州刺史・東陽王丕を司徒とした。丙午、牛疫による死傷を踏まえ、農耕に努めるよう督励する詔を下した(一夫の田を四十畝、中男は二十畝と定めた)。夏四月、樂安王良が薨じた。前東郡王陸定國の官爵を回復した。五月、武州山で雨乞いをして雨が大いに降った。秋七月壬辰、京兆王子推が薨じた。庚子、死刑を三等に定めた。己酉、朱明門・思賢門を起工した。この月、宋人がその主昱を殺した。八月壬子、大赦した。丙子、工商・皂隸が清流に混じることを禁じる詔を下した。戊寅、宋の使者が来聘した。九月乙酉、群臣に太華殿で律令を制定させた。庚子、北苑に永樂遊觀殿を起こし神泉池を穿った。冬十月辛亥朔、日食があった。癸酉、太華殿で京邑の七十歳以上の耆老をもてなし衣服を賜った。七十歳以上の者は一子の徭役を免じる詔を下した。宋の葭蘆戍主楊文度の弟楊鼠が仇池を襲い陥落させた。十一月丁亥、懷州の伊祁茍が堯の後裔・応王を自称し重山で党を集めたが、洛州刺史馮熙がこれを討平した。閏月庚午、員外散騎常侍李長仁を宋に派遣した。十二月壬寅、征西將軍皮喜が葭蘆を攻陥し楊文度を斬り首を京師に送った。丁未、水旱・蝗害を受けた州郡八箇所で倉を開いて振恤した。この年、高麗・契丹・庫莫奚・蠕蠕・車多羅・西天竺・舍衛・疊伏羅・栗楊婆・員闊などの国々が朝貢した。
太和二年(478年)
- 春正月丁巳、昌黎王馮熙の第二子始興を北平王に封じた。二月丁亥、代の湯泉に行幸し、経過地で民の疾苦を問い、宮女を貧しい独身男性に賜った。癸卯、車駕は還宮した。乙酉晦、日食があった。三月丙子、河南公梁彌機を宕昌王とした。夏四月己丑、宋の使者が来聘した。京師が旱魃となった。甲辰、北苑で天災の除去を祈り、自ら儀礼を執り行い、膳を減らし正殿を避けた。丙午、雨が大いに降り、京師を曲赦した。五月、婚姻・葬儀の風紀が乱れ、氏族の上下を問わず異類との婚姻が行われている現状を戒め、先帝の科禁の遵守を命じる詔を下した。六月庚子、皇叔若が薨じた。秋八月、使者を分遣し守宰を考察させ民の疾苦を問わせた。丙戌、諸州からの禽獣の貢納を廃止する詔を下した。九月己巳朔、日食があった。丙辰、京師を曲赦した。冬十月壬辰、員外散騎常侍鄭発を宋に派遣した。十二月癸巳、南郡王李惠を誅した。この年、龜茲国が名駝・龍馬・珍宝を多数献上した。吐谷渾・蠕蠕・勿吉などの国々が朝貢し、州鎮二十余箇所の水旱に倉を開いて振恤した。
太和三年(479年)
- 春正月癸丑、坤德六合殿が完成した。庚申、行察官を廃止する詔を下した。二月辛巳、帝と太皇太后が代郡の湯泉に行幸し、民の疾苦を問うた。鰥寡貧者には宮女を妻に与えた。己亥、還宮した。三月癸卯朔、日食があった。甲辰、京師を曲赦した。夏四月壬申、宋の使者が来聘した。癸未、樂良王樂平が薨じた。甲午、宋の順帝が齊に禅位した。庚子、淮陽公尉元を王に進封した。宜都王目辰が罪により死を賜った。五月丁巳、帝は北苑で雨乞いをし、陽門を閉じたところ、その日のうちに雨が大いに降った。六月辛未、雍州の飢饉に倉を開いて振恤した。方山に文石室靈泉殿を起工した。秋七月壬寅、老病の宮人を放免する詔を下した。八月壬申、群臣に直言を求める詔を下した。乙亥、方山に行幸し思遠佛寺を起工した。丁丑、還宮した。九月壬子、司徒・東陽王丕を太尉、趙郡公陳建を司徒に進めて魏郡王とし、河南公茍頹を司空に進めて河東王とした。太原公王睿を中山王、隴東公張佑を新平王に進封した。乙未、定州刺史・安樂王長樂が罪により死を賜った。庚申、隴西王源賀が薨じた。冬十月己巳朔、大赦した。十一月癸卯、京師の貧窮高齢・疾患で自活できぬ者に衣服布帛を差等をつけて賜った。癸丑、假梁郡公元嘉を假王に進め二將を督して淮陰へ出させ、隴西公元琛は三將を率いて廣陵へ、河東公薛豹子は三將を率いて廣固から壽春に至らせた。この年、吐谷渾・高麗・蠕蠕・地豆于・契丹・庫莫奚・龜茲・粟特・州逸・河龔・疊伏羅・員闊・悉萬斤などの国々が朝貢した。
太和四年(480年)
- 春正月癸卯、乾象六合殿が完成した。乙卯、廣川王略が薨じた。丁巳、鷹鷂を飼う施設を廃し、その地を報德佛寺とした。戊午、襄城王韓頹が罪により削爵の上、辺境に徙された。二月癸巳、旱魃のため天下に山川群神と雲雨を興す神への祭祀を命じ、祠堂を修飾し牲璧を供えさせた。疾苦のある者は所在の官に問わせた。夏四月乙卯、廷尉・籍坊の二獄に行幸し囚人を引見、罪の軽重により決遣し耕耘に赴かせた。甲申、財谷帛のない貧民一戸につき一年分の廩を賜った。六月丁卯、雨が大いに降り、京師を曲赦した。秋七月辛亥、火山に行幸した。壬子、京師の耆老を集め錦彩・衣服・几杖・稲米・蜜面を賜り、その家の徭役を免じた。閏月丁亥、獣圏に行幸し自ら囚徒を録し、軽罪の者は皆免じた。壬辰、頓丘王李鍾葵が罪により死を賜った。八月乙酉、諸州に冰室を置く詔を下した。九月乙亥、思義殿が完成した。壬午、東明観が完成した。戊子、厳寒の中、廷尉獄・囚所に侍臣を遣わし、飢寒の者には衣食を給し、桎梏の者には軽い鎖に替える詔を下した。この年、郡鎮十八箇所の水旱に倉を開いて振恤した。蠕蠕・悉萬斤などの国々が朝貢した。
太和五年(481年)
- 春正月乙卯、南巡した。丁亥、中山に至り、高齢者に会い民の疾苦を問うた。二月辛卯朔、大赦した。孝悌力田で孤貧自活できぬ者に谷帛を差等をつけて賜り、老いた宮人を放免して親元に帰した。丁酉、信都に至り、中山と同様に慰問した。癸卯、中山に還った。己酉、唐水の陽で講武を行った。庚戌、車駕は還宮した。沙門法秀が謀反を企て誅殺された。假梁郡王嘉が齊軍を大破し、三萬余人を捕らえ京師に送った。三月辛酉朔、肆州に行幸した。癸亥、雲水の陽で講武を行った。経過地の守宰を考察し黜陟した。己巳、車駕は還宮した。法秀の妖言による謀反に関与した蘭臺御史張求ら百余人の処分について、五族連坐の刑を三族・一門・本人のみに減じる詔を下した。夏四月己亥、方山に行幸し、永固石室を建て碑を立てた。太皇太后の終制を金冊に銘記した。また鑒玄殿を起こした。甲寅、旱魃のため骸骨を掩い神祗に祈る詔を下した。任城王雲が薨じた。五月庚申、農繁期のため訴訟を滞らせないよう詔を下した。六月甲辰、中山王睿が薨じた。戊午、皇叔簡を齊郡王、猛を安豐王に封じた。秋七月庚申朔、日食があった。甲子、齊の使者が来聘した。九月庚午、南郊で閲武し群臣を大いに饗した。齊の使者車僧朗が宋の使者殷靈誕より下座に置かれたことを恨んで着席を拒み、宋の降人解奉君が席上で僧朗を刺した。奉君らを誅する詔を下した。乙亥、昌黎王馮熙の世子誕を南平王に封じた。冬十二月癸巳、州鎮十二箇所の飢饉に倉を開いて振恤した。この年、鄧至・蠕蠕などの国々が朝貢した。
太和六年(482年)
- 春正月甲戌、大赦した。二月辛卯、靈丘郡の土地が痩せて狭い上、諸州の要衝であることから、その民の租を十五年免じる詔を下した。癸巳、白蘭王吐谷渾翼世が誣告により誅殺された。乙未、蕭道成(齊)が江淮で叛乱を起こしたため軍を動かした七州の民の労苦を思い常調を三年免じる詔を下した。癸丑、清廉勤勉で名高い王公以下に谷帛を差等をつけて賜った。三月庚辰、獣圏に行幸した。武狼(狼)の残虐さを理由に以後の捕獲献上を禁じる詔を下した。辛巳、武州山石窟寺に行幸し貧しい老人に衣服を賜った。この月、齊の高帝が崩じた。夏四月甲辰、畿内の鰥寡孤独で自活できぬ者に粟帛を差等をつけて賜った。秋七月、州郡から五萬人を徴発し靈丘道を修めた。八月癸未朔、大使を分遣し天下の水害地を巡らせ、租賦を免じ困窮者に粟帛を賜った。庚子、山沢の禁を解いた。九月辛酉、氐の楊後起を武都王とした。この年、地豆于・吐谷渾などの国々が朝貢した。
太和七年(483年)
- 春正月庚申、州郡使者への守宰苛虐の報告を求めたにもかかわらず秀才・計掾の報告の多くが事実に反していたことを戒め、寛大な処置に留める詔を下した。丁卯、青・齊・光・東徐の四州の戸に倉粟十萬石を瑕丘・瑯邪へ運ばせ、租算を一年免じた。三月甲戌、冀・定二州の飢饉に対し郡県に路傍で粥を炊いて施させ、関津の禁を緩めた。夏四月庚子、崞山に行幸し経過地の鰥寡で自活できぬ者に衣服・粟帛を賜った。壬寅、車駕は還宮した。閏月癸丑、皇子(恂)が生まれ、大赦した。六月、定州が粥で九十四萬七千余口を救ったと上言した。秋七月甲申、假員外散騎常侍李彪を齊に派遣した。濟南王羅拔を趙郡王に改封した。九月壬寅、直言を求める詔を下した。冀州が粥で七十五萬一千七百余口を救ったと上言した。冬十月戊午、皇信堂が完成した。十一月辛丑、齊の使者が来聘した。十二月乙巳朔、日食があった。癸丑、同姓婚を禁じ違反者を不道の罪とする詔を下した。庚午、林慮山の禁を解き民と共有した。州鎮十三箇所の飢饉に倉を開いて振恤した。
太和八年(484年)
- 春正月、隴西公琛・尚書陸睿を東西二道大使とし善を褒め悪を罰させた。夏五月己卯、河南七州の戍兵に振給する詔を下した。甲申、員外散騎常侍李彪を齊に派遣した。六月丁卯、班禄の制を復活させる詔を下した。戸ごとの調を絹三匹・谷二斛九斗増やしこれを官司の禄に充て、均一調は二匹の賦とし商用も兼ねさせた。禄支給後は贓一匹以上で死罪とし、大赦して新制を天下に布いた。戊辰、武州で水害があり民家が壊れた。秋八月甲辰、俸禄制の実施と刑罰強化について、百官・士民に意見を求める詔を下した。九月甲午、齊の使者が来聘した。戊戌、俸禄制を十月から始め四半期ごとに支給する詔を下し、内外百官が禄を受けるようになった。冬十一月乙未、員外散騎常侍李彪を齊に派遣した。十二月、州鎮十五箇所の水旱・飢饉に使者を派遣し倉を開いて振恤した。この年、蠕蠕・高麗などの国々が朝貢した。
太和九年(485年)
- 春正月戊寅、図讖秘緯及び『孔子閉房記』の所持を禁じ、違反者は死罪とした。巫覡が神鬼を騙り吉凶を説くこと、典籍に基づかぬ怪しい書物も厳禁した。癸未、太華殿で群臣を大いに饗し皇誥を頒賜した。二月己亥、皇子・皇孫・皇曾孫として封王・紹封される者、皇女として封じられる者の歳禄を定めた。廣陽王建の第二子嘉を廣陽王に封じた。乙巳、百官・士民に極諫の上書を求める詔を下した。三月丙申、皇弟の禧を咸陽王、幹を河南王、羽を廣陵王、雍を潁川王、勰を始平王、詳を北海王に封じた。夏五月、齊の使者が来聘した。秋七月丙午朔、諸門を新造した。癸未、宕昌王梁彌機の兄子彌承を宕昌王に任じる使者を派遣した。八月庚申、数州の水害と飢饉により男女を売る者が出た事態を憂い、太和六年以降に定・冀・幽・相の四州で飢民の良民を買った者は皆その親族へ返還させ、妻妾とした場合でも本人が望まなければ離縁を許す詔を下した。冬十月丁未、使者を州郡に巡らせ牧守と共に天下の田を均給し、還受は生死をもって断ずる詔を下した。農桑を勧め民を富ませることを国の本とした。辛酉、司徒・魏郡王陳建が薨じた。員外散騎常侍李彪を齊に派遣した。十二月乙卯、侍中・淮南王他を司徒とした。この年、京師と州鎮十三箇所が水旱の被害を受けた。宕昌・高麗・吐谷渾などの国々が朝貢した。
太和十年(486年)
- 春正月癸亥朔、帝は初めて袞冕を服し万国の朝賀を受けた。二月甲戌、党・里・鄰の三長制を初めて立て戸籍を定めた。三月庚戌、齊の使者が来聘した。夏四月辛酉朔、五等公服の制を初めて定めた。甲子、帝は初めて法服を身につけ輦に乗って西郊で祭祀を行った。六月乙卯、皇子に恂と名付け、大赦した。秋八月乙亥、五等品爵以上の尚書に朱衣・玉佩・大小組綬を給した。九月辛卯、明堂・辟雍の造営を命じる詔を下した。冬十月癸酉、有司の議により先例に従い始祖を南郊に配祀することとした。十一月、州郡県の官に戸口数に応じた俸給を与えることを議定した。十二月乙酉、汝南・潁川の飢饉に田租を免じ倉を開いて振恤した。この年、蠕蠕・高麗・吐谷渾・勿吉などの国々が朝貢した。
太和十一年(487年)
- 春正月丁亥朔、雅ならざる楽章を除く詔を下した。二月甲子、肆州の雁門・代郡の飢饉に倉を開いて振恤した。夏五月癸巳、南平王渾が薨じた。甲午、七廟の子孫及び外戚(緦服以上)の賦役を免じる詔を下した。六月辛巳、秦州の飢饉に倉を開いて振恤した。秋七月己丑、今年の穀物の不作を受け、民が関を出て食を求めることを許し、使者を派遣して戸籍を作り、留まる者・去る者を分けて所在で倉を開いて振恤する詔を下した。八月壬申、蠕蠕が塞を犯し、平原王陸睿にこれを討たせた。庚辰、北伐を大いに議した。辛巳、山北苑を廃し、その地を貧民に賜った。冬十月辛未、無益な起部の造作を廃し、機を織らぬ宮人を出す詔を下した。甲戌、郷飲の礼が廃れ長幼の秩序が乱れていることを憂い、農閑期の孟冬十月に、党・里ごとに賢者・長者を推挙して父慈・子孝・兄友・弟順・夫和・妻柔の徳義を教えさせ、従わぬ者は名を報告させる詔を下した。十一月丁未、尚方の錦繡綾羅の工を廃し、民が自ら造ることを禁じない詔を下した。御府の衣服・金銀珠玉・綾紬錦、太官の雑器、太僕の乗具、内庫の弓矢の大半を放出し、百官及び京師の人庶、工商皂隸、六鎮の戍士に至るまで差等をつけて頒賜した。戊申、寒気の厳しい時期の拷問を来年孟夏まで禁じ、飢饉の年でもあり軽罪の囚人は速やかに決するよう命じる詔を下した。十二月、秘書丞李彪・著作郎崔光に国記を紀伝体に改編させる詔を下した。この年、大飢饉が起き倉を開いて振恤した。吐谷渾・高麗・悉萬斤などの国々が朝貢した。
太和十二年(488年)
- 春正月辛巳朔、五牛旌旗の制を初めて立てた。乙未、鎮戍に流された者のうち七十歳以上で子孫なく近親もない孤独な者について状を報告させる詔を下した。二月辛亥朔、日食があった。三月丁亥、中散梁眾保らの謀反が発覚し誅殺された。夏四月甲子、大赦した。己巳、齊將陳顯達が灃陽を攻陥したため、長樂王穆亮が騎兵を率いて討伐した。五月丁酉、六鎮・雲中・河西及び関内の郡に水田を開き渠を通して灌漑させる詔を下した。壬寅、太廟の彜器を増置した。秋九月甲午、日食は徳を修め月食は刑を修める古の教えに従い、公卿以下に刑罰を慎むよう命じる詔を下した。丁酉、宣文堂・經武殿を起工した。癸卯、淮南王他が薨じた。冬閏十月甲子、帝は南郊の圓丘の築造を観た。十一月、雍・豫二州の飢饉に倉を開いて振恤した。梁州刺史・臨淮王提が貪縦の罪により北鎮に配された。この年、高麗・宕昌・吐谷渾・勿吉・武興などの国々が朝貢した。
太和十三年(489年)
- 春正月辛亥、圓丘で祭祀を行い、初めて大駕を備えた。乙丑、兗州の王伯恭が労山で党を集め齊王を自称したが、東萊鎮將孔伯孫がこれを討ち斬った。戊辰、齊が辺境を侵したが、淮南太守王僧俊がこれを撃退した。二月庚子、群臣を集め政道の得失について諮問した。三月、夏州刺史章武王彬が貪財により削封された。夏四月丁丑、楼から物を撒いて民に賜る儀式で人馬が踏み合い多くの死傷者が出たことを受け、これを廃止し、費用を窮老貧独の者に賜る詔を下した。州鎮十五箇所の大飢饉に倉を開いて振恤した。五月庚戌、方澤で祭祀を行った。六月、汝陰王天賜・南安王楨が共に賄賂の罪により庶人とされた。秋七月、京師に孔子廟を建てた。八月乙亥、員外散騎常侍邢産を齊に派遣した。九月、宮人を出して北鎮の貧しい独身者に賜った。冬十一月己未、安豐王猛が薨じた。十二月丙子、司空・河東王茍頹が薨じた。甲午、齊の使者が来聘した。己亥、尚書令尉元を司徒、左僕射穆亮を司空とした。この年、高麗・吐谷渾・陰平・中赤・武興・宕昌などの国々が朝貢した。
太和十四年(490年)
- 春正月己巳朔、日食があった。三月戊寅、起居注の制を初めて定めた。侍臣を州郡に巡らせ民の疾苦を問わせる詔を下した。夏四月、地豆于が頻繁に塞を犯した。甲戌、征西大將軍・陽平王熙がこれを撃退した。甲午、員外散騎常侍邢産を齊に派遣した。五月己酉、庫莫奚が塞を犯し、安州都將樓龍兒がこれを撃退した。沙門司馬禦惠が聖王を自称し平原郡を破ろうと謀ったが捕えられ誅殺された。秋七月甲辰、都牧の雑制を廃止する詔を下した。八月、国の五行(王朝の徳運)の行次について議論させた。九月癸丑、太皇太后馮氏が崩じた。籓鎮に勤め内侍の経験がある者は前後して奔喪することを許す詔を下した。冬十月戊辰、帝が輿に近侍し陵の隧道で訣別の礼を行うにあたり、常従の儀仗は停止させ武衛の官だけが法の通り護衛する詔を下した。癸酉、文明太皇太后を永固陵に葬った。甲戌、車駕は永固陵に詣でた。群臣が固く喪の除去を請うたが帝は許さなかった。己卯、車駕は永固陵に詣でた。庚辰、帝は廬に居り、太和殿で群僚を引見した。太尉・東陽王丕らが権制(簡略化された服喪の制)を固く請うたが、帝は古礼を引いて反論し、群臣はついに止めた。京兆王太興が罪により官を免じられ爵を削られた。帝は三年の喪を貫きたいとしつつも、公卿の請いに従い虞卒哭の後、以葛易麻(麻を葛に替える)の礼に授服する日を定め、位に応じて服喪の期間を減じる旨の詔を重ねて下した。甲申、車駕は永固陵に詣でた。十一月甲寅、冬至の日には内外の職人・諸方の賓客も臨席を許し、三品以下の喪服者は夕方にも復び臨席させる詔を下した。丁巳、齊の使者が来聘した。十二月壬午、丘井の制に基づき使者を州郡に派遣し条制を布かせ、隠された戸口・脱漏した丁を実数に付け加えさせ、豪勢に付き従い孤独な者を圧迫する者は常刑に処す詔を下した。この年、吐谷渾・宕昌・武興・陰平・高麗などの国々が朝貢した。
太和十五年(491年)
- 春正月丁巳、帝は皇信東室で初めて政務を聴いた。左右の史官を初めて分置した。癸亥晦、日食があった。二月己丑、齊の使者が来聘した。三月甲辰、車駕は永固陵に詣でた。夏四月癸亥、帝は初めて蔬食を始めた。乙丑、永固陵に詣でた。正月から雨が降らず癸酉に至り、有司が百神への祈願を上奏したが、帝は「四季もまだ一巡していないのに祭祀の礼を行うべきでない、まず自省して天譴を待つべきだ」と詔した。甲戌、員外散騎常侍李彪を齊に派遣した。己卯、明堂の造営と太廟の改築を始めた。五月己亥、律令の改定を議し、東明観で疑獄を裁決した。乙卯、枹罕鎮將長孫百年が吐谷渾の設けた洮陽・泥和の二戍を攻略し、三萬余人を捕虜としたが、詔してすべて放免した。丙辰、五輅を造る詔を下した。六月丁未、濟陰王郁が貪残の罪により死を賜った。秋七月乙丑、永固陵に詣でた。寿陵の造営を規画した。己卯、祖宗の号を議し、道武皇帝を太祖とする詔を下した。乙酉、車駕は京邑を巡省し訴訟を聴いて還った。八月壬辰、養老の礼を議した。また肆類上帝・禋祀六宗の礼を議し、帝自ら臨んで決した。郡国が時の物産で宗廟に薦められるものを貢ぐ詔を下した。戊戌、道壇を桑乾の陰に移し崇虛寺と改称した。己亥、諸州の秀才推挙は才学を優先させる詔を下した。乙巳、禘祫の礼を自ら定めた。丁巳、律令を議し雑祀を省いた。九月辛巳、齊の使者が来聘した。冬十月庚寅、車駕は永固陵に詣でた。この月、明堂・太廟が完成した。十一月丁卯、七廟の神主を新廟に遷した。乙亥、官品を大いに定めた。戊寅、諸牧守を考察した。假通直散騎常侍李彪を齊に派遣した。丙戌、小歳の賀を初めて廃した。丁亥、二千石で上上の考課を得た者には四品將軍を仮授し乗黃馬一匹を賜り、上中は五品將軍、上下は衣一襲を賜る詔を下した。十二月壬辰、社を内城の西に遷した。癸巳、刺史以下に衣冠を差等をつけて賜った。安定王休を太傅、齊郡王簡を太保とした。高麗王璉のために城東の行宮で哀を挙げた。己酉、車駕は東郊で春を迎えた。辛卯、楽官を選ぶ詔を下した。この年、吐谷渾・悉萬斤・高麗・鄧至・宕昌などの国々が朝貢した。
太和十六年(492年)
- 春正月戊午朔、太華殿で群臣を大いに饗した。帝は王公のために県楽を興したが自らは楽しまなかった。己未、明堂で顯祖獻文皇帝を宗祀し上帝に配した。台に登り雲物を観、青陽の左個に降りて政事を布いた。以後、毎朔これを常とした。辛酉、初めて太祖を南郊に配した。壬戌、五行の行次を定め、水徳が金徳を承けるとした。甲子、袒裸を廃止する詔を下した。乙丑、太祖の子孫及び異姓の王でない者はすべて公に降し、公は侯、侯は伯に降す等の制を定め、将軍号も除いた。戊辰、思義殿で秀才・孝廉を策問した。丙子、孟月に廟祭を行うことを始めた。二月戊子、帝は永樂宮に移った。庚寅、太華殿を壊し太極殿の造営を始めた。辛卯、寒食の祭祀を廃した。壬辰、北部曹に行幸し諸省を歴観した。京邑を巡省し冤罪の訴えを聴いた。甲午、車駕は初めて東郊で朝日の礼を行い、以後これを常とした。丁酉、平陽で唐堯を、廣寧で虞舜を、安邑で夏禹を、洛陽で周文王を祀る詔を下した。丁未、宣尼(孔子)の謚を文聖尼父と改め孔廟に告げた。三月丁卯、京邑を巡省した。癸酉、西郊での郊天の雑事を省いた。乙亥、車駕は初めて南郊で迎気の礼を行い、以後常とした。辛巳、高麗王璉の孫雲をその国王とした。齊の使者が来聘した。夏四月丁亥朔、新しい律令を頒布し大赦した。甲寅、皇宗学に行幸し博士に経義を問うた。五月癸未、皇信堂で群臣に律条・流徒の限度を改定させ、帝自ら臨んで決した。秋七月壬戌、以後の選挙は毎季末に本曹と吏部が共に選考する詔を下した。甲戌、員外散騎常侍宋弁を齊に派遣した。八月庚寅、車駕は初めて西郊で夕月の礼を行い、以後常とした。乙未、陽平王頤・左僕射陸睿に十二將を督させ蠕蠕を北討させる詔を下した。丙午、宕昌王梁彌承が来朝した。司徒尉元が老齢を理由に辞位した。己酉、尉元を三老、遊明根を五更とした。国老・庶老を養い大射の礼を行おうとしたが、雨のため成らなかった。癸丑、講武の式を馬射に先立って行うことを命じる詔を下した。九月甲寅朔、明堂で昭穆を大いに序し、玄堂で文明太皇太后を祀った。辛未、帝は文明太皇太后の再周忌に陵の傍らで哭し、三日間絶食し哭泣を止めなかった。辛巳、武興王楊集始が来朝した。冬十月己亥、太傅・安定王休を大司馬、特進馮誕を司徒とした。甲辰、功臣を太廟に配饗する詔を下した。庚戌、太極殿が完成し群臣を饗した。十一月乙卯、古の六寝の制に依り、権制として三室(安昌殿を内寝、皇信堂を中寝、他を外寝)とした。十二月、京邑の老人に鳩杖を賜った。齊の使者が来聘した。この年、高麗・鄧至・契丹・齒・吐谷渾などの国々が朝貢した。
太和十七年(493年)
- 春正月壬子朔、太極殿で百寮を饗した。乙丑、諸蕃の君長に車・旗・衣・馬・錦彩・繒纊を、多い者で千、少ない者で三百と、爵位に応じて差等をつけて大いに賜る詔を下した。員外散騎常侍邢巒を齊に派遣した。丙子、吐谷渾の伏連籌をその国王とした。庚辰、大司馬安定王休・太保齊郡王簡の朔望の朝礼を免じた。二月乙酉、律令議定の官に差等をつけて賜った。己酉、車駕は初めて都の南で籍田の礼を行った。三月戊辰、後宮を改造した。夏四月戊戌、皇后馮氏を立てた。この月、齊の直閣將軍で蠻酋の田益宗が部落を率いて内属した。五月壬戌、宣文堂で四廟の子孫を宴し、帝は自ら列に加わり家人の礼を行った。甲子、帝は朝堂に臨み公卿以下を引見し疑わしい政事を決し囚徒を録した。丁丑、旱魃のため膳を減らした。襄陽の蠻酋雷婆思らがその部を率いて内徙し、太和川に居住した。六月庚辰朔、日食があった。丙戌、帝は南伐を計画し河橋の造営を命じた。乙未、講武を行った。乙巳、職員令二十一巻を制定し、まだ十分でない部分は軍からの帰還後に検討するとして施行させる詔を下した。皇子恂を皇太子に立てた。秋七月癸丑、皇太子冊立を記念し、父の後を継ぐ者に爵一級(公士)、吏属を務めた者にはさらに一級(上造)を賜り、鰥寡孤独で自活できぬ者に粟五斛を賜る詔を下した。戊午、内外に戒厳を布いた。この月、齊の武帝が崩じた。八月乙酉、三老山陽郡公尉元が薨じた。丙戌、車駕は上帝を祀り、尉元の喪に臨んだ。丁亥、帝は永固陵に別れを告げた。己丑、京師を発して南伐に出、歩騎三十余萬。太尉丕が宮人の従軍を奏請したが、帝は軍中に内事を語るべきでないとして許さなかった。壬寅、車駕は肆州に至った。七十歳以上の者には爵一級を賜り、路傍に見た眇跛には車を停めて自ら問い、衣食を賜り終身その事を免じた。戊申、并州に行幸し高齢者に会い疾苦を問うた。九月壬子、員外散騎常侍高聰を齊に派遣した。丁巳、車駕が通過した地で秋の作物に損害があれば畝ごとに谷五斛を給する詔を下した。戊辰、河を渡った。洛・懐・並・肆の四州の高齢者に爵を賜り鰥寡孤独に差等をつけて賜る詔を下した。孝悌廉義・文武の才ある者は皆名を報告させた。また廝養戸が庶士と婚姻することを禁じたが、文武の才と積んだ功のある者は庶族と同様に扱うことを許した。庚午、洛陽に行幸し旧宮の跡を巡覧した。帝は侍臣に「晋の徳が修まらず、荒廃がここまで至った」と言い、『黍離』の詩を詠み涙を流した。壬申、河橋を観た。太学に行幸し石経を観た。丙子、六軍が出発した。丁丑、帝は戎服を着け馬に鞭打って出たが、群臣が馬前にひれ伏して南伐の停止を請い、帝はこれに応じ、遷都の計画を議し始めた。冬十月戊寅朔、金墉城に行幸した。司空穆亮・尚書李沖・將作大匠董爵に洛陽の造営を命じる詔を下した。己卯、河南城に行幸した。乙酉、豫州に行幸した。癸巳、石濟に至った。乙未、戒厳を解いた。滑臺宮に壇を設けた。京師及び諸州の従軍者に爵一級、応募者は二級、主將は三級を賜る詔を下した。癸卯、鄴城に行幸した。乙巳、安定王休に従官を率い代の家族を迎えさせる詔を下し、車駕は漳水のほとりで見送った。かつて帝が南伐する際、鄴の西に宮殿を起こしていた。十一月癸亥、宮殿が完成し帝はそこに移った。十二月戊寅、六軍を巡省した。乙未、軍士の死亡・疾病を憐れみ優給に努めさせる詔を下した。この年、勿吉・吐谷渾・宕昌・陰平・契丹・庫莫奚・高麗・鄧至などの国々が朝貢した。
太和十八年(494年)
- 春正月丁未朔、鄴宮の澄鸞殿で群臣に朝された。癸亥、南巡した。相・兗・豫三州の高齢者に爵を賜り鰥寡老疾に差等をつけて賜る詔を下した。孝悌廉義・文武の才ある者は皆名を報告させた。戊辰、殷の比幹の墓を経て太牢で祭った。乙亥、洛陽の西宮に行幸した。二月己丑、河陰に行幸し方澤の造営地を規画した。丙申、河南王幹を趙郡王に、潁川王雍を高陽王に改封した。壬寅、北巡した。癸卯、齊の使者が来聘した。甲辰、遷都の意向を天下に諭す詔を下した。閏月癸亥、勾註陘南に至った。皇太子が蒲の地で朝した。壬申、平城宮に至った。癸酉、朝堂に臨み遷留を部分した。甲戌、永固陵に詣でた。三月庚辰、西郊での祭天を廃した。壬辰、帝は太極殿に臨み、代(平城)にいる群臣に遷都の趣旨を諭した。夏五月甲戌朔、日食があった。乙亥、五月五日・七月七日の饗宴を廃する詔を下した。六月己巳、員外散騎常侍盧昶を齊に派遣した。秋七月乙亥、宋王劉昶を大將軍とした。壬辰、北巡した。戊戌、金陵(祖陵)に詣でた。辛丑、朔州に行幸した。この月、齊の蕭鸞がその主昭業を殺した。八月己亥、皇太子が行宮で朝した。甲辰、陰山に行幸し雲川を観た。丁未、閲武臺に行幸し講武を観閲した。懐朔・武川・撫冥・柔玄の四鎮を巡幸した。乙丑、南へ還った。経過地では高齢者に会い民の疾苦を問い、貧窮孤老の者には粟帛を賜った。丙寅、六鎮及び禦夷城の老いた・貧しい・廃疾の者に粟を賜り罪を宥す詔を下した。戊辰、車駕は旋鴻池に至った。庚午、永固陵に詣でた。辛未、平城宮に還った。九月壬申朔、三年ごとの考課で黜陟を明らかにする方針を詔し、各官庁ごとに優劣を三等に分け、五品以上は帝自ら公卿と論じるとした。壬午、帝は朝堂に臨み自ら黜陟を行った。壬辰、陰平王楊炅が来朝した。冬十月甲辰、太尉・東陽王丕を太傅とした。戊申、太廟に告げ神主を迎えた。辛亥、車駕は平城宮を発した。壬戌、中山の唐湖に至った。乙丑、侍臣を分遣し疾苦を問わせた。己巳、信都に行幸した。庚午、辺境の蛮族が竊掠を働き親子離散に至っている事態を憂い、荊・郢・東荊三州に蛮人を戒め侵暴させないよう命じる詔を下した。この月、齊の蕭鸞がその主昭文を殺し自立した。十一月辛未朔、冀・定二州の高齢者に爵を賜り鰥寡老疾に差等をつけて賜る詔を下した。孝義廉貞・文武の才ある者は名を報告させた。丁丑、鄴に行幸した。甲申、比幹の墓を経て自ら弔文を作り碑を建てた。己丑、車駕は洛陽に至った。十二月辛丑朔、諸將を分遣し南征させた。壬寅、衣服の制を改めた。癸卯、内外に戒厳を布いた。戊申、代から遷った民の租賦を三年免じた。己酉、王・公・伯・子・男の開国食邑について、王は半分、公は三分の一、侯・伯は四分の一、子・男は五分の一を食む制を定める詔を下した。辛亥、車駕は南伐した。丁卯、郢・豫二州の高齢者に爵を賜り鰥寡老疾に差等をつけて賜り、沿路の丁の田租を一年免じる詔を下した。孝悌廉貞・文武の才ある者は名を報告させた。戊辰、車駕は懸瓠に至った。己巳、壽陽・鐘離・馬頭の軍で捕らえた男女を南へ放還させる詔を下した。この年、高麗国が朝貢した。
太和十九年(495年)
- 春正月辛未朔、懸瓠で群臣を朝饗した。癸酉、淮北の民への侵掠を禁じ違反者は大辟とする詔を下した。壬午、汝水の西で講武を行い六軍に大いに賜った。平南將軍王肅・左將軍元麗がともに齊軍を大破した。己亥、車駕は淮を渡った。二月甲辰、八公山に行幸した。道中に大雨に遭い、蓋を外す詔を下した。病んだ軍士を見て自ら憐れみ慰めた。戊申、車駕は淮南を巡り、東の民は皆安堵し租運が路に連なった。丙辰、鐘離に行幸した。戊午、軍士が齊人三千を捕らえた。帝は「君主となれば君主であり、その民に何の罪があろうか」と言い放免した。辛酉、鐘離を発し江水に臨もうとした。司徒馮誕が薨じた。壬戌、班師を命じる詔を下した。丁卯、使者を長江に遣わし齊主の罪を数えさせた。三月戊子、太師馮熙が薨じた。夏四月丁未、徐・豫二州を曲赦し、運転(輸送)に従事した士の租を三年免じた。辛亥、高齢者に爵を賜り鰥寡老疾に差等をつけて賜る詔を下した。丘園に徳を著した者は名を報告させた。齊からの降者には十五年の賦役免除を給した。癸丑、小沛に行幸し、太牢で漢の高祖廟を祭らせた。己未、瑕丘に行幸し、太牢で岱嶽(泰山)を祀らせた。宿衛の武官の位を一級進める詔を下した。庚申、魯城に行幸し孔子廟を自ら祀った。辛酉、孔氏四人・顔氏二人を官に任じる詔を下した。兗州刺史に部内の軍国に堪える人材・政績ある守宰の推挙を命じる詔を下した。兗州の民に徐州同様の爵・粟帛を賜る詔を下した。また孔氏の宗子一人を崇聖侯に封じ邑百戸を与え孔子の祀を奉じさせた。兗州に孔子のための園柏を植えさせ、墳墓を修飾し碑銘を新たに建てさせ聖徳を称えさせた。戊辰、碻磝に行幸した。太和廟が完成した。五月己巳、城陽王鸞が赭陽で敗れ定襄縣王に降された。廣川王諧が薨じた。庚午、文成皇后馮氏の神主を太和廟に遷した。甲戌、滑臺に行幸した。丙子、石濟に至った。庚辰、皇太子が平桃城で朝した。癸未、車駕は南伐から還った。甲申、閑官(閑職の官)の禄を軍国の費用に充てた。乙酉、飲至の礼を行い差等をつけて賜った。甲午、皇太子が廟で冠礼を行った。六月己亥、朝廷で北俗の言葉を用いることを禁じ違反者は免官とする詔を下した。辛丑、駕に従い淮を渡った軍士の租賦を三年免じる詔を下した。癸卯、皇太子を平城宮へ赴かせる詔を下した。壬子、濟州・東郡・滎陽及び河南諸県で車駕が通過した地の高齢者に爵を賜り鰥寡老疾に差等をつけて賜る詔を下した。孝悌廉義・文武の才ある者は名を報告させた。癸丑、天下の遺書を求め、秘閣に無く時用に裨益するものには厚賞を加えるとした。乙卯、梁州を曲赦し田租を三年免じた。丙辰、洛陽に遷った民は死後河南に葬り北へ戻ることを禁じ、代から南遷した者は皆河南洛陽人とする詔を下した。戊午、長尺大斗を改め『周禮』の制度に依ることを天下に布く詔を下した。秋八月、西宮に行幸した。壊れた墓の露出した棺を見て輦を止め埋葬させた。乙巳、天下の勇士十五萬人を選び羽林・武賁として宿衛に充てる詔を下した。丁巳、従軍で負傷した兵は本籍への帰還を許す詔を下した。金墉宮が完成した。甲子、群臣を引見し殿堂を歴宴した。九月、六宮及び文武百官がことごとく洛陽に遷った。丙戌、鄴に行幸した。丁亥、旧墓の銘記が現存し人に知られているものについて、三公及び位が公に准じる者は墓から三十歩、尚書令僕・九列は十五歩、黄門・五校は十歩を、いずれも耕作を禁じる詔を下した。壬辰、黄門郎を遣わし太牢で比幹の墓を祭った。乙未、車駕は還宮した。冬十月甲辰、相州を曲赦し高齢者に爵を賜り鰥寡老疾に差等をつけて賜った。丙辰、車駕は鄴から至った。辛酉、州郡に人材の推挙を命じる詔を下した。壬戌、諸州の牧に属官の考課を三等に分けて上奏させ、帝自ら親覧して昇降を定める詔を下した。徐・兗・光・南・青・荊・洛七州に戎備を整え応召に備えさせる詔を下した。十一月、委粟山に行幸した。圓丘の造営を議定した。甲申、圓丘で祀った。丙戌、大赦した。十二月乙未朔、光極堂で群臣を引見し品令を宣下し大選を始めた。辛酉、咸陽王禧を長兼太尉とし、前南安王楨の本爵を回復した。甲子、光極堂で群臣を引見し冠服を賜った。この年、高麗・鄧至・吐谷渾などの国々が朝貢した。
太和二十年(496年)
- 春正月丁卯、姓を元氏に改める詔を下した。壬辰、始平王勰を彭城王に封じ、定襄王鸞を城陽王に復封した。二月辛丑、華林園に行幸し都亭で訴訟を聴いた。壬寅、金革(軍事)の場合を除き三年の喪を全うすることを許す詔を下した。丙午、畿内の七十歳以上の者に暮春京師に来させ養老の礼を行う詔を下した。庚戌、華林園に行幸し都亭で訴訟を聴いた。癸丑、介山の邑には寒食を許し、他は禁断とする詔を下した。三月丙寅、華林園で群臣・国老・庶老を宴した。国老の黄耇(八十歳以上)には中散大夫・郡守を、耋年(七十歳以上)には給事中・県令を仮授し、庶老には郡県の官を直に仮授する詔を下した。それぞれに鳩杖・衣裳を賜った。丁丑、諸州の中正に郷望のある者、五十歳以上で門を閉ざし節を守る者を推挙させ、令長に任じる詔を下した。夏五月丙子、農功を敦く勧め畿内に厳しく督課させる詔を下した。怠る者は鞭打ち、勤める者は名を報告させた。丙戌、河陰に方澤の造営を始めた。使者を派遣し太牢で漢の光武帝及び明帝・章帝の三陵を祭らせた。また漢・魏・晋の諸帝陵の周囲百歩を樵採踐藉禁止とする詔を下した。丁亥、方澤で祀った。秋七月、皇后馮氏を廃した。戊寅、帝は久しい旱魃のため群神への祭祀を秩序立てて行った。癸未から乙酉まで食を絶ち、その夜、雨が大いに降った。八月壬辰朔、華林園に行幸し自ら囚徒を録し、皆本罪を二等降して決遣した。丁巳、南安王楨が薨じた。華林園に行幸し訴訟を聴いた。九月戊辰、車駕は小平津で閲武した。癸酉、還宮した。丁亥、洛水を谷に通じさせようとし、帝自ら臨んで観た。庚寅晦、日食があった。冬十月戊戌、代から遷った士を皆羽林・武賁とした。司州の民には十二丁ごとに一吏を出させ、四年交代の更卒として時期を分けて公私の役に供させた。己酉、京師を曲赦した。十一月乙酉、前汝陰王天賜の孫景和を汝陰王に、前京兆王太興を西河王に復封した。十二月甲子、西北の州郡の旱害に侍臣を巡らせ倉を開いて振恤した。乙丑、塩池の禁を解いた。丙寅、皇太子恂を廃して庶人とした。戊辰、常平倉を置いた。楽陵王思誉が恒州刺史穆泰の謀反を知りながら告発しなかった罪により削爵され庶人とされた。
太和二十一年(497年)
- 春正月丙申、皇子恪を皇太子に立てた。天下の父の後を継ぐ者に爵一級を賜った。己亥、侍臣を巡らせ民の疾苦を問い守宰を黜陟させた。乙巳、北巡した。二月壬戌、太原に至り、高齢者に会いその不便を問うた。乙丑、并州の六十歳以上の士人に郡守を仮授する詔を下した。先に定州の王金鉤が応王を自称する妖言を流したが、丙寅、州郡がこれを捕らえ斬った。癸酉、車駕は平城に至った。甲戌、永固陵に詣でた。乙未、南巡した。甲寅、汾州の高齢者に爵を差等をつけて賜る詔を下した。丙辰、平陽に至り、太牢で唐堯を祀らせた。夏四月庚申、龍門に行幸し太牢で夏禹を祀らせた。癸亥、蒲阪に行幸し太牢で虞舜を祀らせた。堯・舜・夏禹の廟を修めた。辛未、長安に行幸した。壬申、武興王楊集始が来朝した。乙亥、高齢者に会い疾苦を問うた。丙子、侍臣を分遣し県邑を巡らせ谷帛を振賜した。戊寅、未央殿・阿房宮に行幸し、さらに昆明池に行幸した。癸未、宋王劉昶が薨じた。丙戌、太牢で漢帝の諸陵を祀らせた。五月丁亥朔、衛大国が使者を送り朝貢した。己丑、車駕は東へ帰り渭水から黄河に入った。庚寅、雍州の百歳以上の士人には華郡太守を、九十歳以上には荒郡を、八十歳以上には華県を、七十歳以上には荒県を仮授する詔を下した。庶老は年齢により一等ずつ減じ、七十歳以上には爵三級を賜った。造船の夫には爵一級を賜った。孤寡鰥貧の者には各々谷帛を賜り、孝友徳義・文武才幹の者は皆推挙させた。壬辰、太牢で酆にて周文王を、鎬にて周武王を祀らせた。癸卯、使者を遣わし華嶽を祀らせた。六月庚申、車駕は長安から還った。壬戌、冀・定・瀛・相・濟の五州に卒士二十萬を発し南討に備える詔を下した。癸亥、司空穆亮が辞位した。秋七月甲午、昭儀馮氏を皇后に立てた。甲寅、帝は清徽堂で群臣に自ら『喪服』を講じた。八月丙辰、内外に戒厳を布いた。壬戌、皇子愉を京兆王、懌を清河王、懷を廣平王に立てた。戊辰、華林園で講武を行った。庚辰、車駕は南討に出た。九月丙申、司州洛陽の民で七十歳以上で子孫なく、六十歳以上で期親なく貧しく自活できぬ者には衣食を給し、六十歳未満でも廃疾があり大功親なく困窮し自療できぬ者は別坊に置き医師を遣わし救護させ、太医師四人を給し薬物を予め用意させる詔を下した。辛丑、帝は諸將を留めて赭陽を攻めさせ、軍を率いて南討に出た。丁未、車駕は南陽を発し、太尉咸陽王禧・前將軍元英を留めて攻略させた。己酉、車駕は新野に至った。冬十月丁巳、四面から攻めたが落とせず、左右軍に長囲を築かせ包囲を続けさせる詔を下した。乙亥、貞皇后林氏を追廃して庶人とした。十一月丁酉、沔北で齊軍を大破した。これにより人々は皆生業に復した。九十歳以上には郡守を、六十五歳以上には県令を仮授した。十二月丁卯、流徙の囚は決遣せず、登城の際に先鋒として功を立てさせる詔を下した。庚午、車駕は沔に臨み、そこから東へ還った。戊寅、新野に還った。己卯、自ら軍営を巡り六軍を慰労した。齊郡王子琛を河間王若の後継とした。高昌国が使者を送り朝貢した。
太和二十二年(498年)
- 春正月癸未朔、新野の行宮で群臣を饗した。丁亥、新野を落とし、その太守劉忌を宛で斬った。庚午、新野から還った。辛未、穣の民で帰順を貫いた者に三十年の賦役免除を給し、その居所を「帰義郷」と称する詔を下した。次いで降った者には十五年の免除を給した。三月壬午朔、鄧城で齊將崔慧景・蕭衍の軍を大破した。庚寅、樊城に行幸し襄沔で兵を観、武威を示して還った。二荊・魯陽を曲赦した。辛亥、懸瓠に行幸した。夏四月、趙郡王幹が薨じた。秋七月壬午、後宮の私府の支出を半減する詔を下した。六宮の嬪御及び五服の男女への恒常的な扶助・供給も半減させ、軍中の親族への供給は三分の一を省いて賞に充てた。この月、齊の明帝が崩じた。八月辛亥、皇太子が京師から朝した。壬戌、高麗国が使者を送り朝貢した。九月己亥、帝は礼として喪中の国を討たぬとし、軍を引き返す詔を下した。丙午、車駕は懸瓠を発した。冬十月乙酉朔、二豫州を曲赦し殊死以下を赦し田租を一年免じた。十一月辛巳、鄴に行幸した。
太和二十三年(499年)
- 春正月戊寅朔、鄴で群臣を朝饗した。先に帝は体調を崩していたが、この頃には快復した。庚辰、群臣が寿を上げ、澄鸞殿で大いに饗した。壬午、西門豹祠に行幸し、漳水を巡って還った。戊戌、車駕は鄴から至った。癸卯、飲至策勲の礼を行った。甲辰、大赦した。太保・齊郡王簡が薨じた。二月辛亥、長兼太尉・咸陽王禧を太尉とした。癸亥、中軍大將軍・彭城王勰を司徒とした。楽陵王思誉の本封を回復した。癸酉、齊將陳顯達が馬圈戍を攻陥した。三月庚辰、車駕は南伐に出た。癸未、梁城に至った。丙戌、帝は体調を崩した。丁酉、車駕は馬圈に至った。戊戌、連戦して馬圈を破った。己亥、その軍資を億単位で収めた。諸將が漢水まで敗走する敵を追撃し、斬獲及び溺死者は十のうち八九に及んだ。庚子、帝の病が重くなり、車駕は谷塘原に北して留まった。甲辰、皇后馮氏に死を賜る詔を下した。司徒勰に太子を魯陽から迎え践阼させる詔を下した。北海王詳を司空、王肅を尚書令、廣陽王嘉を左僕射、尚書宋弁を吏部尚書とし、太尉咸陽王禧・右僕射任城王澄ら六人が輔政した。夏四月丙午朔、帝は谷塘原の行宮で崩じた。時に三十三歳。秘して魯陽に至り発喪し、京師に還った。謚を孝文皇帝、廟号を高祖とした。五月丙申、長陵に葬った。
人物と治績
- 帝は幼くして至孝の性質があった。四歳のとき、獻文帝が瘍を患うと帝は自らその膿を吸った。五歳で禅譲を受けた際は悲泣にたえず、獻文帝がその理由を問うと「親に代わることの感慨が心に切実です」と答え、獻文帝は感嘆した。文明太后は帝の聡明さから、後に馮氏に不利になるのではと恐れ廃立を謀ったことがある。寒中に単衣で室に閉じこもり三日絶食し、咸陽王禧を召して別の者を立てようとしたが、元丕・穆泰・李沖が固く諫めて止まった。帝はこれを恨まず、丕らに深く感謝したという。諸弟を慈しみ、九族に篤く、大臣にも法を曲げず接したが、性は寛大慈悲であり、熱い羹をこぼされても、食中に虫が入っていても笑って許した。かつて宦官が帝を太后に讒言し太后に杖打たれた際も黙って受け、弁明しなかった。太后の死後もこれを気にとめなかった。政事は善を聞けば直ちに従い、百姓を憐れみ常に民を益する道を思った。天地・五郊・宗廟・二分の礼には必ず自ら臨み、寒暑を厭わなかった。尚書の奏案も多く自ら閲覧し、百官の大小に心を配った。「人君たる者、公平を欠き誠を尽くさぬことを患いとする。誠実であれば胡越の異民族も兄弟のように親しめる」と常に語った。史官に「事実をありのまま書き、国の悪を憚るな。人君の威福が自らにあるなら、史書に書かれずとも何を恐れることがあろうか」と語った。
- 南北への巡幸に際し、有司が道の修築を奏請すると、帝は「橋梁を粗く修め、車馬が通れれば十分であり、草を刈って平らにする必要はない」と答えた。修造は已むを得ない場合に限り、急でない事は行わず民力を損なわなかった。淮南への巡幸でも内地同様に振る舞い、軍事で樹木を伐る必要があるときは必ず絹を残して代価とし、民の作物を踏み荒らすことはなかった。典籍に載らない禁忌や禳厭の術はすべて廃した。
- 読書を好み常に書を手放さず、『五経』の意義は一読して講じることができた。師なくして学び精奥を探り、史伝百家に通じた。荘子・老子を善く論じ、特に釈氏の教義に精通した。文才に富み詩賦銘頌を興のままに作った。馬上で口述筆記させても一字も改める必要がないほどであった。太和十年以後の詔冊はすべて帝自身の文である。その他の文章も百余篇に及んだ。奇才を愛し士を好み、常に飢渇の如く人材を求めた。朝賢を迎える際も才の軽重に応じて遇し、質素な心を寄せ世俗の務めに心を煩わされなかった。若くして弓射を得意とし膂力があり、十余歳で指で羊の肩甲骨を弾き砕くほどであったが、十五歳を過ぎて後は殺生をやめ、狩猟も行わなくなった。生活は倹素で常に洗濯した衣を着け、鞍勒も鉄と木のみを用いた。
史論
- 論じて言う。魏は代北で興り南方の中原を平定した。国土を開き経世する事業は、いずれも武威を旨としており、文教はまだ及んでいなかった。孝文帝は大業を継承し、早くから叡聖の風があった。当初は文明太后が政務を摂り、帝は謙虚に自らを持していたが、その卓見は独自に得たものであり、口に出さずとも自ずと現れ、天与の資質は神秘の変化に符合するものであった。自ら大政を総覧するに及んでは、日々万機に追われ、十数年の間、寸暇もない有様であったが、その方策は異なる道を通りながら同じ目的に帰し、多くの考慮も一つに帰結した。人としては行い難く倫理の上で高い実践を、たとえ帝位にあってもことごとく実行した。古を稽え天人を調え、帝王としての制作、朝野の規範において、取捨の判断は文章として輝かしいものであった。天下の民はみなその恩恵を受けた。加えて雄才大略、奇才を愛し士を好み、民を傷ついた者のように見て自らを労し他者を利したその徳は、言葉に尽くしがたい。