平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十五年 1676年

三月 海澄公黄芳度の追封

  • 漳州を孤守していた海澄公黄芳度は、康熙十四年十月六日に叛将呉淑が鄭錦を城内へ引き入れたことで漳州が陥落した際、副将蔡隆らと共に力戦して死し、一族も殉難した。皇帝はその忠節を賞し多羅郡王の例で王爵を追贈、大臣を派遣して致祭させ、子の芳世に海澄公を襲爵させ、芳泰には拝他喇布勒哈畨を与えた。同時に殉難した蔡隆・朱武ら諸将にも贈官・致祭・廕子を行った。

丙戌 秦州城北での勝利

  • 二月二十五日、呉之茂が万余の兵で秦州城北に迫ったが、佛尼勒・王進宝らの満漢兵がこれを大破し、偽総兵四人を殺し、偽総兵・参遊二百余人を捕らえ、二千余級を斬った。

庚寅 温州での勝利と康親王への督戦

  • 二月十七日、偽都督曽養性・偽将軍祖宏勲らの四万余の水陸兵の来犯を、傅喇塔の遣わした副都統吉勒塔布・沃伸巴図魯らが撃退し二万余を斬り、曽養性は馬を捨て水に逃れた。
  • 康親王傑書は、傅喇塔が温州攻略を渋り副都統穆赫林らも進まないため、江寧・広信の兵や崇明・京口の水師の増派を求めたが、皇帝は傑書の主張の変遷(当初は砲待ち、後には船待ち)を咎め、温州で既に大勝しているのだから残賊を速やかに滅ぼすべきとし、親征して福建進攻を急ぐよう厳命した。

尚善への督戦

  • 尚善は安親王の進軍に呼応しようとしたが、久雨で軍器が使えないとして動かなかった。皇帝は、安親王が萍郷・醴陵まで進む中、岳州だけ動かないのは奮戦の有無の差であるとして、速やかな進兵を命じた。

癸巳 勒爾錦への渡江督促と各地の戦況

  • 尚善らが呉三桂の援軍分派(馬寶を彛陵・南漳方面へ)を報告し、皇帝は安親王の長沙攻略を助けるため岳州攻略か糧道遮断を、勒爾錦・察尼には彛陵攻撃か渡江の構えを取らせた。南漳の賊が退けば南漳の兵を荆州に集中させるよう指示した。
  • のち勒爾錦は彛陵・南漳の満兵を荆州兵と合流させ、察尼に荆州を守らせ、自ら総督蔡毓栄と渡江を計画した。
  • 甲午、噶爾漢が太公山で賊三千余を撃破し馬騣嶺まで追撃、南漳で勝利した。
  • 己亥、尚善が君山を攻略、護軍統領額司泰の水師が南潯港・君山の賊船数百を撃破し、岳州城下の来援船も破り五十余艘を鹵獲した。

辛丑 湖南への増援

  • 岳州がなお未回復で安親王が湖南深く進軍していることから、河南戍守兵・盛京兵を岳州へ増派し、達漢泰・沙禮に統率させた。

壬寅 陳福の公爵追贈

  • 兵変で殺害された陳福について、族弟陳禎の証言をもとに実情を調べさせ、忠貞の功績を賞して三等精竒尼哈畨の公爵を追贈し世襲・二度の致祭を許した。

庚戌 勒爾錦の渡江作戦と佛尼勒の秦州援護

  • 勒爾錦は彛陵・南漳の兵を撤し察尼に荆州守備を委ね、十八日に文村で渡江、石首・虎渡口で賊を破り二営を焼いた。察尼も十九日に太平街で賊を破り営を焼いた。
  • 佛尼勒らは、平凉の偽総兵李国良・王継禎が八千余の兵で靖寧から秦州救援に向かっていると報告、皇帝は張勇・華善と協議しこれを迎撃し靖寧を回復するよう命じた。

壬子 江西提督人事の変更

  • 喇布の上奏により、貴州提督趙頼を吉安・撫州等六府提督として南昌へ、提督趙国祚を九江・袁州等六府提督とし、湖口駐屯の貴州左路総兵官馬程雲を九江総兵官とする人事を認めた。あわせて吉安攻略を、緑旗兵の調達を待たず哈爾噶齊・額楚らに急がせるよう喇布に命じた。