出自と髙祖への奉仕
- 陳元康、字は長猷。広宗の人。父の終徳は魏の済陰内史。文史に通じ機敏で有能。李崇の北伐に従い軍功で臨清県男、天平年間に修起居注、司徒府記室参軍として髙昻に信任され、瀛州開府司馬を経て髙祖に見出され相府功曹参軍として機密を掌った。髙祖が世宗を殴打した際、元康は涕を流して「世子の教訓には礼法がある、これでは示しがつかない」と諫め、髙祖はこれを聞き入れ、以後怒った時は「元康に知られるな」と語るほど憚った。
- 髙仲密の叛乱の背景に崔暹への不信があると知った髙祖が崔暹を殺そうとした際、世宗が匿って諫め、元康も「大将軍に天下を託しながら崔暹一人を容れられぬのか」と説き、暹は罰を免れた。世宗の輔政期には崔暹・崔季舒・崔昻ら三崔、張亮・張徽纂ら二張が重用されたが、いずれも元康の下位に置かれ、「三崔二張は一康に及ばず」と評された。
- 魏の尚書僕射盧道虔の娘(右衛将軍郭瓊の子婦)が瓊の死罪連座で没官された際、髙祖は元康の妻に賜り、元康は前妻の李氏を棄てたため識者に非難された。便辟で人に取り入るのに巧みで進言も多かったが、財利に溺れ受納を数え切れぬほど重ね清論に譏られた。邙山の戦後、諸将が追撃に反対する中、元康は「両雄の対峙は長い、いま大勝を得て時を逃せば後患となる」と追撃を進言したが、髙祖は伏兵を恐れて従わなかった。安平県子・食邑三百戸、平南将軍・通直常侍、大行台郎中、右丞。髙祖臨終の際「邙山で元康の言を用いなかったことが患いとなる、これを恨みに死ぬ」と世宗に語った。
世宗の下での活躍と最期
- 髙祖崩御は元康のみが知り、世宗が嗣いだ後は散騎常侍・中軍将軍、昌国県公・食邑千戸。侯景の叛乱に際し、世宗が諸将の圧力で崔暹を殺そうとした際も元康は「四海未だ清まらぬ時に将領の心を宥めるため無辜を誅すれば刑典が乱れる、晁錯の故事を慎むべきだ」と諫めて止めた。髙岳の侯景討伐が捗らぬ折、援軍に潘相楽でなく慕容紹宗を推し、紹宗の忠誠を疑う世宗に安心させる工作をし、破景の功で世宗から金五十斤を賜った。
- 王思政の潁城攻略でも「未だ大功なきいま潁城を落とせば威定業に足る」と進言し、世宗自ら親征して陥落させ金百鋌を賜った。魏朝が世宗に相国斉王を授けた際、世宗が固辞する中で唯一元康は「受けるべきだ」と主張し、諸将の勧めを退けた。崔暹が陸元規を大行台郎に推挙し元康の権を分けようとしたことや、元康の受納を世宗が嫌い、中書令に転じさせようとしていた矢先、世宗の家蒼頭蘭固成らの謀反(阿改の乱)が起こり、元康は身をもって世宗を庇い刺されて重傷を負い、その夜死んだ。時に年四十三。
- 世宗の死は秘され、元康の死も出使を名目に隠された。翌年、詔で「元康の識は往哲を超え、才は時の英に極まる、綜核戎政・弥綸霸道、邵陵の謀・河陽の会に力を尽くし、亡家徇国し逋寇を掃平した」と称され、使持節・都督冀定瀛殷滄五州諸軍事・驃騎大将軍・司空公・冀州刺史、武邑県千戸を追封、諡は文穆、賻物千二百段が贈られた。母の李氏も元康の死を悼み病没し、廣宗郡君・諡貞昭を追贈された。子の善藏は温雅な鑑識の持ち主で武平末給事黄門侍郎、隋の尚書礼部侍郎。弟の謀は大鴻臚、次弟季璩は鉅鹿太守から美州別駕となり、平秦王髙帰彦の乱で節を守って殺され衛尉卿・趙州刺史を追贈された。