北齊書卷二十三 列傳第十五 崔㥄
崔㥄、字は長孺。清河東武城の人。父の休は魏の七兵尚書。魏世宗の挽郎から起家し、髙祖の信都挙兵に応じて重用された。廃立を巡る議論では孝武帝擁立を強く主張して功を挙げたが、寵妾馮氏を頼んだ不正や驕慢な言動により恨みを買い、詔誥表檄の起草で文才を発揮する一方、晩年は東兖州刺史として馮氏の不正が発覚し、獄中で病没した。
出自と生い立ち
- 崔㥄、字は長孺。清河東武城の人。父の休は魏の七兵尚書、贈僕射。㥄は容姿優れ人望があり、魏世宗の挽郎から太学博士に起家。永安中、事件に坐して免官され鄉里に帰ったが、髙祖の信都挙兵に応じ諮議参軍として重用された。
栄達と挫折
- 給事黄門侍郎、右光禄大夫。髙祖が洛陽で廃立を議した際、太僕綦儁が普泰王の賢明さを称えたのに対し、㥄は「賢明なら我が高王が自ら九五に登るべきだ、逆胡が立てた者をなぜ天子と仰ぐ、義挙の意義が損なわれる」と反駁し、中興・普泰の両帝は共に廃され平陽王(孝武帝)が立てられた。建義の功で武城県公・食邑千四百戸、車騎大将軍・左光禄大夫、黄門郎兼帯。義旗の功に驕り貪汚で御史に弾劾され逃亡したが赦されて復職した。
- 天平初め侍讀・監典書、徐州刺史(部曲三百・千人を給される)。寵妾馮氏に威権を借り不正な受納を許すなど政風は振るわなかった。魏収との確執が知られ、㥄が起居注の起草者として魏収を退け祖鴻勲を用い、盧元明を中書郎に据えたことを魏収は根に持った。魏収の聘梁の際、㥄は刺史の儀衛を過剰に整えて迎え、魏収に「稽古の力だ」と皮肉られ、㥄も収の建義の勲を蔑む言葉を返した。七兵尚書、清河邑中正。趙郡李渾の宴で㥄の到来により座が静まった逸話や、盧元明に「天下の盛門は我と汝のみ」と語った逸話が伝わり、崔暹に恨まれた。
- 髙祖の葬儀後、㥄が世宗(黄頷小児)を軽んじる発言をしたことが崔暹を通じ世宗に伝わり、朝謁を絶たれ晋陽に召喚され訊問された。㥄は認めず、証人の邢子才も否定したため、陳元康の弁護(崔琰の故事を引いた諫言)で死罪を免れたが、世宗の怒りは消えなかった。天保初め侍中・監起居、新豊県男(弟の約に譲渡)。婁太后の博陵王への嫁入りに際し「崔家に笑われぬように」と勅された逸話や、東兖州刺史として馮氏を伴い赴任し、馮氏の不正が発覚して共に廷尉に召され、馮氏は市で斬られ㥄も病により獄中で没した。時に年六十一。詔誥表檄の多くを㥄が起草し、辞藻に優れたが豪奢に流れ財色に溺れ、兄弟の和を損なったことは世に譏られた。魏収との確執では自嘲的な言葉で和解を図った。子の子瞻が嗣いだ。
崔子瞻
- 崔子瞻、字は彦通。聡明で学問を好み、文才と容儀に優れた。刺史髙昻の主簿、清河公岳の開府西閤祭酒、崔暹配下の御史などを歴任し、髙祖・世宗父子に近侍した。世宗の急死に際し兼相府司馬として鄴に赴いた。孝静帝の人日の宴では邢邵らから父㥄と並び「詩人の冠」と称された。
- 天保初め兼并省吏部郎中。楊愔が中書侍郎に推挙する際、盧思道が「崔瞻の文詞は優れているが、風流を重んじられ才華が埋もれがちだ」と評したことで採用が決まった。皇建元年、給事黄門侍郎。李槩との親交と離別の書簡が伝わる。太子中庶子として東宮の講読・礼度を担当し、太子妃斛律氏の婚礼儀注を撰定した。大寧元年衛尉少卿、聘陳使主として南人に敬服された。太常少卿、尚書吏部郎中を経て、耳疾で百日規定を超えて欠勤したため吏部尚書尉瑾に上奏され罷免、天統末驃騎大将軍・銀青光禄大夫。武平三年、五十四歳で没し、使持節・都督済州軍事・大理卿・刺史を追贈され、諡は文。才地を恃んで簡傲であったが、御史台での食事を巡る河東人裴氏との逸話は寛容さも伝える。
崔㥄一族の他の人物
- 㥄の兄弟の仲文は学才があり、髙陽太守・清河内史。沙苑の敗戦で馬の尾に掴まり河を渡った忠孝の逸話で髙祖に称えられ、中軍将軍、天保初め散騎常侍・光禄大夫、七年、六十歳で没した。子の偃は太子洗馬・尚書郎、偃の弟儦は才思に優れ大司馬中兵参軍、五礼の制定に参与し文林館に待詔した。
- 㥄の族叔景鳳は医術で知られ魏尚薬典御、天保中譙州刺史。兄の景哲は魏太中大夫・司徒長史。子国、字は法峻、相術に優れ尚薬典御・髙陽郡太守・太子家令を経て鴻臚卿で没し、人物の相を的中させた逸話が伝わる。
- 㥄の族子肇師は魏尚書僕射亮の孫で、若くして疎放だったが後に謹厚に変じ、開府東閤祭酒、司空外兵参軍、大司馬府記室参軍を歴任。慰労青州使として土賊崔迦葉らに捕らわれたが節を曲げず放免された。通直散騎常侍として聘梁副使を務め、天保初め禅代の礼儀を定め、四十九歳で没した。
史論
- 史臣曰く、魏蘭根は早くから名行が世に知られ、崔㥄(長孺)は才望の美で重んじられ、共に覇業に功参し高位に上った点で李元忠・盧文偉と並ぶ義旗の人物といえよう。しかし魏の要幸に付会し、崔氏は門地を恃んで驕った点は、周公の美徳をもってしても累となる、況やそれに及ばぬ器量をやである。崔子瞻の詞韻の温雅と風神の秀発は、また一時の領袖であった。
賛
- 崔・魏の才望は霸業の初めに重んぜられたが、名教の跡から見ればなお病むところがある。子瞻(彦通)は志を尚び、家風に余りあり。