北齊書卷二十八 列傳第二十 元暉業

元暉業

  • 元暉業、字は紹遠。魏の景穆皇帝の玄孫。若い頃は険薄で寇盗と交わることが多かったが、成長して節を変え、子史に渉猟し文才もあり、慷慨として志節があった。司空・太尉を歴任し特進を加えられ中書監録尚書事を領した。文襄がかつて「近頃何を披覧しているか」と問うと、「しばしば伊尹・霍光の伝を尋ね、曹操・司馬懿の書は読まない」と答えた。
  • 暉業は時運がしだいに傾くのを見て、もはや保身を図らず、ただ飲食にふけり、一日に一羊、三日に一犢を食べた。またかつて詩を賦して「昔は王道の泰らかなるに居り、済済として群英に富んだ。今や世路の阻むに逢い、狐兎鬱として縦横す」と詠んだ。斉の初め、美陽県公開府儀同三司特進に降封された。
  • 暉業が晋陽にいた時は交際をせず、常に閑暇には魏の藩王家世を撰して『辯宗録』四十巻と号し世に行われた。位望は隆重であったが、性気が普通でなく常に猜忌を受けた。天保二年、駕に従って晋陽に至り、宮門外で元韶を罵り「お前は一人の老婆にも及ばぬ、璽を背負って人に渡すとは、なぜこれを打ち砕かなかったのか」と言った。「言ったからにはもう死は知っている、しかしお前もどれほどの時が残っているものか」と語った。文宣(高洋)がこれを聞いて殺し、あわせて臨淮公孝友も斬った。孝友は刑に臨んで驚惶して取り乱したが、暉業は神色自若として、氷を鑿ってその屍を沈めた。
  • 暉業の弟の昭業はかなり学問があり、諫議大夫の位にあった。荘帝が洛南に幸した際、昭業は閶闔門外に立って馬を叩いて諫めたが、帝はこれを避けて通り過ぎた。後に労いを受け免ぜられ、給事黄門侍郎衛将軍右光禄大夫の位にあって卒し、諡は文侯。