北齊書卷二十八 列傳第二十 元韶

元韶

  • 元韶、字は世冑。魏の孝荘帝の甥。爾朱氏の難を避けて嵩山に匿れた。学を好み容儀が美しかった。初め爾朱栄が洛陽に入ろうとした時、父の劭は韶を親しい滎陽太守の鄭仲明に寄せたが、仲明はまもなく城人に殺され、韶は乱の中で乳母とはぐれ、仲明の兄の子の僧副とともに難を避け路中で賊に迫られ、殺されそうになった。賊は韶に馬から下りるよう命じたが、僧副は賊に「窮鳥が人に投じても哀れみを受けるものだ、まして諸王をどうして棄てられようか」と言い、刃を挙げて迫ったため賊は退いた。韶は程という姓の老婆に出会い、哀れみを受けて私宅に十余日隠れた。荘帝が訪ねて見つけ出し、彭城王の爵を襲がせた。
  • 斉の神武帝は孝武帝の后を韶に配した。魏室の珍宝の多くが后とともに韶の家に入った。二つの玉鉢があり、重ね入れることはできても取り出すことはできず、瑪瑙の榼は三升入り、玉の縫い目があり、いずれも西域の鬼工の作と称された。太尉・侍中・録尚書・司州牧を歴任し太傅に進んだ。斉の天保元年、爵を降されて県公となった。
  • 韶は性質温裕で、高氏の婿として時の寵を大いに受けたが、よく謙退し、人に対して恵政を施し、儒学を好み才彦を礼遇し、林泉を愛して邸宅を修めたが華美でも奢りはなかった。文宣帝は韶の鬚髯を剃り粉黛を施し婦人の服を着せて自らに随わせ、「私は彭城を嬪御とし、元氏の微弱を譏り、婦女に比べたのだ」と言った。十年経ち、太史が「今年は旧を除き新を布くべき」と奏すると、文宣は韶に「漢の光武帝はなぜ中興できたのか」と問い、韶は「劉氏を誅殺し尽くさなかったからだ」と答えた。これにより元氏を誅して厄を払おうとし、五月に元世哲・景武ら二十五家を誅し、残り十九家は禁固した。韶は京畿の地牢に幽閉され、絶食し衣の袖を食って死んだ。
  • 七月に至り元氏を大誅し、昭成帝以下ことごとく遺すことがなかった。父祖が王であった者、身分の高い者、兄弟が強壮な者はみな東市で斬られ、その嬰児は空中に投げ上げられ矛で受け止められた。前後の死者は総計七百二十一人、悉く屍を漳水に投げた。魚を割くとたびたび爪甲が出てきたので、都下の人々は長らく魚を食べなくなった。

史論

  • 賛にいう。元氏は繁栄をきわめ、その慶事の霊験に頼っていたが、道が終運に従うにつれ、命は淫刑に偶することとなった。