老子祭祀と勃海王悝の謀反
- 春正月、中常侍左悺を苦県に遣わして老子を祠らせた。上はこのとき初めて神仙の事を好むようになった。
- 勃海王悝が謀反し、定陶王に移された。
日食と劉淑の対策
- 丙申の晦、日食があった。詔して公卿・校尉に賢良方正各一人を推挙させた。
- 河南の劉淑が対策を述べた。天の道を立てるものは陰と陽、人の道を立てるものは仁と義である。だから夫婦が正しければ父子は親しみ、父子が親しめば君臣は通じ、君臣が通じれば仁義が立ち、仁義が立てば陰陽が和して風雨が時にかなう。
- さらに述べた。吉凶は人にあり水旱は政治による。権勢が臣下にあれば地が震え裂け、下情が通じなければ日月が明を失い、百姓が怨めば水旱が突如起こり、君主が驕り満ちれば恵沢が下に流れない。ここから見れば君は綱、臣は紀である。綱紀が整えば網の目はすべて張り、君臣が正しければ万国が治まる。父は慈しみ子は孝、夫は信、婦は貞、兄は愛し弟は順うようになれば、陰陽も風雨も時にかない万物はところを得る、と。
鄧皇后の廃位
- 癸未、皇后鄧氏を廃した。后は驕り嫉妬深く、上の寵愛する郭貴人と互いに讒訴し合っていた。そのため廃されて憂いのうちに死に、親族はみな免官されて本郡に帰された。
- 三月辛巳、天下に大赦した。夏四月丁巳、諸々の淫祀を取り壊した。壬戌、黄河の水が澄んだ。
太尉楊秉の死
- 五月丙戌、太尉楊秉が薨じた。字は叔節。若くして父の学問を受け継ぎ、隠居して三十餘年教授してからようやく司空の招きに応じ、次第に刺史・二千石に進み、赴任先ではいずれも治績があった。
- 三公の子でありながら州郡を歴任するあいだ常に布衣・粗食で、老いても改めなかった。公卿の位にあっては朝廷に過失があるたび心を尽くして諫め、退くと草稿を削って捨て、子弟にも知らせなかった。
- 酒を飲まず、早くに夫人を亡くしてからは再婚せず、赴任先ではその純正さを称えられた。かつて「自分には三つの惑わないものがある、財と酒と色だ」と語った。子の賜も儒者としての行いを顕した。
- 六月、匈奴が辺境を侵し、郎將度尚が撃った。九月、京師で地震があった。
陳蕃、太尉となり宦官の政治関与を諫める
- 冬十月丙寅、太中大夫陳蕃が太尉となった。蕃は辞退して言った。僭らず忘れず旧来の制度に従う点では太常胡廣に及ばず、七政を整え五典を教える点では議郎王暢に及ばず、文武を兼ね備えて万里の外を制する点では刑を解かれた司隷李膺に及ばない、と。上は許さなかった。
- 蕃はさらに上書した。昔、齊桓公は管仲を用いて諸侯を正そうとしたが、まず政令を整えた。今、寇賊が国外にあるのは手足の病にすぎない。臣は眠れず食も進まぬほど、陛下の内政が治まらず忠言が日ごとに遠ざけられるのを憂えている。
- 続けて述べた。先に梁冀と五侯が権を弄び、天が陛下を導いてこれを捕らえ誅した。当時天下は「小さな清明」と呼んだ。その戒めは遠い昔ではないのに、また同じ轍を踏もうとしている。往年の地震・日食・火災はみな陰の盛んな応報である。願わくは側近が政治に関与する根源を断ち塞ぎ、尚書を引き入れて朝廷の政務に当たらせ、高潔な者を選び佞邪を退けてほしい。そうすれば天は上で和し地は下で潤う。
- さらに述べた。陛下の即位以来、大臣で誰が側近の罪を挙げえたか。昔、申屠嘉が鄧通を召したとき、文帝は通を嘉の役所に行かせ、そのうえで赦しを請うた。三公の職は統べぬところはないのに、側近を驕り高ぶらせ、三公に筆を執らせまいとしている。臣蕃は民間から抜擢され、ことに陛下の光に照らされた。これほどの恩を受けながら難を避けて生き延び、正論を言わずにいられようか。陛下が臣の苦言を厭われても、君主には自ら励むべきところがある、と。
- 奏書が上ると上は不快を示し、いよいよ蕃を疎んじた。
竇皇后の冊立
- 辛巳、皇后竇氏を立てた。かつて竇憲が誅されて以来、その一族は庶民に落とされていた。
- 竇武は字を游平、若くして学問と徳行があり、常に大きな沢のほとりに静かに暮らして世事に関わらず、遠方から百餘人の門生が来て学んだので、名は關西に聞こえた。
- 武には五男二女があり、長男は紹、次が機、次が恪、長女の妙が皇后となった。上は武が三輔の名族で高い声望があるので、后が後宮に入ってひと月余りで皇后に立てた。
- 武は少しも喜ばず、病身を車に乗せて京師に至った。武を特進・城門校尉に任じ槐里侯に封じ、紹を虎賁中郎將とした。武は重病と称して爵位を固辞した。
- 勃海の盗賊盖登が太上皇帝を自称し、誅された。
- 十二月、中常侍管霸を苦県に遣わして老子を祀らせた。