北齊書卷二十二 列傳第十四 李義深

出自と生い立ち

  • 李義深、趙郡髙邑の人。祖の眞は魏の中書侍郎、父の紹宗は殷州別駕。経史に通じ当世の才用があり、済州征東府功曹参軍などを歴任。義旗の初め髙祖に帰し大行台郎中。爾朱兆の兵勢を見て一時髙祖に叛いたが、爾朱兆平定後、髙祖はその罪を許し大丞相府記室参軍とした。

官途

  • 左光禄大夫、幷州長史(刺史可朱渾道元の下で州政の実務を担う)、大丞相司馬。武定中、斉州刺史として財利を好み受納が多かった。天保初め鄭州・梁州事の代行、散騎常侍・陽夏太守を経て、段業の告発により禁固され梁州で糾問中、天保三年、禁所にて五十七歳で病没した。
  • 子の騊駼は才弁があり尚書郎・鄴県令、通直散騎常侍として聘陳使に立った。壽陽道行台左丞として王琳らと共に周に降ったが、開皇初め逃げ帰り、永安太守を経て絳州刺史で没した。孫の正藻は父騊駼の陳での死を悼み喪に服し、隋の尚書工部員外郎・盩厔県令、宜州長史で没した。騊駼の弟文師は中書舎人・斉郡太守。義深の兄弟七人はみな学才があり、次弟同軌は儒学で知られ、六弟稚廉は別伝がある。
  • 義深の族弟・神威は曾祖融が魏の中書侍郎。礼学に通じ音楽を好み『楽書』近百巻を撰した。魏武末尚書左丞、天保初め没し信州刺史を追贈された。

史論

  • 史臣曰く、李元忠は元来清らかな出自で教義人倫の誉れがあり、縦横家として評すべきではない。荘帝幽崩の後、諸胡が権をほしいままにする中、志ある者は勤王の師を望んだが、髙祖の東轅に会い雄姿に触れて肝胆を捧げたのは徒事ではない。功名を享けてなお進退の道を弁えたのは見事である。盧文偉は望重く地位も高く、艱難の中でついに英主に出会い、礼遇こそ十分でなかったが佐命の一人となった。盧詢祖は詞情艶麗で早くから名を上げたが、才を恃んで矜り高ぶり、京華の人士はその舌鋒を畏れた。任用未だ十分でないまま若くして没したのは惜しまれる、もし天寿を全うしていたら通塞のほどは計り難かったであろう。

  • 晋陽の大夏(盧詢祖)は質を抱き文を懐き、仁義に感じ会う風雲のごとし。盧氏は財を軽んじて殖え、李義深の族は囂氛を清め、始終の操は清濁ここに分かる。義深の参賛は忠勤に譲るところがある。