後漢紀巻第二十二 孝桓皇帝 永康元年 167年

辺境と単于の交替

  • 原文はこの年の元号を「元康元年」に作る。
  • 春正月、西羌が三輔を侵し、夫餘の夷王が玄菟を侵した。
  • 夏四月、中郎將張奐が、南単于車兒は国事を治められないとして左鹿蠡王都紺を単于に立て直すよう上言した。詔があった。春秋は正統を守ることを重んじる。車兒は一心に教化に向かっている、何の罪で退けるのか。送り返して部落を統べさせよ、と。
  • 五月壬子の晦、日食があった。

荀爽の対策

  • 六月甲寅、詔して公卿・校尉に賢良方正各一人を推挙させた。潁川の荀爽が対策を述べた。
  • 火は木から生じるからその徳は孝である。漢の皇帝の諡に「孝」と称するのはこの義を取ったもの。だから漢の制度では天下に孝経を講じさせ、官吏の選抜には孝廉を挙げる。孝を務めとするからである。
  • 親の喪に心を尽くすのは孝の完成である。今、二千石が三年の喪を全うできないのは、孝の道でもなく火徳を称するゆえんでもない。近ごろ世継ぎがしばしば絶え一族が繁らないのも、その咎はこれによらぬとは限らない。
  • 昔、孝文は労を惜しまず謙譲で自らを慎み、行いは倹に過ぎたので、日を月に代える喪礼の遺詔を残した。これは伯夷や柳下惠のように俗を激するもので、自身に適うだけのことであり、万世に通すべきではなく、後の世が徳を継ぐべき例ではない。古今の増減はあっても、諒陰の礼をそのまま行えないにせよ、その形を残して天下に示すべきである。
  • また公卿・二千石はみな主君を輔け教化を宣べる政治の根本なのに、父母の喪に赴かせないのでは人としての義が廃れる。春秋伝に「上の行うところは民の帰するところ」という。上が行わないのに民が行うから罰を加えるのだ。もし上が行い民も行うなら、それはその教化に向かうことで、どうして誅そうか。大臣がみな三年の喪を行わないなら、何をもって民を責められよう。古は臣に大きな喪があれば君は三年その門を呼ばなかった。旧礼どおりにして風俗を美しくすべきである。
  • さらに述べた。夫婦があって後に父子があり、父子があって後に上下があり、上下があって後に礼義がある。だから夫婦の始まりは王者の教化の端緒である。孔子は「天は尊く地は卑く、乾坤が定まる」と言い、書は「二人の娘を嬀汭に降嫁させた」という。帝堯の娘でも虞に嫁げば身を屈して婦の道に下ったのだ。春秋の義では王姫が齊侯に嫁ぐとき魯に婚儀を主らせ、天子の尊さを諸侯に加えなかった。
  • 続けて述べた。今、漢は秦の法を承けて公主を娶る儀を設け、妻が夫を制して陽が唱える義を失い、卑が尊に臨んで乾坤の道に背いている。まことに公主降嫁の制を改めて尊卑の性に合わせれば、めでたい瑞が天から降り吉兆が地から出て、万物はそれぞれの秩序を得る、と。
  • 上書を奏すると爽はそのまま職を捨てて去った。庚午、天下に大赦した。

黄龍の出現と桓帝の崩御

  • 秋八月、黄龍が巴郡に現れた。もとは民が池で水浴びしながら、この中に黄龍がいるとふざけて言ったのが民間に広まったもので、太守がそれを上言し、当時の史官が書いて帝紀に載せた。このころ政治は衰え乱れていたが、居所ではしきりに瑞祥を言い立て、いずれもこの類だった。本志には、瑞が時ならず現れれば妖孽となるといい、言は虚偽でもこれは龍の孽である、とある。
  • 冬十月壬戌、南宮の平城門内の建物が壊れた。
  • 十二月丁丑、帝が德陽殿で崩じた。

後嗣の決定

  • はじめ河間孝王が解瀆亭侯淑を生み、淑が萇を生み、萇が宏を生んだ。帝が崩じて嗣子がなかったので、大將軍竇武は御史劉儵を召した。儵は宏を大いに称賛し、武は太后と宮中で方策を定めた。
  • 太后の詔があった。大行皇帝は徳が天地に配し光は上下を照らしたが、世継ぎの幸いを得ず早く万国を棄てられた。朕は憂いに心を痛める。前代を顧みるに、王后に嫡子がなければ六親のうちから賢者を択び、徳を考え才を序列するのが法である。解瀆亭侯宏に及ぶ者はない。年は十二で、周の成王のような資質が際立っている。春秋の義に、人の後嗣となる者はその子となるという。宏を大行皇帝の嗣とし、光禄大夫劉儵に節を持たせて封国に遣り奉迎させよ、と。