五月 長沙包囲の地方統治と緑旗論功
- 安親王岳樂の要請により巡撫韓世琦の標下官兵を長沙軍前へ回し、岳州の軍需は湖南布政使安世鼎に統轄させた。あわせて叛乱以来功のあった各省緑旗官兵の論功行賞を兵部に命じた。
乙酉 鄖陽撫治の再設置
- 楊来嘉ら興安の賊が鄖陽西方に盤踞し統制が困難なため、議政王らの要請により旧河道総督楊茂勲を鄖陽撫治として復置した。
丁亥 河東諸堡脅従民の赦免
- 提督趙良棟の上奏(陳福遭難後に脅されて賊に従った河東諸堡二十余が招撫に応じ投誠)を受け、脅従の民を寛宥し撫綏を続けるよう命じた。
癸巳 南贛の固守と吉安攻略の督促
- 韶州・南雄の陥落で舒恕・額赫訥らが南贛へ退いたため、南安・贛州・梅嶺の固守を命じ、あわせて董衛国の上奏(南安の兵餉窮乏、贛州の孤立危急)を受け、喇布に哈爾噶齊・額楚・趙頼らへ吉安攻略を急がせ、舒恕らとも間道での挟撃を検討させた。
乙巳 平凉城北での勝利
- 図海が平凉城北虎山墩で万余の来襲する賊を迎え撃ち、偽総兵二人を斬るなど大勝、馬・器仗を多数鹵獲した。
戊申 王進宝の子・用予の副将抜擢
- 王進宝が病身のため長子用予を軍事に慣れさせたいと願い出、皇帝はこれを認めて副将に抜擢した。
六月甲寅 喀喇沁諸部兵の調発と江西援兵
- 哈喇沁・土黙特等十旗の兵を馬の肥痩に応じ調発する方針を示した。あわせて喇布の要請により池州・江寧の兵を江西へ回し、吉安攻略には紅衣砲十具の急送も命じた。郎中温岱・麻爾図・色度をそれぞれ長沙・荆州・岳州へ派遣し軍情を視察させた。
丙辰 簡親王喇布の袁州移鎮
- 董衛国の上奏(賊船の頻出、孫延齢の賊船来援、攸県侵犯)を受け、喇布・希爾根に無事な地方の兵を袁州へ回して防禦させた。
癸亥・戊辰 尚善の岳州船建造と江西援兵
- 尚善の得勝船(岳州不適)を鳥船に改めさせ、靳輔に十艘の急造を命じた。あわせて尚之信の叛乱と孫延齢・馬雄の江西侵犯を踏まえ、尚善に岳州の余剰兵を江西へ回すよう命じた。
庚午 尚之隆らの赦免
- 尚之信叛乱後、弟の額駙尚之隆が自ら請罪したため、尚可喜の功に免じ寛宥した。
壬申 錫三らの江西派兵
- 四子・蘇尼特らの兵を大同・太原経由で河南へ、さらに京城の護軍・烏拉寧古塔兵を副都統錫三に統率させ江西へ派遣した。
戊寅 王輔臣の投降
- 図海が平凉大破後に周昌を遣わし招撫、王輔臣は当初躊躇したが十五日に図海の営で叩頭謝恩し薙髪して投降、固原・慶陽・峪関・関山・雲南土司らも相次いで来降した。皇帝は図海の功を大いに賞し三等公に封じる方針を示し(後述丙子)、王輔臣も原官に復し太子太保・靖冦将軍に擢した。
- 史臣は、洞鄂の逗留で長引いた平凉攻略が、図海の的確な指揮により旬日で決したことを、皇帝の知人善任によるものと評した。
己卯 猓苗官兵の雲南送還
- 平凉で投降した猓苗官兵を、家族への害を懸念して各一級の加増と賞賚のうえ雲南へ送還し、原籍での招撫にも当たらせた。史臣は、誅殺せず放還する皇帝の恩が後の雲南平定で猓苗の協力を得る基盤になったと評した。
- あわせて土司総兵陸道清・叅将黄九疇・道周昌を湖南への招撫使に任じた。
康親王への進兵督促
- 喇布の上奏(耿継善が建昌・新城の営塁を焼いて撤退)を受け、閩中の内訌に乗じて傑書・傅喇塔・頼塔・李之芳らに進兵を急がせた。