北史卷二 世祖太武帝・恭宗景穆帝・高宗文成帝・顕祖献文帝

世祖太武帝

出自と生い立ち

  • 世祖太武皇帝諱燾は明元帝の長子、母は杜貴嬪。天賜五年、東宮で誕生、体貌は非凡で道武帝に「わが業を成す者はこの子だ」と言わしめた。泰常七年、太平王に封ぜられ、五月に皇太子となる。明元帝の病に際し百揆を総摂した。聡明大度で度量が広かった。

泰常八年(423年、即位)

  • 十一月己巳、明元帝崩御。壬申、太子燾が即位し大赦。十二月、生母杜貴嬪を密皇太后に追尊。長孫嵩を北平王、奚斤を宜城王、長孫翰を平陽王に進封するなど普く加爵。禁錮を除き倉庫を開いて窮乏者を振恤、河南からの流民が多数内属。

始光元年(424年)

  • 安定王彌薨去。東巡。宋の徐羨之、主義符を弑す。蠕蠕六万騎が雲中に侵入し盛楽陥落、帝自ら軽騎で討ち撃退。大規模閲兵で北討を計画。平陽王長孫翰らを蠕蠕討伐に派遣、大勝して帰還。

始光二年(425年)

  • 保母竇氏を保太后に尊す。長孫嵩を太尉、長孫翰を司徒、奚斤を司空とする。故東宮を万寿宮に改め諸殿を造営。新字千余を創る。天下十家ごとに大牛一頭の運搬を課す。赫連屈丐死去。永安・安楽二殿完成。車駕、北伐に出て東西五道より進軍、蠕蠕北走。

始光三年(426年)

  • 乞伏熾磐、赫連昌討伐を要請し朝貢。太学を城東に起こし孔子を祀り顔回を配祀。赫連屈丐死後の内紛に乗じ、車駕西伐して赫連昌を襲撃、万余家を徙して帰還。奚斤に長安を拠らせる。秦・隴の氐羌が昌に叛き奚斤に降る。武都王楊玄、沮渠蒙遜らが内附。

始光四年(427年)

  • 車駕、西伐から帰還。行軍中の死者多く十に六、七のみ生還。赫連昌の弟定、長安へ向かう。車駕、拔鄰山を経て黒水に至り赫連昌を大破、昌は上邽へ敗走、統万を陥とし群弟や母妹妻妾・宮人万余を虜とする。常山王素・執金吾桓貸を統万に鎮守させ班師。楊玄を南秦王とする。

神蒨元年(428年)

  • 天下の守令を精選して代える。奚斤、安定に進軍。安頡が赫連昌を捕らえる。残党は昌弟定を主に平涼へ退く。奚斤、平涼馬髦嶺で赫連定に敗れ捕らえられる。丘堆、敗報を聞き長安へ逃走、帝激怒し斬らせる。赫連定、朝貢。南秦王楊玄、朝貢。

神蒨二年(429年)

  • 車駕、北伐(沙漠を越え栗水に至る)。蠕蠕は恐れて焼き払い西走。新附の民を漠南から五原・陰山にかけて配置。

神蒨三年(430年)

  • 温泉巡幸。平陽王長孫翰死去。赫連昌を秦王に進封。敕勒万余落の叛乱を鎮圧。宋将到彦之の侵攻を安頡が撃破。密皇太后廟を鄴に立てる。統万に行幸し平涼を親征、赫連定を包囲。安頡、滑台を攻撃、洛陽・武牢も攻略。赫連定の弟社於降伏、平涼平定。関中平定。

神蒨四年(431年)

  • 宋将檀道濟・王仲徳の滑台救援を叔孫建・長孫道生が阻止。赫連定、乞伏慕末を滅ぼす。安頡・司馬楚之、滑台平定。宋俘万余人・甲兵三万を得る。赫連定、吐谷渾慕璝に捕らえられる。沮渠蒙遜、子安周を入侍させる。慕璝を西秦王に封じ、崔浩を司徒とする。范陽盧玄・博陵崔綽・趙郡李霊ら賢俊を礼を以て招聘。崔浩に律令改定を命じる。北部敕勒の帰順により大狩。

延和元年(432年)

  • 保太后を皇太后に尊し、皇后赫連氏冊立、皇子晃を皇太子とする。改元。車駕、和龍(北燕)を伐ち塹を穿って囲む。営丘・成周・遼東・楽浪・帯方・玄菟六郡の民三万家を幽州に徙す。馮弘の子崇・朗・邈ら遼西を挙げて内属。

延和二年(433年)

  • 馮崇を車騎大将軍・遼西王とする。沮渠蒙遜死去、子牧犍が車騎将軍・西河王となる。永昌王健・安原らに和龍討伐を命じる。馮崇、父の説得を求めるが帝許さず。楊難当を南秦王とする。

延和三年(434年)

  • 女水で大饗。馮弘、和議を求めるが許さず。楊難当、漢中を克し雍州流人七千家を長安へ送る。頻年の遠征による民の困窮に対し等級別の免租措置。赫連昌、叛走し河西候将に殺される、その謀反に連座した弟らも誅殺。東宮完成。山胡白龍を河西で討伐・屠城。

太延元年(435年)

  • 道武・明元の宮人を出して嫁がせる。大赦改元。蠕蠕・焉耆・車師朝貢。宜都王穆寿・上党王長孫道生・恒農王奚斤・広陵王婁伏連への進爵。西域へ使者二十輩を派遣。旱魃による瑞応(玉印「旱疫平」等の吉兆)を理由に天下大酺五日を布告。樂平王丕ら東伐し和龍で男女六千口を得て帰還。安原の謀反鎮圧。鄴巡幸で高年を慰問、賢俊を礼遇。

太延二年(436年)

  • 馮弘、朝貢し侍子を送ることを求めるが許さず。西域・東夷諸国へ使者派遣。娥清・古弼に馮弘討伐を命じる。馮弘は高麗へ逃亡(高麗の葛蔓盧が迎える)。皇子小児・苗児が薨去。楊難当が上邽を占拠、樂平王丕らに討伐を命じる。高麗が馮弘を送らず、帝は討伐を計画するも丕の諫言で中止。野馬苑を設置。

太延三年(437年)

  • 中山王纂・長孫嵩・叔孫建、相次いで薨去。幽州・上谷・代を巡幸し民情視察・免租。永昌王健・長孫道生に山胡白龍余党討伐を命じ滅ぼす。沮渠牧犍の世子封壇来朝、高麗・契丹・亀茲・悦般・焉耆・車師・粟特・疏勒・烏孫・渇盤陁・鄯善・破洛那・者舌ら諸国が朝貢。

太延四年(438年)

  • 鄯善王弟素延耆来朝。五十歳以下の沙門を罷免。高麗、馮弘を殺害。車駕北伐。

太延五年(439年)

  • 楊保宗を武都王とし上邽鎮守とする。沮渠牧犍討伐に西征、姑臧を陥とし牧犍降伏(藩臣の礼で待遇、戸口二十余万・倉庫珍宝を接収)。北涼滅亡。蠕蠕が犯塞し七介山に至り京都動揺、皇太子が長孫道生らに拒戦させる。涼州の民三万余家を京師へ徙す。禿発保周、張掖で叛乱。楊難当の上邽侵攻を撃退。

太平真君元年(440年)

  • 沮渠無諱、酒泉を占拠。侍臣を諸州へ派遣し民情巡察。改元(禎瑞・皇孫浚誕生による)。永昌王健、禿発保周を大破。保太后竇氏、行宮で崩御。保周自殺。沮渠無諱、降伏。州鎮十五の飢饉に振恤。

太平真君二年(441年)

  • 沮渠無諱を征西大将軍・涼州牧・酒泉王とする。惠太后を崞山に葬る。蠕蠕の郁久閭乞帰を朔方王、沮渠万年を張掖王に封じる。永昌王健薨去。奚眷、酒泉を平定。

太平真君三年(442年)

  • 道壇で符箓を親受、法駕整備。北平王長孫頹、爵を削られ侯となる。沮渠無諱、流沙を渡り鄯善に拠る。涼武昭王孫李宝、敦煌に拠り内附。皇子伏羅を晋王、翰を秦王、譚を燕王、建を楚王、余を呉王に封じる。李宝を鎮西大将軍・沙州牧・敦煌公とする。

太平真君四年(443年)

  • 恒山で刻石勒銘。仇池を克す。武都王楊保宗の謀反を鎮圧、氐羌が弟文徳を推して仇池を包囲。北伐(蠕蠕に対する軽騎による四道分進)。皇太子に副理万機・総統百揆を命じ、功臣を優遇し賢俊を新たに登用する詔。

太平真君五年(444年)

  • 皇太子、百揆を総摂。穆寿・崔浩・張黎・古弼が補佐。私養の沙門・巫・金銀工巧の者を届け出させ違反者を厳罰(門誅)とし、私塾も禁じる(違反者厳罰)。北伐後期の中山王辰ら八人を斬る。楽平王丕薨去。太宰陽平王杜超、帳下に殺される。吐谷渾慕利延の内紛(甥緯代殺害)、叱力延を帰義王とする。晋王伏羅、慕利延を大破し白蘭へ走らせ、その部一万三千が内附。

太平真君六年(445年)

  • 定州巡幸で長老を慰問。上党・吐京の叛胡を討ち郡県へ配す。疑獄を中書に付し経義で判断する制。万度帰、鄯善王真達を捕らえ献上。天下の兵を三分の一徴発し戒厳。高涼王那、吐谷渾慕利延を討ち被囊・什帰・成龍を捕らえ、慕利延は于闐へ逃亡。盧水胡蓋呉、杏城で挙兵(天台王を自称し百官設置)。薛永宗、汾曲で呼応。青・徐の民を河北へ徙す。

太平真君七年(446年)

  • 薛永宗を討ち滅ぼす(男女悉く水死)。蓋呉、北地へ退却。長安・岐山巡幸で民を撫恤、反乱に通じた守将殺害者を処罰。沙門を坑にし仏像を毀つ大規模な廃仏令(諸州)。鄴城の仏図を毀つ際、玉璽二個を得る。蓋呉、再挙兵するも部下に殺され首を献上。羯児の王爵を復す。

太平真君八年(447年)

  • 中山巡幸。沮渠牧犍、謀反の疑いで誅殺。西征の諸将(処真ら八将)の軍資横領・掠奪を理由に処刑。樂安王範薨去。穆寿薨去。晋王伏羅薨去。

太平真君九年(448年)

  • 定州巡幸、山東の飢饉に振恤。塞囲の工事を中止。壺関の山道を整備。韓抜を鄯善王とし郡県並みに賦役を課す。悦般国の求めで蠕蠕討伐に協力。万度帰、焉耆を大破し王鳩尸卑那が亀茲へ逃亡。恒農王奚斤薨去。婚姻・喪葬の奢侈を規制。皇太子、北討に従い受降城まで至るが蠕蠕現れず帰還。

太平真君十年(449年)

  • 漠南で大饗。蠕蠕の吐賀真、遠く逃避。北伐。

太平真君十一年(450年)

  • 洛陽巡幸で高年を慰問。梁山で大狩。皇子真薨去。宮室大修、皇太子北宮に居す。懸瓠親征。崔浩を誅殺。宋将王玄謨、滑台攻撃。南伐(帝は中道より進軍、皇太子は漠南屯守、呉王余留守)。孔子を祀る。淮河を渡って淮南平定、瓜歩山に行宮を建て長江に臨む。宋文帝、和を求め貢献、皇孫への進女も求めるが婚は許さず和のみ許す。

正平元年(451年)

  • 江上で大会。北旋。降人五万余家を近畿に分置。太子少傅遊雅らに律制改定を命じる。羯児・高涼王那、罪により賜死。皇太子(景穆)薨去、金陵に葬る。陰山巡幸。諸曹吏員を三分の一削減。上党王長孫道生薨去。皇孫浚を高陽王に封じるが世嫡のため籓に置かず取消。秦王翰を東平王、燕王譚を臨淮王、楚王建を広陽王、呉王余を南安王に改封。

正平二年(452年)

  • 冀州刺史・張掖王沮渠万年、南来降人の謀叛に通謀し賜死。三月甲寅、中常侍宗愛の謀反により永安宮で崩御(四十五歳)。喪を秘し、愛は皇后令を矯めて東平王翰を殺害、南安王余を擁立、大赦し改元して永平とする。太武皇帝と諡され雲中金陵に葬られ廟号世祖。
  • 帝は生母密太后の生前を知らず、物心つくと語るたび悲慟し傍人を感じ入らせた。明元帝の病には帯を解かず看護。清儉率素で衣食は質実、賞賜は必ず功勲の家に限り、私情で及ぼすことはなかった。戦場では常に矢石の間を士卒と共にし、左右が死傷しても顔色を変えなかった。人を用いるに卒伍の中からも才を抜擢し、賞罰は身分によらず明らかであった。「法は朕と天下がこれを共にする、どうして軽んじられようか」と述べ、大臣の犯法にも容赦しなかった。ただ果断が過ぎ誅戮後に悔いることも多く、崔浩を誅した後に李孝伯の死を聞いて「李宣城は惜しい、崔司徒も惜しい」と述べたという逸話がある。

恭宗景穆帝

出自と生い立ち

  • 景穆皇帝諱晃は太武帝の長子、母は賀夫人。延和元年正月、五歳で皇太子となる。聡明で経史を好み大義に通じ、太武帝はこれを奇才とした。

監国期(西征涼州時、439年頃)

  • 太武帝の河西親征に際し監国。姑臧無水草との臣下の言を疑うが、実際は湧泉が城を潤していると知り、「臣として実を言わぬのは忠でない、危うく大事を誤らせるところだった」と嘆いた。

太平真君四年(443年)

  • 蠕蠕討伐に従軍、鹿渾谷で敵と遭遇。速攻を進言するが尚書令劉潔の慎重論により太武帝は攻撃を控え、蠕蠕は遠く逃げた。後に捕虜から敵が慌てふためいていたことが判明し、太武帝は深く悔いた。以後、太子の軍国に関する進言は多く採用され、万機を知るに至る。監国中は牛のない家に貸与を促す牛耕互助制や、飲酒・賭博・本業を捨てた行商の禁止を行い、墾田が大いに増えた。

正平元年(451年)

  • 六月戊辰、東宮で薨去(二十四歳)。張黎・竇瑾が策を奉じ景穆太子と諡される。文成帝即位後、景穆皇帝と追尊され廟号恭宗。

高宗文成帝

出自と生い立ち

  • 高宗文成皇帝諱浚は景穆帝の長子、母は閭氏。太平真君元年、東宮で誕生。幼くして聡達、太武帝の傍らに置かれ「世嫡皇孫」と呼ばれた。五歳の時、北巡に従い、虜帥が奴隷を罰しようとするのを見て解放を命じ、太武帝に「この子は幼いが天子として振る舞おうとする」と評された。長じて風格非凡、大政の可否に参決した。

正平二年(452年、即位)

  • 三月、中常侍宗愛が弑逆し南安王余を擁立。十月丙午朔、宗愛はさらに余を殺害。殿中尚書長孫渇侯・尚書陸麗が世嫡皇孫(浚)を奉迎。興安元年十月戊申、永安前殿で即位、大赦改元。元寿楽を太宰・都督中外諸軍・録尚書事、長孫渇侯を尚書令とするが、両者の権力争いにより十一月に共に賜死。広陽王建・臨淮王譚薨去。皇妣閭氏薨去、後に恭皇后と追尊。仏法を復興(正平の廃仏を解除)。杜元寶の謀反鎮圧に伴い建寧王崇・崇の子麗も連座で賜死。

興安二年(453年)

  • 京兆王杜元宝の謀反鎮圧。宋、太子劭が文帝を弑殺、孝武帝が劭を討ち自立。太皇太后赫連氏崩御。濮陽王閭若文・永昌王仁の謀反鎮圧。「子孫長寿」の玉印瑞兆により大酺三日。信都・中山巡幸で民情視察。疏勒・渇盤陀・庫莫奚・契丹・罽賓ら朝貢。

興光元年(454年)

  • 道壇で図箓を親受。皇子弘(後の献文帝)誕生。趙王深薨去。庫莫奚が一角の名馬を献上。中山・信都・霊丘を巡幸。

太安元年(455年)

  • 太武・景穆の神主を太廟に奉安。楽平王拔、罪により賜死。武昌王提薨去。改元。皇子弘に名を賜う。尚書穆真ら二十人を諸州へ派遣し風俗視察。遼西公常英を太宰とする。

太安二年(456年)

  • 皇后馮氏冊立。皇子弘を皇太子とする。羽林中郎於判・元提らの謀逆を誅殺。伊吾攻略(尉眷)。閭毗・閭紇を進爵。隴西王源賀への改封。嚈噠・普嵐ら朝貢。

太安三年(457年)

  • 尉眷を太尉に進爵、録尚書事とする。皇弟新成を陽平王に封じる。州鎮の蝗害・飢饉に振恤。粟特・于闐ら五十余国朝貢。

太安四年(458年)

  • 広寧温泉宮・遼西黄山宮巡幸で高年を慰問。碣石山に登り滄海を観る(山を楽遊山と改名)。信都・中山巡幸。太華殿造営。逋懸を理由に宰官の責任を厳しく問う詔。北巡陰山、古墳保護令(墓を穿つ者は斬)。渡漠すると蠕蠕は跡を絶って逃避。

太安五年(459年)

  • 河南公伊珝薨去。皇弟子推を京兆王に封じる。居常国朝貢。敦煌公李宝薨去。六鎮・雲中・高平・二雍・秦州の災旱に振恤。

和平元年(460年)

  • 改元。皇太后常氏、寿安宮で崩御。陽平王新成らに吐谷渾什寅討伐を命じる。崔浩誅殺以来廃されていた史官を復置。西平で追撃するが瘴気による疫病で撤退。居常王、馴象三頭を献上。

和平二年(461年)

  • 発調を口実にした逼借・大商との結託を厳しく禁じる詔(違反は十疋以上死罪)。中山・信都巡幸で民情視察・老人優遇(八十歳以上は一子免役)。霊丘の高山で群臣に弓を競わせ、自ら三十余丈を射て刻石。並・肆州の民に河西の猟道を修めさせる。河東王閭毗薨去。皇弟小新成を済陰王、天賜を汝陰王、万寿を楽良王、洛侯を広平王に封じる。波斯国朝貢。広平王洛侯薨去。

和平三年(462年)

  • 東郡公乙渾を太原王とする。楽良王万寿薨去。高麗・蓰王・契嚙・思厭・於師・疏勒・石那・悉居半・渇盤陀ら朝貢。常山王素薨去。戦陣の法十余条を制定し大儺で示威。零陵王閭抜薨去。

和平四年(463年)

  • 京師の七十歳以上に太官廚食を賜う。皇子胡仁薨去、楽陵王に追封。西苑で猛獣を親射。漁陽王尉眷薨去。講武の場を旧来の宮壇のまま費用を抑えるよう詔。定・相二州の隕霜による免租。喪葬嫁娶の礼制を条格として定める詔。貴族と百工伎巧の婚姻を禁じる詔。

和平五年(464年)

  • 皇弟雲を任城王に封じる。州鎮十四の虫害・水害に振恤。頓丘公李峻を王に進封。旱魃に際し減膳して自省すると澍雨が降る。宋孝武帝崩御。瑯邪侯司馬楚之薨去。南秦王楊難当薨去。吐呼羅国朝貢。

和平六年(465年、崩御)

  • 楼煩宮巡幸。高麗・蓰王・対曼ら朝貢。西平郡王吐谷渾権薨去。破洛那国が汗血馬、普嵐国が宝剣を献上。五月、太華殿で崩御(二十六歳)。文成皇帝と諡され廟号高宗、雲中金陵に葬られる。

顕祖献文帝

出自と生い立ち

  • 顕祖献文皇帝諱弘は文成帝の長子、母は李貴人。興光元年、陰山北で誕生。太安二年、皇太子となる。

和平六年(465年、即位)

  • 五月甲辰、即位・大赦。皇后を皇太后と尊す。車騎大将軍乙渾、矯詔により尚書楊保年・賈愛仁・張天度を禁中で殺害。司徒平原王陸麗も湯泉から入朝した際に殺される。乙渾を太尉公、劉尼を司徒公、和其奴を司空公とする。李嶷を丹楊王、馮熙を昌黎王に封じる。乙渾、丞相となり諸王の上に立ち事の大小を専断。刺史・守宰の選任制度を改める詔。宋の義陽王劉昶が来奔。諸王を入朝させる。宋、湘東王彧が主子業を殺し自立。

天安元年(466年)

  • 大赦改元。丞相太原王乙渾の謀反が発覚し誅殺される。孔雀を濮陽王、陸定国を東郡王とする。源賀を太尉公とする。文成帝の神主を太廟に祔祀。道壇で符箓を親受。郷学を初めて立てる(郡ごとに博士・助教・学生六十人)。皇弟安平王薨去。州鎮十一の旱害に振恤。

皇興元年(467年)

  • 尉元、宋将張永・沈攸之を呂梁東で大破。東平王道符の謀反を司馬段太陽が鎮圧、道符兄弟誅殺。頓丘王李峻を太宰とする。済陰王小新成薨去。慕容白曜、宋東平太守申纂を討ち無塩を克す。武州山石窟寺巡幸。皇子宏(後の孝文帝)誕生、大赦改元。梁郡王李白の進封。濮陽王孔雀、怠慢により公に降格。

皇興二年(468年)

  • 西山で親射。慕容白曜、東陽を包囲。南郡公李恵を王に進爵。河南避地を理由に京師の殊死以下を曲赦。馮熙を太傅とする。皇叔楨を南安王、長寿を城陽王、太洛を章武王、休を安定王に封じる。州鎮二十七の水旱に振恤。宋の戦没者の遺骸埋葬と生存者の帰還許可の詔。

皇興三年(469年)

  • 東陽陥落、沈文秀を捕らえる。司空和其奴薨去。慕容白曜を済南王に進封。皇子宏に名を賜い大赦。青・斉の民を京師へ徙す。皇子宏を皇太子とする。太宰頓丘王李峻薨去。韓頽を王に進封。

皇興四年(470年)

  • 州鎮の大飢饉に振恤。陸定国を司空公とする。長孫観に吐谷渾什寅討伐を命じ曼頭山で大破。広陽王石侯薨去。病者への医療下賜を命じる詔。皇弟長楽を建昌王に封じる。蠕蠕犯塞、女水で大破。劉尼、事に坐し免官。済南王慕容白曜・高平公李敷を誅殺。山沢の禁を弛める。鹿野苑・石窟寺巡幸。陽平王新成薨去。

皇興五年(471年、譲位)

  • 北平王長孫敦薨去。帝は幼くして神武・聡叡、済世の志を持ち、即位後も世を厭う心があり叔父京兆王子推への禅位を望むが群臣の固請で断念。太保陸珝・太尉源賀に皇帝璽綬を奉じさせ、皇太子(宏、孝文帝)に帝位を授ける。群臣、太上皇帝の尊号を奏上。太上皇帝、崇光宮へ移り質素な暮らしをするが、国の大事はなお聞き続けた。
  • 承明元年、文明太后との軋轢により永安殿で崩御(二十三歳)。献文皇帝と諡され廟号顕祖、雲中金陵に葬られる。

史論

  • 太武帝は聡明・雄断、威霊は傑出していた。父祖二代の基業を継いで征伐の気を奮い、戦車を四方に出して険夷を巡り、秦・隴を平定し統万を掃い遼海を翦り河源を蕩した。南の宋は肩を落とし北の蠕蠕は跡を絶ち、四表を平定して華戎を混一した。その武功は実に大きく、魏の大業を百王に光り輝かせたのは、神叡の経綸と天命を体現した故であろう。ただ初めに東宮(景穆)が世を全うできず、末には禍が油断から生じたのは、根本を固め害を防ぐことをあまり顧みなかったためではないか。
  • 景穆帝は令名高く聡明であったが早世した、あたかも戻園の悲しみのようである。
  • 文成帝は太武帝の後を受け、国力の疲弊と内外の艱難の中で即位したが、時勢に応じて静かにこれを鎮め、威を養い徳を布いて中外を治めた。深い叡智と済民の志がなければこのようにはできなかったであろう、君主たる度量を備えていたと言える。
  • 献文帝は聡叡で早熟、加えて雄断の資質を備え、漠野を清め南方に威を広げた。しかし早くから世を厭う心を抱き、ついに宮廷の変事を招いたのは、天意によるものであろうか。