後漢紀巻第二十三 孝靈皇帝 建寧元年 168年

即位と人事

  • 春正月己亥、上は召されて都に到着し、大將軍竇武が節を持って夏門亭で迎えた。庚子、皇帝の位に即いた。
  • 太尉陳蕃を太傅とし、將軍竇武と司徒胡廣に録尚書事を兼ねさせた。
  • 詔があった。太傅陳蕃は先帝を輔弼して命令の出納も適切で、直言の節を朝廷に示した。朕は即位のはじめ自ら策命を授けた。忠実篤厚の性は老いていよいよ純である。蕃を高陽侯に封ずる、と。蕃は固辞し、十餘度も上章してようやく許された。
  • 三月辛丑、孝桓皇帝を宣陵に葬った。庚午、天下に大赦し、男子に爵を賜い、孝悌・力田には差をつけて帛を賜った。
  • 夏四月甲午、祖父の解瀆亭侯淑を孝元皇帝、父の嗣侯萇を孝仁皇帝、妃の董姬を慎園貴人と追尊した。戊辰、長樂衛尉王暢を司空とした。
  • 五月丁未朔、日食があった。六月癸巳、帝を立てた策定の功を録して竇武・曹節ら十一人を列侯に封じた。
  • 八月、司空王暢が災異により策書で免ぜられ、宗正劉寵が司空となった。

王暢と張敞・劉表

  • 暢は字を叔茂、太尉龔の子である。はじめ南陽太守となったとき禁令を設け賞罰を明らかにし、太守着任後に故意に法を犯した者には家を壊し木を伐り井を塞ぎ竈を移す処分を加えたので、豪強は震えあがり、店の開閉も早めるほどだった。
  • 功曹張敞が諫めた。経典に伝えるところでは、殷の湯は網の三面を開いて四方が仁に帰し、武王は炮烙の刑を除いて天下が服した。高祖は創業に際して法三章を約し、孝文は刑を寛くして太宗と称えられた。卓茂や文翁の類はみな厳酷を去って温和を尊んだ。明哲の君は舟を呑む魚も漏らすほどの網を用い、そうしてこそ日月星は上に明らかに、民と物は下に和する。舜が皋陶を挙げると不仁の者は遠ざかり、隨會が政を執ると晉の盗賊は秦に逃げた。民を治めるのは徳によるので刑によるのではない、と。暢はそこで寛大を尊び刑を慎み、賢者を表彰し徳を顕彰した。
  • 暢は郡の風俗が奢侈なので、自ら質素にして矯正しようとし、粗い布の衣を着て羊皮を張った車に乗り、厩の馬が痩せ疲れても改めなかった。
  • 同郡の劉表は当時十七歳で暢について学んでいたが、進み出て諫めた。奢っても上を僭せず倹しくても下を圧迫せず、道を守り礼を行うのは可と否の中間に処するのを尊ぶという。清くとも魚の鱗をさらさず、濁っても泥を汚さない。蘧伯玉は自分だけが君子であることを恥じた。府君は孔子の明訓を望まず伯夷・叔齊の末節を慕われる。それでは白々と世に自分を高しとすることになりはしないか、と。
  • 暢は答えた。昔、公儀休は魯にあって園の葵を抜き織り女を追い出し、孫叔敖は楚の相となってその子は皮衣を着て薪を刈った。慎ましさによって失う者は少ない。伯夷の風を聞けば貪欲な者も廉となり臆病な者も志を立てる。不徳ながら高い風格を慕い、また俗を矯めようとしているのだ、と。

陳蕃・竇武の宦官誅滅計画

  • 太后が摂政したばかりで、政治の大小を多く陳蕃に委ね、竇武と心を合わせ力を尽くして王室を助け、天下の名士を召し用いて政事に参与させた。そこで天下の英俊はその方針を知り、みな首を伸ばして太平を待ち望んだ。
  • その後、中常侍曹節と上の乳母趙嬈が太后に取り入り、太后は信じてしばしば詔命を出して封爵・任官を行った。蕃と武が諫めるたび許されなかった。
  • 日食の異変があり、蕃が武に言った。昔、蕭望之は石顯に殺され、李固・杜喬の禍は妻子にまで及んだ。石顯一人でも望之は死んだ、まして数十人ではどうなるか。趙夫人は朝夕政治を乱し、その害が最も甚だしい。蕃は余生を投げ出して将軍のためにこれを除きたい。災異に乗じて佞臣を除くのを誰が不可と言おうか、と。
  • 武も謀り、蕃の言を深く容れて太后に言った。旧例では内官は門戸を管理し身辺に仕えるだけだった。今は政事に参与して朝廷で貴顕となり、父子兄弟が並んで位にあり、天下は騒然としてこれを患いとしている。今すべて除くべきだ、と。
  • 太后は言った。これらもみな天が生んだものだ。漢の元帝以来代々職務に用いられてきた国の旧典である、どうして廃せよう。ただその悪い者を誅すればよい、と。武は慎重な性格で、疑って決断しなかった。
  • このとき太白が上将の星を犯し、また太微に入った。侍中劉瑜はもとより天文に明るく、蕃に書を送った。星辰が錯乱して大臣に不利である。先に謀ったことは速やかに決断すべきだ、と。

曹節らの先制と竇武・陳蕃の敗死

  • 蕃と武は書を得て事を起こそうとし、朱㝢を司隷校尉、劉祐を河南尹とした。武は中常侍曹節・長樂食監王甫らの逮捕を奏し、侍中劉瑜にその奏を取り次がせたが、計画がかなり漏れた。
  • 節らは劉瑜の奏を盗み出して事情を知った。節は言った。先に先帝の宮人が武の父子に嫁ぎ、それぞれ十餘人ずつ引き取っている。これは大罪だ。自分の身が正しくないのにどうして人を正せようか、と。中黃門朱㝢は言った。その中で放縦な者は誅されて当然だが、我々に何の罪があるか、と。そこで同輩十餘人と結束して武らを誅することにした。
  • その夜、詔を偽って王甫を黃門令とし、節を持たせて尚書令尹勲を誅させ、あわせて太后を脅して璽綬を取り上げた。
  • 九月辛亥、節は帝に前殿への出御を請い、公卿百官を召して司隷校尉と河南尹を交替させ、中謁者を遣わして南北の宮を分けて守らせた。節は詔と称して大將軍竇武を捕らえようとしたが、武は詔を受けず、子の紹とともに北宮の兵二千人を率いて洛陽都亭に陣取った。
  • 太傅陳蕃は兵が起こったと聞き、属官や諸生八十餘人を率いて承明門に至った。使者が入れずに、公はまだ詔で召されていない、どうして兵を率いて宮に入れようかと言った。蕃は、趙鞅は兵を専断して宮に向かい君側の悪を追った、春秋はこれを義とすると言った。使者が出て門を開いた。
  • 蕃は尚書の門に至って正色して言った。大將軍竇武は忠をもって国を衛っている。黃門・常侍は無道にも忠良を誣いようとするのか、と。
  • 黃門王甫が言い返した。先帝が世を去ったばかりで山陵も成らないのに、武に何の功があって兄弟父子が並んで三侯に封ぜられたのか。しかも音楽を設けて宴を張り、掖庭の宮人を多く引き取り、十日ほどの間に巨万の資財を得た。大臣がこれで道といえるか。公は宰輔でありながらむやみに党を組んで庇う、何を求めているのか、と。
  • そして剣士に蕃を捕らえさせた。蕃の声はいよいよ厳しく、言葉も気迫も屈しなかった。蕃は北寺獄に送られた。
  • 節はまた詔と称して少府周静に車騎將軍の任を代行させ、匈奴中郎將張奐と王甫が節を持ってともに武らを討ち、武と宮門の下で兵を構えた。
  • 甫は自軍に令した。黃門・常侍が反逆無道なのではない、なぜ皆それに従って反するのか。先に降れば重い賞がある、と。宮中は久しく権勢を握っており士はみな畏れていたので、武の兵数十人ずつがそれぞれ隊を作って甫の軍に帰した。朝から食事時までに兵はほとんど降り尽くし、武は自殺し、紹らは逃げ、靖らはみな斬られた。紹の弟の機や親族・賓客もことごとく誅された。
  • 蕃も殺され、妻子は日南に移された。皇太后は雲臺に移された。こうして公卿以下、かつて蕃や武に推挙された者はみな免官・禁錮された。

陳蕃の経歴

  • 蕃は字を仲舉、汝南平輿の人。はじめ袁閎が郡の功曹だったとき、蕃を挙げて自分に代えようとし、陳蕃には政を匡し輔ける才があり長く埋もれさせてはならない、礼をもって招くべきだと言った。こうして郡功曹となり、賢良方正に挙げられたがいずれも就かなかった。
  • 桓帝の初め俊才を広く招いたとき召されて議郎を拝し、起用されて尚書となり、次第に九卿に進んだ。はじめ豫章太守となったとき、ただ一つの榻を用意して徐孺子を待ち、ほかの者は接することができなかった。その高潔・簡素・清明・正直はみなこの類だった。

劉寵の清廉

  • 丙辰、司徒胡廣を太傅・録尚書事とし、司空劉寵を司徒とした。
  • 寵は字を祖榮、東萊牟平の人。はじめ會稽太守となり、身を正して下を率い、郡中は大いに治まった。召されて將作大匠となるとき、山陰県に八十餘歳の老人が数人、若邪山の下、郡から十里のところに住んでいたが、寵の転任を聞いて連れ立って送りに来て、一人百銭を持参した。
  • 寵がなぜわざわざ苦労して来たのかと問うと、老人は答えた。山谷の田舎老人で郡県に出たことがない。以前は役人が徴発に来て居座り、民間では犬が夜通し吠えて民は安んじられなかった。明府が着任してからは役人が民間に来ることは稀で、犬も夜に吠えない。老いて聖なる教化に遭った。今、去られると聞いて力を振り絞って送りに来たのだ、と。
  • 寵は、自分がどうしてあなたがたに及ぼうか、たいそうな苦労をかけたと言い、父老のために大銭を一枚だけ選んで受け取った。そこで會稽では「一銭を取る」と呼ばれた。その清廉さはこの通りで、衣服は粗末で車馬も古びていた。
  • 人と交わるときは恭しく、朝廷では正色して私事で頼み込むことができなかった。門を閉ざして静かに暮らし賓客に接せず、子孫を教えるだけだった。だから進んでも憎まれず退いても謗られなかった。

論功行賞と鮮卑の侵入

  • 曹節ら十八人を列侯に封じた。陳蕃・竇武を討った功による。
  • 十月甲辰の晦、日食があった。
  • 鮮卑が幽州を侵し吏民を殺して掠奪した。これ以後、辺塞を侵さない年はなくなった。
  • 陳蕃・竇武の誅殺を天下は冤とした。曹節は名賢を招き礼遇して自分の罪を覆い隠そうとし、帝に言って姜肱を犍爲太守、韋著を東海相に任じさせた。
  • 招請の書は切迫していたが、肱は海に浮かんで逃れ、ついに屈せず去った。著はやむなく頭巾を解いて郡に臨んだが、政治は威圧と刑罰に頼り妻子は放埒で、処罰を受けた家から告発され、左校に送られた。刑を終えて郷里に帰り、悪人に殺された。