北史卷一 太祖道武帝・太宗明元帝

太祖道武帝

出自と生い立ち

  • 魏の先祖は黄帝軒轅氏に出る。黄帝の子昌意の末子が北国に封じられ大鮮卑山に拠り、以後代々君長として幽都の北・広莫の野を治め、遊牧・狩猟を業とし、文字を用いず刻木結縄で記録した。黄帝は土徳を以て王たり、北俗で土を「托」、後を「跋」と言ったため拓跋を氏とした。裔の始均は堯に仕え、舜に田祖に任ぜられた。以後六、七十代を経て成帝毛(統国三十六、大姓九十九)に至り威を北方に振るう。以後、節帝貸・荘帝観・明帝楼・安帝越・宣帝推寅(南遷を図るも未行のまま崩ず)・景帝利・元帝俟・和帝肆・定帝機・僖帝蓋・威帝儈・献帝鄰と歴代継承。
  • 献帝の代、神人の勧めで南遷を図るが、老齢のため聖武帝詰汾に位を譲り移住を命じた。山谷険阻で頓挫しかけたが神獣の導きで匈奴の故地に至る。この遷徙策は宣帝・献帝の功によるとされ、時人はこの二帝を「推寅」と呼んだ。
  • 聖武帝詰汾は天女との邂逅譚を持ち、その子が始祖神元帝力微である。「詰汾皇帝に婦家なく、力微皇帝に舅家なし」の諺が伝わる。
  • 神元帝力微は沒鹿回部の大人竇賓を頼っていたが、戦で竇賓を助けたことから信頼を得て、その部を糾合。三十九年、定襄の盛楽に遷り諸部の助祭を得る(従わなかった白部大人を征討)。控弦の士二十余万を擁するに至り、四十二年、子の文帝沙漠汗を魏へ遣わし和親を図る。
  • 文帝沙漠汗は洛陽で人質生活を送るが、晋の衛瓘の讒言により帰国の途上で殺害される。神元帝はその年に崩じ(在位五十八年、百四歳)、道武即位後に始祖と尊された。
  • 以後、章帝悉鹿(九年)、平帝綽(七年)、文帝の少子思帝弗(一年、寛政を布く)と継承。神元の子昭帝禄官は国を三分し、自らと桓帝猗厓(文帝長子)・穆帝猗盧(桓帝弟)にそれぞれ統治させた。穆帝は晋と結んで并州に進出し匈奴・烏丸を討ち、晋と境を分かつ。
  • 桓帝は北方諸国三十余国を服属させ、劉元海(前趙)反晋の際には晋の司馬騰を援けて大破。晋より大単于の金印紫綬を受けるが十一年で崩じ、子普根が代わる。
  • 昭帝没後、穆帝が三部を統一。劉元海の帝号僭称に対し、劉琨の求めに応じ弟平文帝を援け、その功で晋懐帝より大単于・代公に封ぜられ、句注陘北の地を得て十万家を徙し実らせる。盛楽を北都、平城を南都とし、晋湣帝より代王に進封(官属設置)。厳しい法治で威を示すが、子六修との争いで崩ず。
  • 普根が六修を討って立つも間もなく薨じ、その子始生も早世。思帝の子平文帝郁律が立ち、劉武(劉虎)を破り西は烏孫故地、東は勿吉に至るまで威を張るが、桓帝后により害され崩ず(後に太祖として追尊)。
  • 以後、恵帝賀傉(太后臨朝)、煬帝紇那(石季龍の侵攻で大寧へ遷る)、烈帝翳槐(賀蘭部の争いや煬帝との交替)を経て、煬帝・烈帝が入れ替わり立つ混乱期が続く。
  • 昭成皇帝什翼犍(平文帝の次子、寛仁大度)が烈帝の遺命で即位。建国元年に繁畤北で即位、以後百官設置・都の選定(雲中盛楽宮)・城郭築造・慕容氏との婚姻同盟などを進め、劉武(劉虎)一族との抗争、太后王氏の崩御、衛辰(劉衛辰)との攻防(渡河作戦で衛辰を討つ)等を経る。建国三十四年、皇孫珪(のちの道武帝)誕生。三十九年、苻堅の大軍来寇に際し陰山北へ避難するさなか崩御(五十七歳)。この間、性は寛厚で、絹を盗んだ許謙を庇い、自らを射た賊さえ許すなど仁恕の逸話が伝わる。
  • 太祖道武皇帝諱珪は昭成帝の嫡孫、献明帝の子。母は献明賀皇后。誕生に瑞兆の伝説があり、六歳で昭成帝が崩じた後、苻堅の侵攻で国が離散、劉庫仁・劉衛辰が国事を分掌する混乱の中、独孤部に身を寄せて育った。

元年(登国以前、377年頃)

  • 昭成帝を金陵に改葬(棺の木材が根付いて林となったという)。幼い道武は非凡の器量を示し、劉庫仁は子に「帝には天下を興す志がある、必ず洪業を再興する」と語った。

七年(383年頃)

  • 晋、淮南で苻堅を破る(淝水の戦い)。慕容文らが劉庫仁を殺害、弟の眷が国部を代摂。

八年(384年頃)

  • 慕容暐の弟慕容沖が僭立。姚萇、大単于・万年秦王を自称。慕容垂、燕王を僭称。

九年(385年頃)

  • 劉庫仁の子顕が眷を殺して代わり道武の殺害を謀るが、商人王霸の密告と穆崇の急報により道武は脱出、賀蘭部に身を寄せる。乞伏国仁、秦・河二州牧・大単于を私署。姚萇、苻堅を殺害。苻堅の子丕、晋陽で皇帝を僭称。

登国元年(386年)

  • 正月戊申、道武、牛川で代王位に即き郊天建元。長孫嵩を南部大人、叔孫普洛を北部大人とする。慕容垂、中山で皇帝を僭称し国号を燕とする。四月、魏王と改称。五月、姚萇、長安で皇帝を僭称し国号大秦。八月、劉顕が弟亢泥に窟咄(皇叔父)を擁立させ侵攻、道武の左右の一部が内応を謀るが発覚し首謀者五人を誅殺。道武は陰山北・賀蘭部へ退避し、慕容垂に援軍(子賀驎)を求め、高柳で合流して窟咄を大破。十月、苻丕、晋将馮該に殺される。慕容永、長子で皇帝僭称。十一月、苻登、隴東で皇帝僭称。十二月、慕容垂、道武に西単于印綬・上谷王を贈るが受けず。

登国二年(387年)

  • 慕容垂に再度徴兵、賀驎の来援を得て劉顕を親征、その部落を吸収(劉顕は慕容永の元へ)。

登国三年(388年)

  • 庫莫奚を北征し大破。乞伏国仁死、弟乾帰立ち河南王を私署。庫莫奚の残党撃滅。呂光、三河王を自称。慕容垂朝貢。

登国四年(389年)

  • 高車諸部落を襲撃、叱突鄰部を女水で討ち大破。慕容垂に朝貢を通じる。

登国五年(390年)

  • 高車袁紇部を鹿渾海で大破。慕容垂の子賀驎と共に賀蘭・紇奚諸部を破る。叱奴部・高車豆陳部も討伐。

登国六年(391年)

  • 黜弗部を西討し大破。慕容垂に馬を求められ拒絶、代わりに慕容永へ使者。五原を屠り積穀を得る。蠕蠕を北征。衛辰の子直力鞮を鉄岐山南で大破し、衛辰父子は敗走、遂に滅ぼす。衛辰の少子屈丐(赫連勃勃)は薛干部へ亡命。衛辰の宗族五千余人を悉く誅殺、河南諸部平定。

登国七年(392年)

  • 慕容永朝貢。

登国八年(393年)

  • 屈丐を匿った薛干部を討ち、その城を屠る。

登国九年(394年)

  • 河北五原・棝陽塞外で屯田。蠕蠕の社崙ら西走。姚萇の子興、苻登を殺して即位。慕容垂、慕容永を滅ぼす。

登国十年(395年)

  • 慕容垂の子宝、五原に侵攻するが、道武は参合陂で大破し、王公以下文武将吏数千人を捕虜。俘虜の中から賈彝・賈閏・晁崇らを登用し謀議に加える。

皇始元年(396年)

  • 慕容垂、桑乾川侵攻の途上、平城近くで病を得て撤退、上谷で没す。子宝、秘喪のうえ中山で即位。左司馬許謙の勧めで改元・天子旌旗を建てる。四十余万の大軍で并州へ南征、并州平定(遼西王農らが晋陽を放棄)。台省・百官を設置、士大夫を広く登用。真定に至り常山以東を平定するが中山・鄴・信都は陥落せず、中山を包囲。

皇始二年(397年)

  • 信都陥落。柏肆で慕容宝の夜襲を受けるが撃退し大破。中山攻防中、寶は和議を求めるも背約、賀驎に先を越されることを恐れ北へ逃走。城内は慕容普鄰を擁立するが、のち賀驎がこれを殺して自立。大疫で死傷者多数出るも道武は動じず統治を継続。賀驎を新市で大破、単騎で鄴へ逃げ慕容徳に殺される。中山陥落、璽綬・図書・府庫の珍宝を接収。

天興元年(398年)

  • 慕容徳、滑台へ退避。衛王儀、鄴を攻略。道武は鄴・中山を巡幸し民を撫恤、山東六州の民や徒何・高麗ら十余万口を京師へ移住。慕容徳、燕王を自称し広固に拠る。国号を「魏」と正式決定(中原平定を理由に先号を継続)。七月、平城に遷都、宗廟・社稷を創建。慕容宝の子盛、蘭汗を殺し長楽王を自称。鄧彦海が官制・爵品、董謐が郊廟・社稷・朝覲・饗宴の儀、王徳が律令、晁崇が渾儀を、崔宏が総裁として整備。衛王儀ら群臣が尊号進上を三度上表し、道武はこれを受諾。十二月、正式に即位・改元、成帝以下の廟号諡号を追尊。土徳を採用(服色は黄、祖は未、臘は辰、犠牲は白)。六州二十二郡の守宰・豪傑・吏人二千家を代都に移す。

天興二年(399年)

  • 南郊で上帝を初めて祀り始祖神元帝を配祀。高車を大破(諸将東西路より出撃)。国子太学生員を三千人に増員、五経博士を設置。氐人李辯が慕容徳に叛き滑台を献上。太廟完成、神元・平文・昭成・献明の神主を遷す。

天興三年(400年)

  • 盧溥を遼西で討伐・処刑。籍田の礼を開始。皇后慕容氏を冊立。天文の異変により官号を数度改める。河右諸郡が涼武昭王李玄盛を秦涼二州牧・涼公に推戴(庚子の年号を用いる、後の西涼建国)。

天興四年(401年)

  • 呂光の弟の子隆、呂纂を弑して自立。段興が慕容盛を殺し、叔父熙が皇帝を僭称。『衆文経』(四万余字)を編纂。涼武昭王・沮渠蒙遜、朝貢。

天興五年(402年)

  • 姚興との戦い(乾壁攻防)。姚興の弟平を蒙坑で大破し戦死させ、三万余人を捕虜。興、度々和睦を求めるも許さず。蒲阪進撃を諸将は求めるが蠕蠕を懸念し班師。

天興六年(403年)

  • 高車を大破。皇子嗣を斉王、紹を清河王、熙を陽平王、曜を河南王に封じる。晋、桓玄が安帝を廃し楚を僭称。

天賜元年(404年)

  • 晋の劉裕、桓玄討伐の兵を起こす。爵制を四等(王・公・侯・子)に改める。江南大乱で流民が淮北へ流入。

天賜二年(405年)

  • 晋主司馬徳宗復位。慕容徳死去。

天賜三年(406年)

  • 各地巡幸・狩猟。灅南宮を造営(門闕高十余丈)。

天賜四年(407年)

  • 皇子を分封(修=河間王、処文=長楽王、連=広平王、黎=京兆王)。赫連屈丐、大単于・大夏天王を自称。高雲、慕容熙を殺し天王を僭称。

天賜五年(408年)

  • 禿発傉檀、涼王を僭称。

天賜六年(409年)

  • 道武は寒食散の副作用で情緒不安定となり、疑心暗鬼から近臣を次々粛清、死者を天安殿前に晒す事態となる。慕容氏一族百余家の亡命企図が発覚し処刑。衛王儀、謀反の疑いで賜死。十月、清河王紹の反乱により天安殿で崩御(三十九歳)。永興二年、宣武皇帝と諡され盛楽金陵に葬られ廟号太祖。泰常五年、道武と改諡。
  • 性は寛厚で、絹を盗んだ許謙を庇い財のために士を辱めることを戒め、自らを射た賊も「各々その主のため」として赦すなど仁恕の逸話が伝わる。

太宗明元帝

出自と生い立ち

  • 明元皇帝諱嗣は道武帝の長子、母は劉貴人。登国七年、雲中宮で生まれる。天興六年、斉王に封ぜられ相国を拝す。生母が慣例により賜死した際、道武は漢武帝の故事を引いて説くが、嗣は深く哀しみ、道武の怒りを買った。清河王紹の反乱の際、帝は都に戻ってこれを誅した。

永興元年(409年)

  • 十月壬午、即位・大赦改元。宣穆皇后(生母)を追尊。罷免されていた公卿を復職。長孫嵩・安同に人訟の裁定を命じる。馮跋、高雲を弑して北燕を建国。硃提王悦、謀反の疑いで賜死。蠕蠕、辺境を侵す。乞伏乾帰、秦王を自称。

永興二年(410年)

  • 長孫嵩ら北征するが蠕蠕に牛川で包囲され、帝自ら出撃し蠕蠕は退却。劉裕、慕容超を滅ぼす(南燕滅亡)。

永興三年(411年)

  • 安同らに并・定二州および諸山居雑胡・丁零の民情巡察と守宰の糾察を命じる。昌黎王慕容伯児、謀反で誅殺。

永興四年(412年)

  • 東巡・西巡を行い各地を視察。乞伏乾帰、甥公府に弑される。沮渠蒙遜、河西王を僭称。

永興五年(413年)

  • 男子十二歳以上を集めた大規模閲兵。奚斤を前軍将(三万)とする軍事編成。姚興、朝貢し進女を申し出、これを許す。

神瑞元年(414年)

  • 禎瑞相次ぐを理由に改元。乞伏熾磐、禿発傉檀を滅ぼす。劉裕将硃齡石、蜀(譙縦)を滅ぼす。守宰の不法を厳しく糾察。蠕蠕、辺境を侵し北伐。

神瑞二年(415年)

  • 白登西に宣武廟建立。刺史守宰の不法を厳しく処罰。各地巡幸・祭祀(黄帝・唐堯・舜廟)を行い民情視察・租の減免。姚興、西平公主を献上、後礼で迎える。旱魃・霜害に対し倉穀を開いて振恤。

泰常元年(416年)

  • 姚興死去。改元。劉裕、姚泓討伐のため滑台占領(叔孫建らが尉建を斬る)。

泰常二年(417年)

  • 涼武昭王死去。劉裕、姚泓を滅ぼす(後秦滅亡)。

泰常三年(418年)

  • 長孫道生、馮跋討伐で龍城に至り一万余家を移住させる。晋安帝崩御。

泰常四年(419年)

  • 赫連屈丐、皇帝即位を僭称。各地巡幸。

泰常五年(420年)

  • 道武帝の尊号を改諡(宣武→道武)。淮南侯司馬国璠らの謀反を鎮圧。晋恭帝、宋に禅譲(東晋滅亡・南朝宋建国)。西涼滅亡。

泰常六年(421年)

  • 戸口二十戸ごとに軍馬一匹の供出を制定。羊百口ごとに軍馬供出も追加。京師の苑池拡張工事(周回四十余里)。

泰常七年(422年)

  • 皇子燾(太平王)ら諸皇子を分封。道武帝は寒食散の影響で政務困難となり、五月、皇太子燾を立て聴政させる。宋武帝崩御。奚斤ら宋討伐に出兵、滑台攻撃(済師求めるも許されず)。明元、親征の構えで南巡、諸州を巡幸し民情視察。

泰常八年(423年)

  • 鄴を巡幸し民情視察。奚斤、兗・豫平定後、武牢を包囲するが宋将毛徳祖が拒守。長城を築造(赤城〜五原、二千余里)。武牢陥落するも疫病で死傷者十に二、三。明元、南巡から帰還後、十一月、西宮で崩御(三十二歳)。遺詔で奚斤の軍実を大臣に分与。十二月、明元皇帝と諡され雲中金陵に葬られ廟号太宗。
  • 帝は文武を兼備し儒生を礼遇、史伝を好み、劉向撰『新序』『説苑』が経典正義に欠ける点を補うため『新集』三十篇を撰した。

史論

  • 帝王の興隆は天命によるが、あわせて累代の功徳の積み重ねに拠る。神元帝は天女より生まれ、桓帝・穆帝は晋室を助けた――これらは偶然ではなく人事の徴でもある。
  • 昭成帝は雄傑の資質と君主の器量を備え、征伐によって威を遠方にまで及ぼした。都を改め号を立て、大業を興隆させ百六十年に及ぶ光宅の基を築いたのには理由がある。
  • 道武帝は安危の狭間、潜龍から飛躍への転機に立ち、遺された民を率いてその武威を発揮した。困難を切り開いて中原の基を開き、垂拱のうちに人心を得て皇位に登った。制度・謀は永く後世に及ぶもので、大業を成し得た不世出の武才であった。しかし禍いが思わぬところから生じたのは、人事の不足か、天命によるものか。
  • 明元帝は国家草創の初め、なお周囲に窺覦の勢力が残り、内には天賜末期からの動乱を受け継いだ。孝心と叡智・権謀を兼ね備え、大業の基を固め、内を和し外を撫し、ついに周辺諸勢力を服させ、その声教を南に及ぼした。その功績は久しく伝わるものである。