北齊書卷二十二 列傳第十四 盧文偉

盧文偉、字は休族、范陽涿の人で北州の名族。灌漑事業や賑給で郷里の信望を集め、河北の争乱期に范陽を守り抜いた地方の実力者。髙乾邕兄弟と呼応して髙歓(神武)に帰し、安州刺史などを歴任した。興和三年、60歳で没した。

年表(7件)
  • 太昌初め安州刺史に転じ散騎常侍を加えられる
  • 天平末東雍州・青州の事を代行する
  • 興和三年州にて60歳で没する
  • 天平初め盧恭道、龍驤将軍・范陽太守として徳政を敷くが父に先立って没する
  • 中興初め盧懐道、平西将軍・光禄大夫・烏蘇鎮城都督となり、官にて没する
  • 元象元年盧勇、広州包囲戦で西魏の援軍を奇襲し功を挙げる
  • 武定二年盧勇、32歳で没する

出自と生い立ち

  • 盧文偉、字は休族。范陽涿の人で、北州の名族。父の敞は伯家を継いだ。少くして孤児となったが志があり、経史に通じ交遊に篤かった。年三十八で秀才に挙げられ、本州平北府長流参軍として刺史裴儁に督亢陂の再興を進言し灌漑万余頃を実現、私財も蓄えた。行台常景の下で行台郎中。北方動乱の折、范陽城に稲穀を蓄え荒年に賑給し、郷里の信望を集めた。

義挙と晩年

  • 杜洛周に捕らえられたが、洛周敗死後は葛榮に降り、その敗後帰郷。韓楼が薊城を拠った際は范陽を守って対抗し、士卒と労苦を共にし家財を分けて窮民を救った。尒朱栄が侯深を遣わし楼を討たせた功で大夏県男・范陽太守。榮死後、侯深の裏切りを察して狩りに誘い出し閉門して拒んだ。荘帝の崩御後は幽州刺史劉霊助と共に挙兵し、霊助は瀛州を得たが文偉は定州で尒朱榮配下の侯深に敗れ本郡へ逃れた。以後、髙乾邕兄弟と呼応し、髙祖が信都に至ると子の懐道を遣わして誠意を示し、安東将軍・安州刺史となった。
  • 安州の元刺史盧曹が劉霊助に従い敗れて尒朱兆に降ったため州城に入れず、郡治で州事を代行した。太昌初め安州刺史に転じ散騎常侍を加えられた。天平末、東雍州・青州の事を行い、財を軽んじ賓客を愛し小恵を施す人柄で人望を集めたが、受納も多く経済は常に不足した。興和三年、州にて六十歳で没し、使持節・侍中・都督定瀛殷三州軍事・司徒・尚書左僕射・定州刺史を追贈され、諡は孝威。

盧恭道・盧詢祖

  • 子の恭道は温良で文学に通じ、州主簿、開府墨曹参軍。父文偉の范陽防衛を助け、七兵尚書郭秀に推挙され髙祖にも名を知られた。天平初め龍驤将軍・范陽太守として徳政を敷いたが父に先立って没し、使持節・都督幽平二州軍事・幽州刺史・度支尚書を追贈され、諡は定。
  • 恭道の子・詢祖は大夏男の爵を襲い、文才で知られた。秀才に挙げられ入京後、朝廷の急な賀表・拝命文を即座に多数起草する才を発揮した。長城修築の役に配されたことに不満を抱いたが、「築長城賦」を作って自らを慰めた。邢邵に才寿を惜しまれる問答や、人物評で舌鋒鋭かった逸話が伝わる。太子舎人・司徒記室などを経て官にて没し、文集十巻が残るが多くは散逸した。趙郡王妃鄭氏への挽歌詞が伝わる。

盧懐道・盧宗道

  • 恭道の弟懐道は軽率で酒を好んだが慕われる人柄で、范陽防衛の功により員外散騎侍郎となり、父文偉の使者として髙祖に赴いた。中興初め平西将軍・光禄大夫、烏蘇鎮城都督で官に没した。
  • 懐道の弟宗道は麤率で任俠を好み、尚書郎・通直散騎常侍・南営州刺史代行を歴任。晋陽の酒宴で舎人馬士達に妓女を強いて与えた話や、督亢陂での宴で旧門生を溺死させた事件で除名された。

盧勇

  • 文偉の族人・勇、字は季禮。父の璧は魏の下邳太守。従兄景裕と共に学び、叔から「白頭にして文に通じるは景裕、武で成すのは季禮」と評された。幽州の反乱者僕骨那に范陽王とされ、葛榮の乱では燕王とされたこともあったが、盧文偉の挙兵の誘いには応じず、尒朱氏滅亡後に晋陽へ赴いた。丞相主簿として山東の租税輸送を厳格に管理し、琅邪公主の不正な僦車を弾劾して屈しなかったため、太祖(髙祖)に「盧勇は犯し難い威があり、真の公直の人だ」と評された。
  • 汝北太守、陜州・洛州事の代行。元象元年、広州包囲戦で西魏の援軍を察知し、百騎で幟旗を分散させ十隊に分けて鳴角して奇襲し、西魏の儀同程華を捕らえ王征蛮を斬るなど功を挙げ、広州事代行、儀同三司・揚州刺史として宜陽の叛民韓木蘭・陳忻らを大破した。髙祖から「卿に揚州を任せれば安心して高枕できる」との書を賜った。武定二年、三十二歳で没し、遺言により馬五百匹・甲仗を朝廷に献じ、司空・冀州刺史を追贈され、諡は武貞侯。