北齊書卷二十一 列傳第十三 髙昂

髙昂(字は敖曹、?–538年)は髙乾の第三弟。剽悍な武人として鳴らし、兄と共に爾朱氏討滅の義挙を主導、韓陵の戦いでは自ら率いる漢人部隊で爾朱兆軍を大破した髙歓政権の武功随一の将。元象元年、西魏軍との邙陰の戦いに敗れ単騎で逃れる途中、西軍に殺された。

年表(3件)

髙昂

  • 昂、字は敖曹。乾の第三弟。幼くして壮気があり、長じて奔放で膽力人に過ぎ、龍眉豹頸の異相であった。父は厳しい師をつけたが従わず、「男児たるもの天下を横行し富貴を自ら取るべきで、端座して読書し老博士になってどうする」と言い、兄乾と共に州県を劫掠し、剣客を招いて家財を尽くした。父は「この子は我が一族を滅ぼすか、あるいは大いに家門を興すかだろう」と語った。
  • 建義初め、兄弟で挙兵したが後に散じ、通直散騎侍郎・武城県伯となった。爾朱栄はこれを憎み、刺史元仲宗に命じて昂を捕らえ晋陽へ送った。栄の死後、荘帝に慰労された。爾朱世隆が宮闕に迫ると、昂は縛めを免れ甲を着て戈を横たえ、従子の長命らと共に突進して敵を退け、直閤将軍となった。
  • のち本郷に戻り部曲を集め、京師陥落後は父兄と共に信都で挙兵。殷州刺史尒朱羽生の急襲を軽騎で撃退し、後廃帝の下で冀州刺史となり、大都督として髙祖に従い広阿・鄴・韓陵で爾朱兆を討った。韓陵の戦いで髙祖が「高都督(昂)は純粋に漢人だけを率いているが、鮮卑兵を混ぜてはどうか」と問うと、昂は「敖曹の部曲は訓練が深く、雑えれば功争いや責任転嫁が起きる、漢軍のまま任せてほしい」と答えた。戦いで髙祖軍が一時不利になった際、昂は蔡儁と共に千騎で栗園から横撃し、爾朱兆軍を大破した。
  • のち侍中・開府、爵は侯・食邑七百戸。兄乾の死後、髙祖のもとへ奔った。斛斯椿の変では前駆を務め、武帝西遁の際は追撃したが及ばず引き返した。天平初め侍中・司空公を辞し司徒公に転じた。関隴出兵の際は西南道大都督として商洛山の険路を突破し上洛を陥し、西魏の洛州刺史泉企ら数十人を捕らえたが、竇泰の敗報で班師。この時流矢を受け重傷を負い、「弟の季式が刺史になるのを見られないのが心残りだ」と語ったため、髙祖は即座に季式を済州刺史に任じた。
  • 元象元年、京兆郡公・食邑千戸に進封。侯景らと共に独孤如願を金墉城に攻め、周文帝の救援軍と邙陰で戦って軍が敗れ、単騎で河陽へ向かったが城門が閉ざされ入れず、西軍に殺された。時に年四十八。使持節・侍中・太師・大司馬・太尉公・録尚書事・冀州刺史を追贈され、諡は忠武。子の突騎は早卒し、世宗は昂の第三子道豁を選んで嗣がせた。皇建初め昂は永昌王を追封され、道豁は開府儀同三司となり、周に入って儀同大将軍を授かり、隋の開皇中、黄州刺史で没した。

髙季式

  • 季式、字は子通。乾の第四弟で膽気があった。済州刺史として山東の賊劉盤陁・史明曜らを平定し、その後も濮陽の杜霊椿、陽平の路叔文、賊による南河郡攻撃などをことごとく討平した。私兵の部曲千余人・馬八百匹を擁し、越境しての討伐を咎める客に対し、「国と義を同じくする、賊を討たずにいられようか」と答えた。
  • 元象年間、西寇の大攻勢で髙祖軍が邙北で大敗した際、腹心が梁への亡命を勧めたが、季式は「一族は国の厚恩を受け高王と共に天下を定めた、身を引くのは不義だ、社稷が覆るなら城を背に戦って死ぬ」と拒んだ。侍中、冀州大中正を歴任し、清河公岳に従い寒山で蕭明を破り渦陽で侯景を破った。潁川の王思政攻略にも功があり儀同三司を加えられ、天保初め乗氏県子に封じられた。私的な交易で辺境に禁を犯し一時禁固されたが赦された。天保四年、疽を発病し年三十八で没し、諡は恭穆。
  • 季式は豪放で酒を好み、勲功に頼って検束を顧みなかった。光州刺史李元忠と親交があり、済州在任中、夜中に酒を届けさせたことを朝廷に知られても咎められなかった。黄門郎司馬消難(髙祖の婿)と酒宴で意地を張り合い、車輪で互いの首を括って一晩留めた逸話が伝わる。世宗はこれを聞いて美酒や珍味を消難に賜り、季式と親しい朝士にも季式邸での宴を許した。

髙氏一族の他の人物

  • 乾の長兄の子・永樂と次兄の子・延伯はいずれも温厚な人物として知られ、翼の挙兵に従った。永樂は衛将軍・右光禄大夫・冀州大中正まで進み、博陵太守として民事の不首尾により自殺、督滄冀二州諸軍事・儀同三司・冀州刺史を追贈された。子の長命は勇猛で果敢な武人として知られ、雍州刺史・鄢陵県伯を授かったが武定年間に侯景討伐で戦死し、冀州刺史を追贈された。延伯は安州刺史・万年県男を経て天保初め征西将軍に進み、没後太府少卿を追贈された。
  • 昂の挙兵を助けた豪俠の徒として、呼延族・劉貴珍・劉長狄・東方老・劉士栄・成五彪・韓願生・劉桃棒の名が伝わり、義挙に従った者として李希光・劉叔宗・劉孟和の名が挙げられる。いずれも仕官して顕達した。
  • 劉孟和は浮陽饒安の人で、劉霊助の挙兵に応じ、のち昂に従って冀州で力を尽くし都督となった。長広県伯を賜り上党内史などを歴任したが、武定元年、事に坐して死んだ。
  • 劉叔宗、字は元纂。楽陵平昌の人で学業があり、兄の海寶は昂の挙兵に応じて滄州を治めたが、尒朱に通じた前范陽太守刁整の弟子安寿に殺された。叔宗は昂に帰し、車騎将軍・左光禄大夫を経て天平二年に没し、儀同・定州刺史を追贈された。
  • 東方老、字は安徳。鬲の人で身長七尺、膂力に優れたが若い頃は無頼の徒であった。昂に従って軍功を挙げ南益州刺史などを歴任し、少数で衆を制する武勇で西人に恐れられたが、蕭軌らとの渡江戦で戦死した。
  • 李希光は渤海蓨の人。髙乾の挙兵に従い、後に潁川平定にも功を挙げ義寧県開国侯に封じられたが、天保中、蕭軌らとの渡江戦で戦死し、儀同三司・西兖州刺史を追贈された。族弟の子貢は貪暴の罪で世宗に殺された。
  • 蕭軌らの渡江戦(天保七年)は五将(蕭軌・王敬寳・李希光・東方老・裴英起)の不和が禍いし、五十余日の霖雨で兵器が使えず大敗、将帥はみな戦死した。裴英起は河東の人で、聡慧で滑稽を好み拘束を嫌う人柄であったが、開府尚書左僕射を追贈された。