北齊書卷二十四 列傳第十六 杜弼
杜弼、字は輔玄、小字は輔国。中山曲陽の人。北魏末より地方官・行台の実務官として仕え、髙祖(髙歓)・世宗父子の腹心として法制の起草・軍事・外交に活躍した文人官僚。仏理・玄理の学に通じ『老子道徳経』注や邢邵との形神論争で知られたが、質直な性格ゆえの直言が禍し、文宣帝(顕祖)の怒りにより刑死した。
出自と生い立ち
- 杜弼、字は輔玄、小字は輔国。中山曲陽の人。自序によれば京兆杜陵の出で、九世祖の驁は晋の散騎常侍として趙に使いし留まり定着したという。祖の彦衡は淮南太守、父の慈度は繁畤令。幼くして聡敏だが家貧しく、郡学で学び師に評価された。定州長史甄琛の試問に応じ将来を嘱望され、州牧任城王元澄にも王佐の才と評された。延昌年間、軍功で広武将軍・恒州征虜府墨曹参軍として名を上げ、光州曲城令として仁恕の政を敷いた。
挙兵前後の任官
- 天下多難の折、光州発兵に際し州兵が逃亡する中、弼が率いた部隊のみ動揺せず、統率力を示した。普泰中、東萊太守として父を賊に殺され、六年の喪に服した。御史・内正字として弾劾の実務を担い、儀同竇泰の西伐に監軍として従ったが泰の敗死に連座して逮捕されたものの、房謨の弁護で助命された。
- 元象初め髙祖の丞相府法曹行参軍・大行台郎中として機密を任され、口頭の指示を即座に文書化する能力を評価された。魏の禅譲を勧めた際は髙祖に杖で追い払われた。相府法曹辛子炎が「署」を「樹」と誤読して髙祖の怒りを買った際、弼は「二名は偏諱せず」との礼を引いて弁護し、子炎は赦された。世子(世宗)が「王の左右にこの人がいてこそ天下は利を蒙る」と評したという。
- 武将たちの不廉潔を訴えた際、髙祖は「督将の家族の多くは関西にあり黒獺(宇文泰)に誘われる恐れがある、江東には蕭衍(梁武帝)が正朔を称する、厳しく取り締まれば人心が離れる、しばらく待て」と応じた。沙苑の役に先立ち弼が「内賊(勲貴の掠奪者)を除くべきだ」と進言すると、髙祖は弓矢刀矟を構えた兵の間を弼に歩かせ「矢は放たず刀は撃たぬ、それでも震え上がるだろう、勲人が身を挺して得た利得を同列に論じられぬ」と諭した。邙山の戦での露布を弼が起草した功で定陽県男・食邑二百戸、通直散騎常侍・中軍将軍。
- 魏帝から仏性・法性の異同を問われ「一理にして二にあらず」と答えて称賛された問答が詳しく伝わる。幷州驃騎府長史として『老子道徳経』二巻の注を著し、その上表文と魏帝の詔答が長く記録されている。
世宗期の活躍と最期
- 武定中、衛尉卿。梁の貞陽侯蕭明らの彭城侵攻に際し、髙岳・慕容紹宗の軍司として従軍。出発に際し世宗は自らの愛馬を贈り「政務の要諦を一両条挙げよ」と求め、弼は「賞罰の二端、それぞれ一人を賞し一人を罰すれば天下は服す」と即答し称賛された。寒山で蕭明を破り、潼州を攻略し撫軍恤民に努めた。天保六年、魏帝主催の仏理講説で師子座に登り、僧達らとの問答に屈しなかった逸話が伝わる。
- 潁州攻略では行台左丞として賦役の負担を均し民の支持を得た。王思政の敗因を「逆順を察せず、大小を識らず、強弱を度らなかった」と評した問答、顕祖(文宣帝)との「逆取順守」を巡る問答が詳しく伝わる。顕祖の魏禅受禅にも弼は先発して情勢視察を命じられ、定陽県侯に進爵した。
- 邢邵との死生をめぐる長大な哲学問答(形神論。神は滅せず形を離れて他に託すとする弼の説と、神は形と共に滅するとする邢邵の説の応酬)が記録され、最終的に邢邵は理屈で負けたとされる。
- 家客の讒言で謀反の嫌疑をかけられ下獄したが実なく後に赦され、朝見を絶たれた。次子廷尉監臺卿の断獄稽遅の件で連座し臨海鎮に徙されたが、東方白額の乱で城を守り抜いて評価され、海州事代行として通陵道・韓信故道の開通、堰の構築などの治績を挙げた。徐州・膠州刺史を歴任し、儒雅寛恕で吏民に慕われ、玄理を好んで『荘子』惠施篇・『易』上下繋の新注や『義苑』を著した。
- 質直な性格で、顕祖が「治国にはどんな人物を用いるべきか」と問うと「鮮卑の車馬客に加え中国人を用いるべきだ」と答え、これを高徳政への当てこすりと取られて疎まれた。長史時代の受納の噂も讒言され、天保十年、飲酒中の顕祖の怒りに任せて処刑された。時に年六十九。後に悔いて追跡させたが及ばなかった。子の㽔・光遠・臺卿は各地に徙されたが乾明初め鄴に戻ることを許された。天統五年、使持節・揚郢二州軍事・開府儀同三司・尚書右僕射・揚州刺史を追贈され、諡は文粛。子の㽔・臺卿はいずれも学業があり、臺卿は文筆に優れた。㽔は大理少卿・聘陳使主、隋の開州刺史で没した。臺卿は中書黄門侍郎、国史編纂に携わり、周の斉平定後は聾疾のため随駕を免れ、隋で著作郎となった。
史論
- 史臣曰く、孫搴は近侍で文墨を担い、入幕後まもなく非業の死を遂げたが、髙祖の「我が右腕を折られた」との言葉には愛惜の情がにじむ、そうでなければ覇業は成らなかったであろう。太史公の言う「死者は難きにあらず、死に処すこと難し、あるいは太山より重く鴻毛より軽し」とはこのことである。陳元康は智能才幹をもって霸朝に身を委ね、帷幄に綢繆して重責を担い、難に臨んで苟も免れず命を捨てて義に殉じたのは、まさにその地を得た者といえる。楊愔は自ら奇才を誇りながら弑逆の際に逃げ避けたのとは対照的で、死に処するのは難しいが、処死者もまた難しいことがわかる。顕祖は若くして器量を隠していたが、北宮の変の際、年功により重んじられ皇位の議に許されなかった時期があった。杜弼は識学が明晰で発言も正しかったが、禅代の際に異図を先に唱えて君の怒りを解かぬまま処刑された、直言する者の運命はこのように過酷なことが多い。
賛
- 彦挙(孫搴)は才を駆使して高く、行いは偏った。元康は忠勇で命を捨て義を存した。輔玄(杜弼)は玄思を極め天道を語ったが、時に晦まれ身を没して名を全うした。