北齊書卷二十三 列傳第十五 魏蘭根
魏蘭根、鉅鹿下曲陽の人。父の伯成は魏の中山太守。博学で機警な人物として地方官・軍府の要職を歴任し、北魏末の動乱期には辺鎮制度の改革や岐州での義挙で名を上げた。髙祖(髙歓)の信頼を得て中興初め車騎大将軍・尚書右僕射となり、髙乾兄弟・崔㥄と共に孝武帝擁立を主導した一人。功名を成したが処世に計算高いと評された。
出自と生い立ち
- 魏蘭根、鉅鹿下曲陽の人。父の伯成は魏の中山太守。蘭根は身長八尺、容貌が並外れて優れ、群書を広く読み『左氏伝』『周易』を暗誦し、機警な人物であった。北海王国侍郎、定州長流参軍などを歴任し、母の喪に孝を尽くした。父の葬礼では董卓を祀る祠の柏を「凶逆無道の者を今も祀るべきでない」として伐って槨材にし、少しも憚らなかった。父の喪では墓側に廬して土を負い墳を築き、憂毀のあまり命を落としかけた。
軍政の献策と義挙
- 司空・司徒府記室参軍、夏州平北府長史、司徒掾、本郡太守を歴任。正光末、尚書令李崇の茹茹討伐に長史として従い、辺鎮の府戸制度が旧来の名族出身者を賤しく扱い不満を生んでいるとして、鎮を州県に改め府戸を民に免ずるよう献策したが、崇の奏聞は保留され実現しなかった。
- 冠軍将軍、司徒右長史、豫州事代行、岐州刺史などを歴任。行台蕭寶寅の宛州討伐で得た俘虜の美女十人の下賜を辞退し、父兄に還した逸話が伝わる。岐州では麦の穂が多く実り隣州の鼠害も及ばぬ豊作であったが、秦隴の反乱で蕭寶寅が涇州で敗れると岐州も囚われて賊に降った。寶寅が雍州で兵を立て直すと城民が刺史侯莫陳仲和を斬って蘭根を再び推戴し、朝廷は蘭根が西土の人心を得ていることを認め、涇岐東秦南岐四州の行台尚書を兼ねさせた。
- のち光禄大夫、河北流民の安撫のため済済二兖四州の郡県設置を担当。河間の邢杲(蘭根の甥)の反乱には慰労の使者として赴いたが下らず、元天穆の討伐に随行した。太府卿を辞し安東将軍・中書令。荘帝が爾朱栄誅殺を謀った際、蘭根はその計画を漏れ聞き密かに尒朱世隆に告げたため、栄死後は荘帝に知られることを恐れて悩んだが、王道習の推挙で河北行台定州となり井陘を防備。侯深との戦いに敗れ渤海の髙乾のもとに身を寄せた。
- 髙祖が至ると宿望に厚く遇され、中興初め車騎大将軍・尚書右僕射。髙祖の洛陽入城に先立ち京師に至り、後廃帝の器量を観察したが、その明敏さゆえに後難を恐れ、髙乾兄弟・黄門崔㥄と共に「廃帝は元来胡賊の推戴による」として立后を固く拒み、武帝(孝武帝)擁立を主張し、髙祖はやむなくこれに従った。後世の論者は廃帝の徳業を蘭根らが讒毀したと非難した。
- 太昌初め儀同三司、開府、鉅鹿県侯・食邑七百戸。旧勲の岐州の功も加えられ永興県侯・食邑千戸。髙乾の死後、蘭根は憂懼して寺に身を隠し、武帝に譴責された。天平初め病篤く帰郷を願い出て許され、二年、六十一歳で没した。冀定殷三州軍事・定州刺史・司徒公・侍中を追贈され、諡は文宣。蘭根は功名を成したが処世に計算高く、清論には評価されなかった。
魏蘭根の一族
- 長子相如は秘書郎中、建義の功で将軍を加えられ父の爵を襲い、安東将軍・殷州別駕、侍御史を経て武定三年没した。次子敬仲は肅宗(孝静帝)の配享の功臣に父蘭根が漏れたことを訴え、祠部郎中に擢用され章武太守で没した。
- 族弟の明朗は経史に通じ、大司馬府法曹参軍・尚書金部郎中。元顥の洛陽入城時に南道行台郎中として捕らえられたが顥を棄てて逃還し、龍驤将軍・中散大夫・鉅鹿侯。永安末、蘭根の河北行台で左丞となり、中山での敗戦後は共に髙祖に帰し、撫軍将軍、安徳太守、右光禄大夫、定州大中正などを歴任、平陽太守として弾劾を受け病没した。
- 明朗の従弟の愷は剛直で才弁があり、開府行参軍、尚書郎、斉州長史を経て、聘陳使副に選ばれた青州長史を固辞したことで顕祖(文宣帝)の怒りを買ったが、恬然として動じず、応答の妙により助命され放逐された。のち楊愔との問答で機知を示し、霍州刺史として治績を上げ、大寧中、膠州刺史で没した。
- 愷の従子の彦卿は魏の大司農季景の子で聘陳使副、弟の澹は学識と詞藻に優れ後魏書九十二巻を撰し史体を得たと称された。