四月 諸将への戦況報告の督促
- 呉三桂が湖南で死守を続け対陣が長引く中、安親王の萍郷攻略・長沙進迫、順承郡王の渡江、尚善の洞庭での勝利、彛陵賊の東下などの報が続いていることから、皇帝は坐塘筆帖式の伝聞情報では不十分だとして、大将軍らに現地の措置・呉三桂の所在・賊勢を随時詳しく上奏させ、機に乗じて進むよう命じた。
乙夘 萍郷防備の勅令
- 総督董衛国の上奏(逆賊数千が萍郷に迫る)を受け、安親王の後路として最重要な萍郷を、喇布・希爾根・董衛国らに厳重に防備させた。
丙辰 傅喇塔・傑書への督戦
- 傅喇塔は、康親王の督促に対する自らの言動の食い違いを弁明しつつ、温州が河に囲まれ進めないとした。皇帝は康親王に温州包囲を留め兵に任せ、自ら大軍を率いて衢州から江山の賊を討ち福建へ進むよう命じ、傑書・傅喇塔両者に不和を戒め協力を求めた。
- 史臣は、将帥の不和が事を誤ることを踏まえ、皇帝の温詔による和解の促しが、後の浙閩平定の基礎になったと評した。
戊午 戦船の増派
- 順承郡王勒爾錦の要請により、京口の沙唬船三十艘を荆州へ、江西製の得勝船も董衛国に送らせ、安徽巡撫靳輔には得勝船三十艘の造船を命じた。
辛酉 尚之信の叛乱
- 広東で総兵官苗之秀・副将呉啓鎮・遊撃李有才らが相次いで叛き、尚之信も呉三桂と内通、二月二十一日に服色・旗幟を改め父尚可喜邸を軟禁、砲撃で反乱を起こした。将軍舒恕は撤兵、副都統莽依図は肇慶を脱出、総督金光祖・巡撫佟養鉅・陳洪明は投降した。
- 皇帝は江南の防備を強化し、盛京兵・兖州驍騎を江南へ回し、将軍華善に平寇将軍印を授けて統轄させ、薩海・科爾拡岱を参賛、楊鳳翔を安南将軍として京口に配した。のち喇布の要請でこの兵の一部を江西援護に回した。
大将軍への長沙・吉安攻略の指示
- 尚之信の叛乱を受け長沙攻略を急務とし、察尼・蔡毓栄の荆州帰還兵を岳州へ回し尚善に陸路長沙進攻を命じた。喇布にも哈爾噶齊・額楚に吉安を速やかに取らせ、舒恕らと合流して閩粤の賊を防がせ、安親王の後継とするよう指示した。
戊辰 順承郡王勒爾錦の敗退と処分
- 三月二十七日、勒爾錦らが太平街で敗れ荆州へ退却し請罪した。皇帝は、勒爾錦が荆州到着以来州邑の失陥を招き三年間戦果なく逗留したことを厳しく咎め、察尼共々本来なら解任のうえ厳罰とすべきところ、戦陣にあることを考慮し留任のまま功で贖わせた。
- 史臣は、安親王の長沙進攻で荆岳方面の賊勢が衰えた好機に乗じるよう命じたにもかかわらず、勒爾錦らが太平街を得ながら守らず、暑さを口実に撤退して賊に長江の険を再び握らせたことを、皇帝の神算に背いた失態として評した。
辛未 尚善への長沙分兵の督促
- 尚善は水害・賊の妨害を理由に岳州兵の長沙派遣を渋り江西からの派兵を求めたが、皇帝は安親王が萍郷から長沙まで水路の障害なく進んだ実例を挙げてこれを退け、三眼橋・通城経由での急派を命じた。尚善は八旗驍騎八百・蒙古緑旗兵各五百を副都統阿進泰に率いさせ二十六日に通城経由で発した。
戊寅 商南方面の討伐
- 総督哈占の上奏により、龍駒砦・資峪鋪に拠る賊が商州・商南の路を阻み知県盧偀を殺害したことが報告され、将軍烏丹・席卜臣・哈占らに討伐を命じ、河南巡撫・総兵官にも境界の防備を固めさせた。