北齊書卷二十一 列傳第十三 封隆之

封隆之、字は祖裔、渤海蓨の人。父の封回は魏の司空。爾朱氏討滅の義挙を髙乾と共に主導し、髙歓(神武)の覇業樹立を支えた功臣の一人。冀州刺史・侍中などを歴任し、武定三年、61歳で没した。子の子繪も刺史職を歴任して家業を継いだ。

年表(8件)
  • 延昌年間道人法慶の乱を大都督元遥と共に鎮圧し武城子に封ぜられる
  • 中興初め左光禄大夫・吏部尚書となり、爾朱兆の広阿・韓陵の戦いで功を挙げる
  • 武定三年斉州刺史在任のまま61歳で没する
  • 中興元年以後髙祖の爾朱兆討伐・中山平定・幷汾肆討伐に従軍し功を重ねる
  • 武定元年邙山の戦い後、天下統一の好機を髙祖に進言する
  • 河清三年暴疾のため50歳で卒する
  • 興和二年封延之、54歳で没し驃騎大将軍・尚書左僕射・司徒・冀州刺史を追贈される
  • 天保二年封孝琬、36歳で没する

出自と生い立ち

  • 封隆之、字は祖裔、小名は皮。渤海蓨の人。父の封回は魏の司空。隆之は寛和で度量があり、汝南王元悦の府で中兵参軍を務めた。延昌年間、道人法慶の乱を大都督元遥と共に鎮圧し武城子に封じられた。青斉二州の反乱には慰諭にあたり降伏させた。

義挙と髙祖への協力

  • 尒朱兆の乱で父が害されたことを恨み、東帰して義挙を図った。髙乾から挙兵を勧められ、共に冀州城を夜襲して奪い、乾らは隆之を郷里に信望厚いとして刺史に推した。髙祖が信都に至ると諸州郡の督将僚吏を集めて議し、隆之は「爾朱は天に見放され、大王の義旗こそ天下の帰趨だ」と説き、髙祖を励ました。
  • 中興初め左光禄大夫・吏部尚書。爾朱兆の広阿の戦い、韓陵の戦いで功があり、鄴城の鎮守や北道大使を任された。侍中となった際、斛斯椿・賀抜勝・賈顕智ら、さらに叱列延慶・侯念賢ら京師の要人が禍の種になると髙祖に進言し、髙祖はこれを深慮と評価した。安徳郡公・食邑二千戸、儀同三司。爾朱栄を明帝廟に配祀する朝議に対し、「栄は人臣でありながら主を殺した、母子を並べて祀るいわれがない」と反対し、その議に従わせた。
  • のち斛斯椿らに讒訴され鄉里に逃れたが、髙祖に無実を知られて呼び戻された。冀州刺史・侍中を歴任し、路紹遵の乱、勇果都督孛八・髙法雄らの乱を平定。髙仲密の叛乱の際は冀州の動揺を鎮め、世宗の「仲密の一族を厳しく処分せよ」との密書に対し、隆之は既に恩旨が行われた以上追改すべきでないと髙祖に進言して停止させた。義旗の初めより奇謀密計を髙祖に献じ、手書の草稿を破棄して外に漏らさぬなど忠謹を重ねた。
  • 済州事・斉州刺史を歴任し、武定三年、官にあって年六十一で没した。使持節・都督・驃騎大将軍・瀛州刺史・司徒公を追贈され、のち更に太保に進贈、諡は宣懿。髙祖は冀州境を通った際、隆之を偲んで涙を流し、太牢を供えて祭らせた。長子は早世し、次子の子繪が嗣いだ。

封子繪

  • 封子繪、字は仲藻、小名は搔。性は穏和で器量があった。父隆之の義挙に従い、髙祖のもとへ使いして開府主簿となった。中興元年以後、髙祖の爾朱兆討伐・中山平定・幷汾肆討伐に従軍し功を重ね、征南将軍・金紫光禄大夫に至った。父隆之が斛斯椿らの猜忌を避け郷里に潜んだ際、子繪も官を棄てて共に帰った。
  • 孝静帝の初め、李元忠らと共に地方の風俗視察の使者となり、髙祖の夏州征伐に従った。晋州北界の険路「千里径」に代わる新道を進言して開通させ、髙祖に穀二百斛を賜った。東雍・紫壁・喬山・紫谷・絳蜀などの討伐で兵糧輸送にあたった。
  • 武定元年、髙仲密の叛乱と周文帝の東侵を邙山で破った後、髙祖が窮寇を追い潼関へ進むべきか諸将に議らせた際、子繪は「賊将は名を偸む小人物にすぎず、天は淫を禍する、いまが天下統一の好機だ、昔魏の武帝が漢中平定後に巴蜀を取らなかったのは遅疑の失策だった」と進言し、髙祖は深く同意したが、盛暑のため出兵を見送った。
  • 髙祖没後、世宗は子繪を渤海太守とし、自ら「未だ勲望に釣り合わぬ郡だが、時勢が不安なので卿に鎮撫を頼む」と語った。以後太尉長史、南青州・南兖州・海州・合州・鄭州などの刺史を歴任し、政務に長け、合州では蕭軌ら敗走後の混乱を鎮め、城郭・軍備を修復して安定させた。船艦建造の大使も務め、陳の徐度らの夜襲を撃退した。
  • 司徒左長史、魏尹、大司農などを経て、髙帰彦の乱の際は皇帝から直々に慰撫の任を託され、旧領冀州の民心を鎮めて乱を平定に導いた。律令の議定に加わり儀同三司。河清三年、暴疾で卒し年五十。使持節・瀛冀二州軍事・冀州刺史・開府儀同・尚書右僕射を追贈され、諡は簡。
  • 子繪の弟・子繡は渤海太守・霍州刺史を歴任したが、陳の呉明徹の淮南侵攻で城を陥落させられ揚州に送られ、斉滅亡後隋に逃れ通州刺史で没した。俠気の強い人柄で知られる逸話が伝わる。

封延之(隆之の弟)

  • 封延之、字は祖業。明弁の才があり大行台左光禄大夫、郟城県子。渤海郡事、青州刺史などを歴任したが財利を好み受納が多かった。晋州事の代行中、髙祖の沙苑の敗戦に際し州を棄てて北走し、髙祖の怒りを買ったが隆之の縁で死罪を免れた。興和二年、年五十四で没し、驃騎大将軍・尚書左僕射・司徒・冀州刺史を追贈され、諡は文恭。子の孝纂が嗣いだ。

封孝琬・封孝琰(隆之の甥)

  • 封孝琬、字は子蒨。父は隆之の功により雍州刺史・殿中尚書を追贈された。七歳で孤児となり隆之に養育され、開府参軍事、司徒主簿、東宮洗馬などを歴任したが、天保二年に三十六歳で没した。恬静で文詠を好み、太子少師邢邵・七兵尚書王昕らと親交した。
  • 弟の孝琰、字は士光。太子舎人、晋州法曹参軍などを経て中書舎人、司空掾秘書丞などを歴任。和士開の母の喪に紛れた不謹慎な弔問客を風刺した発言が士開の怒りを買い、鞭百余を受けるなど不遇の時期もあった。のち聘周副使、文林館撰御覽に加わり、風流な人柄で人望を集めたが、祖珽に対して「あなたは衣冠の宰相だ」と評したことが近習の恨みを買った。尚書左丞として道人曇献の受納の罪を摘発した功で正授されたが、傲慢で時俗に合わず、最後は崔季舒らと共に正諫の罪で処刑された。時に年五十一。子らは辺境へ徙され、南安の敗戦で処刑された者もあった。

史論

  • 史臣曰く、髙・封の二公はいずれも尺土の資もないまま河朔で兵を挙げ、荘帝の讎を雪ごうとした壮挙は称えるべきである。本藩を平定した後は謙譲を守り、韓馥が袁紹の威に怯えて自滅したのとは異なる。髙乾らが髙祖を迎えたことでその本図が叶い、髙祖はこれによって覇業を成した。昂の膽力は万物に冠絶し、韓陵の勝利は風飛電撃のごとくであった。斉の元功はこの一門に尽きるが、潁川の元従や豊沛の故人でなかったために信任に十分でない点があり、その啓疏が天誅の口実に使われたのは枉濫の極みであった。子繪は才幹を称すべく、家業を継いで代々徳を重ねたのは美事である。

  • 烈烈たる文昭(髙乾)は雄図に契い、灼灼たる忠武(髙昂)は英資冠世なり。門下の酷(封孝琰)は進退谷まり、黄河の浜(髙慎)は義に蹈み身を亡ぼす。封公は矯矯として時屯を共済し、明徳を承け光を比べて日に新たなり。